団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

半径2メートルの幸せ

2011年09月01日 | Weblog

 (都合で9月5日分を本日投稿します)

 

 私の家は、近所で最も早く電話が入った。いまから50年以上前の話である。当時、近所との付き合いは、今よりずっと密接だった。電話だけでなく、物や食料品の貸し借りも多かった。私の家は、北を国道、東を市道、南を川、西を私鉄線路に囲まれた区画の中にあった。その四角の区画の半分、国道、市道、線路に接する約百坪が我が家だった。南側の裏庭つづきに3軒の市営住宅があった。つまりその小さな道路や川に挟まれた区画に、私の家を含めて4軒の家があった。市営住宅3軒のうちの一軒に按摩をしているI家族が住んでいた。この家には男の子だけの7人の子供がいた。Iさんは盲学校の校長をした人だと父が言っていた。父はその家の6男Kをかわいがっていた。私より4歳年上だった。父はKにおやつをあげたり、山菜取りや魚獲りにも自分の子どもと一緒によく連れて行った。Iさんは偏屈で子どもにも厳しかったが、子どもたちは皆優秀で、5人が国立大学に進学していた。Iさんはそれが自慢だった。父は時々Iさんに按摩を頼んだ。話好きなIさんは、按摩しながら市内の顧客の話をあれこれと父に語っていた。私も一緒になってIさんの話しに耳を傾けた。Iさんの話しの中には、どこどこの家の子どもが、どこどこの大学に合格したという類いの話と、Iさんの何番目の息子が、どこどこ大学を卒業してどこどこへ就職したという自慢話が多かった。この按摩のIさんは、隣のNさんとは犬猿の中だった。Nさんは高校の教師だった。Nさんは奥さんと二人暮らしで子どもはいなかった。IさんとNさんは、塀越しに言い争いが絶えなかった。子どもの私が怖くなるほど、IさんとNさんの罵り合いは過激だった。しかし、ある日Nさん夫婦が突然、夜逃げ同然にいなくなり、塀越しの怒鳴りあいもいつしか消えた。あの汚い恐ろしい言葉の応酬と、父の按摩に来ていた時のIさんの形相と言葉遣いの違いに小学生だった私は戸惑った。

 そんな近所付き合いのなか、いち早く電話を入れた我が家は、ずいぶん長い間、近所の3軒のための公衆電話の役割をになった。「電話です」と伝令に出されるのは圧倒的に私が多かった。一番電話が多かったのはIさん宅である。ほとんど出張按摩の依頼である。私は、Kは好きだったけれど、Iさんが苦手だった。Iさんの家と私の家は裏庭でつながっていたが、道路伝いに行くと遠回りだった。私は子どもの頃から横着で、「電話です」は、裏庭からIさんの家の勝手口に向かって大声で発せられた。我が家の電話に走ってくるのは、Iさんの奥さんだった。奥さんは道路づたいに大回りして我が家にくるので、それだけでも4,5分かかる。電話がかかってきて呼びに行き、奥さんがやってきて話し終わるのに10分以上かかる。一日に3回4回とかかってくることもあった。電話のたびに駆けつけてくる少し目が悪い奥さんは、痛々しいくらい夫に絶対服従の女性だった。庭越しにIさんに大声で怒鳴られているのがよく聞こえてきた。そんな奥さんの姿と、Iさんの怒鳴り声に、横着な私も裏庭越しの呼び出しが何となく気が引けて、いつしか私もIさんの奥さんのように、道づたいに大回りしてIさん宅への電話伝令をするようになった。使いに出されるたびにうんざりして、I家のことをうとましく思った。「こんなに仕事の依頼があるなら、自分で電話を入れろよ」と事情も知らずに怒った。当時、電話を入れるにはお金もかかり、お金があって権利を買っても電話が自宅に入るには2-3年待つのが普通だった。Iさんの家は子沢山でお金の余裕もなかっただろうと今にして思うのだが、その当時はむやみに腹がたった。

 Iさんは盲学校の校長を勤めたほどの人なのだから、それなりの理性と教養を備え持っている人だと私は、勝手に思い込んでいた。ところがIさんは、私が最初の結婚をした頃、私が小学生の時から算数の計算もろくにできないとか、あることないことを言いまわって私の結婚に難癖をつけていたと結婚相手の関係者から聞かされた。大きなお世話である。私は確かにI家の子供たちと比べれば、学校の成績は良くなかった。でも嫌々ながらでも、少なくても何年間も電話伝令としてI家の役にたったはずだ。そのことを言いふらしてくれるならともかく、私の悪口を言っていたとは、その無節操と言うか、意地の悪さにあきれた。親切とか人助けとこちらが勝手に思っていただけだったのである。Iさんはすでに鬼籍に入った。いまだにこの人物が私の夢に登場して私を口汚くののしり、もの凄い形相で私を追い回す。そんな時はじっとりと不快な脂汗が流れる。

 自分の知らないところで他の人が何を言っているのか知る由もない。人の口には戸が立てられない。世間がどれほどその意味で恐ろしいか、私も歳を重ねるごとに知らされた。でも今は、世間から身を守る方法を知って、それを実践している。私と同じ考え方を流通評論家金子哲夫の『超三流主義』(扶桑社 1260円)の中に見つけた。“半径2メートルの幸せ”と金子は呼ぶ。つまり自分の目の前にいる人を、何より大事にしようと努める生き方である。私は実測的にも、精神的にも半径2メートルに入る人と、私の回りのたくさんの良い本も加えて、半径2メートルの幸せを大事にする生き方に大賛成である。


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ツェツェ蝿

2011年09月01日 | Weblog

 電車の中吊り広告に「実は日本人の8割が「かくれ不眠」 眠れないままがんばるより」を見つけた。何の広告だったか覚えていない。数日前に妻と睡眠について話し合ったばかりである。8割に自分が含まれず、妻だけ入っていることに劣等感のような嫌な気分になった。

 私は不眠で悩んだことはない。それどころか横になるといつのまにか眠ることができる。夜、妻に「おやすみ」を言った後は「起きれば朝」の連続である。一方妻はまさに逃げも隠れもしない堂々の不眠に属する。妻は私がアフリカでツェツェ蝿に刺されたのかもしれないと冗談をいう。このツェツェ蝿は、吸血性で口吻が針状になっている。血を吸われると、そこからトリパノゾーマという寄生虫が人の体内に入って、アフリカ睡眠病を発症させ昏睡状態におちいる。結婚は低いほうに何事も統合される、という説があると聞いた。そのためか妻は私と結婚してから、以前ほどの不眠ではないという。

私のアクビは、強烈な伝染力を持っていると妻は言う。そう言われると確かに私が電車などの公共の場所でアクビをすると必ず連鎖反応のようにあちこちでアクビが始まる。これは日本国内だけでない。海外の空港で乗り換え便の待ち合わせをしていた時も、いろいろな国の人々が人種にかかわらず私のアクビに明確な反応があった。こうしてアクビのことを書いただけで、さっそく私はアクビをもよおし、しっかり大きく酸素を取り入れるために口を大きく開いた。

 あまり良く寝られるので、私は私なりに心配もある。脳の検査を受けたとき、医師は「脳と頭蓋骨のすき間が拡大しています。1年ごとの検査を受けてください」とCTの画像を見ながら、眉間にシワを寄せて言った。私はだれに言われなくても、すでに自分の脳が老化してきていることを充分知っている。ナポレオンが一日3時間しか眠らなかったことも知っている。偉人や成功した人が眠りをむさぼるという話は聞かない。眠らないのも健康によくないが、眠りすぎるのはもっと健康に悪いと聞いたことがある。睡眠は寝た時間より質だという。私の場合、時間も質も申し分ない。

 私の人生における最長連続睡眠時間は、34時間である。10代の後半、カナダの学校に到着した日のことだった。飛行機で羽田からバンクーバーへ行った。飛行機の中の食事が無料と知らず、その注文の仕方もドルの払い方もわからなかったので、水とジュースだけしか口にしなかった。一睡もせずに空腹のまま11時間の飛行に耐えた。あの時の私の99%は飛行機が空中に浮かんで高速で飛んでいるという恐怖とこれからの異国での生活の不安であった。バンクーバーからカルガリーへの私が予約していた国内便は、私が搭乗口に着いた時、すでに乗客を乗せ、滑走路に離陸のために動き出していた。搭乗口にいた職員は、14人乗りの小型プロペラ機をなぜか引き帰らせて、私を乗せた。おそらく私の不眠、空腹、緊張、疲労、時差による言葉にできないひどい風貌が、この厄介者をあの飛行機に乗せてバンクーバーから速やかに出さなければならないと、その職員に思わせたに違いない。

カルガリーの空港に学校から職員が到着生徒の名簿片手に迎えに来ていた。バスの中で一日ぶりに学校が用意してくれた夕食をむさぼるように一気に食べた。3時間で学校に着いた。簡単な説明を受けた。私は意味が解らず、ニコニコするだけだった。寮の部屋に案内された。4畳ぐらいの部屋に二段ベッドと勉強机と洋服を掛ける60センチ×180センチの木の枠しかなかった。ベッドには、わらの入ったマットが置かれていた。9月のカナダは、すでに日本の冬のように寒く、部屋の中はスチーム暖房が通っていた。服も脱がずに私は二段ベッドの下のわらのマットに倒れこんだ。シーツ、枕、毛布はなかった。目を覚ましたのは、2日経った朝だった。寮長がどんなに私を起こそうとしても、私は目を覚まさなかったそうだ。一週間後、学校が始まった。

 私は、あれ以来、緊張、恐怖から逃れる術は、眠ることだと体で覚えたに違いない。私が良く眠れるのは、一種の防衛本能だと私は勝手に解釈している。それともアフリカで本当にツェツェ蝿にちょっとかじられたのかもしれない。今の私の睡眠を妨害できるのは、時差だけである。それも1ヶ月すると元通りになる。もうじき駅ビルの売り出しで当たったハワイ旅行に行く。久しぶりに時差と闘うことになる。さてどうなることやら。


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