団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

リビアのネズミ

2011年09月20日 | Weblog

 リビアのカダフィー大佐は、いまだに発見されていない。彼は、リビア国民に反体制派に対して徹底抗戦を訴える演説の中で、反体制派を“ねずみ”と呼んだ。それを聞いて私は、アメリカで日本軍が真珠湾を攻撃したあと「Japs keep out You rats(日本人は出て行け、ねずみども)の落書きが日系人が住む地域に数多く掲げられたという話を思い出した。アメリカでアメリカの市民権を持つ日系人も“ねずみ”と呼ばれた。ねずみは、アラブ社会でもアメリカでも嫌われ者の代名詞らしい。どの世界にも動物や虫を軽蔑や差別のたとえに使う。他にも蛇、猿、豚、犬、毛虫、ゲジゲジ、ゴキブリなどなど、枚挙にいとまがない。私は、人間が勝手に嘲笑や蔑みの代役を動物や虫にさせるのは失礼だと思う。

 アラブ世界でもたとえとして動物が使われることが多い。アラブ文化の中で通常ロバはジョークや嘲笑の象徴であり、人を「ロバ」と言うことは、中東では決して許されない侮辱である。日本でタレントとして活動するエジプト人女性フィフィさんは、かつて島田紳助が司会する『行列の出来る法律相談所』に出演した際、紳助に「ロバ」「ウマ」と揶揄された。フィフィさんの風貌が似ているとからかったのだろう。お笑いタレントの番組の多くは、悪ガキそのものの世界である。日本国内、もしくは一部の芸能界でのみ通用する、ふざけ、おちょくり、イジメ、なじり、下種、無礼、偏見がまかり通る。“ロバ”と口に出されたことは、アラブ出身のフィフィさんにとって、屈辱であった。それをも知らない島田紳助さんが、テレビ界に君臨していたのだから、日本のテレビ界の程度が知れる。もちろんフィフィさんは、抗議したがそれを真摯に聞く謙虚さや国際性は島田紳助さんに備わっていなかった。

私は、チュニジアに住んでいた、ある日本人が“ロバ”とチュニジア人に陰で呼ばれていたのを知っている。その日本人はそう呼ばれても仕方がない程、外国で暮らすには不適格な性悪な人だった。そうでない普通の日本人でもチュニジアでは、他の中国人、韓国人と見分けられることもなく、モンゴル系アジア人はみな“シノワ”(フランス語で中国人)と蔑まれて呼ばれる。それは、チュニジアがフランスの植民地だった時、中国から連れてこられた労働者(苦力:クーリー)が用水路の建設に携わったことから始まった。植民地としての屈辱を与えられたチュニジアの人々は、奴隷のように働かされた中国人を自分たちより格下の対象として、劣等感を和らげた。腹をすかした中国人の中に、住民の家からニワトリや食べ物を盗んだ者がいた。そんな噂に尾ひれがついてチュニジア全土に広がった。チュニジアではこの歴史的人種偏見が未だに残っている。私自身もどれほど“シノワ”と馬鹿にされたか知れない。一旦培われてしまった無知と偏見は、なかなか是正されることはない見本である。

 野田新首相は、就任早々自分をドジョウにたとえた。英語でドジョウは、馬鹿、のろまである。これをもし英語国の記者が自国に日本の首相は自分をドジョウと言った、と記事を送ったらどうだろう。その記事を読んだ読者は、間違いなく日本の首相が自らを“馬鹿、のろま”と宣言した、と読むに違いない。日本の首相になる人さえ島田紳助なみの国際感覚しか持ち合わせないのか。そうだとしたら悲劇である。鳩山由紀夫元首相は、自分で何も言わなくても、loopy(ルーピー:狂気の、馬鹿な)とアメリカの新聞ワシントン・ポストにかつて書かれた。自分から言っても、他人に言われても、わが国の首相を馬鹿にされるのは、日本国民にとって屈辱である。まわりくどいたとえなどつかわず、ねずみ、ロバ、ドジョウの助けをかりずに、人間のまま、人間として、お互いの存在を認め合いたいものである。


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