Tシャツに半ズボン、もしかしたら今流行りのシャレテコ(オシャレなステテコ)姿の中年男性が、川にせり出して敷設された歩道の柵に全身をもたせて川に向かって放尿している。まるで子どものように川原の何かを標的にして、そこを目がけているようだ。午前7時、駅まで妻を送って家に帰る途中に見る光景である。見苦しい。なぜ同じ時間に同じ行為をするのか解らない。彼にとって朝一番のお勤めなのかもしれないが、こんな姿を見せつけられるのは遠慮したい。新幹線の列車が、ひっきりなしにすぐ近くの鉄橋を通過する。どんなに高速で通過しようと、もしかしたら車窓からこの醜態を見てしまう乗客もいるだろうに。それとも彼はそれをも計算しているのだろうか。
家にトイレが無いわけではなかろう。トイレのないところでは、だれでも「自然が私を呼んでいる」と言って、人に見られないように陰をみつけて用を足す。人類がずっと続けてきた方法である。私が子どもだった頃と比べれば、このごろ立ち小便を見かけることはほとんどなくなった。私はその変化を喜んでいた。若い頃暮らしたカナダで立ち小便を見たことは一度もなかった。広大な国土、少ない人口も理由だろうが、人々に羞恥に関して超えてはならない境界が意識されていた気がする。それが原因なのか、公衆電話のボックスの中が小便臭いことはよくあった。トイレ、それも水洗トイレ、下水処理場が整備されていない開発途上国でならまだしも、日本はすでにこの分野で相当改良が進んでいる。地中海沿岸のローマ遺跡を訪れて感銘したのは、水洗式の共同トイレだった。すでにあの時代にあそこまで整備した文明に脱帽したものである。
ところが今読んでいる『ラテン語碑文で楽しむ 古代ローマ』木村凌二編著 研究社 に「用を足す者よ、災いに気をつけろ。侮るならば、ユビテルの怒りあれ」の石碑がポンペイにあったと記されている。さらにエルコラーナの給水塔には「運営委員マルクス・アルフィキィウス・パウルスが認めた布告:もしなんびとかこの場所にて排便せんと欲するなら、それが許されぬことを憶えておくべし。もしこの布告に背くなら自由人は罰金1デナリウスを支払い、奴隷は尻をむち打たれることにより記憶させらるべし」と碑文として彫られていると記されていた。思わず「ローマよ、お前もか」と叫びたくなった。人間だから排泄は当たり前の現象である。それをいかに他人に見せることなく済ませるかは、文化であろう。それにしてもローマ時代にも厄介だった問題行為は、いまだに続いている。日本では「出物腫れ物ところ嫌わず」という。しかし余程のことがないかぎり、自分で管理調整可能なことである。あえて触れずに隠しておくことも、人間のおくゆかしい生きる知恵ではないだろうか。
そんな日の午前10時すぎ、図書館に向かって歩いていると、写真のお触書を発見した。その訴えを前にして「その通りだ」と立ち止まり、拍手したいぐらい賛同した。