『婚約者の友人』を銀座シネスイッチで見ました。
(1)フランソワ・オゾン監督の作品ということで、映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭の舞台は、1919年のドイツのクヴェードリンブルク。
黒の服装のアンナ(パウラ・ベーア)が、街を歩いています。
アンナは、花屋で白い花を12ペニヒで購入し、それを手に持って歩き続けます。
ジョウロに水を入れて墓地の中を進み、婚約者だったフランツの墓の前に着きます。
アンナは、既に墓にバラの花が手向けられているのを見つけます。
そばで作業をしている男に、「誰が花を?」と訊くと、その男は「外国人だった」と答えます。
アンナは、「ホフマイスター診療所」との看板のある家のドアを押して、中に入ります。
そこは、フランツの父親・ハンス(エルンスト・ストッツナー)が営む医院で、身寄りのないアンナは、ハンスとその妻のマグダ(マリエ・グルーパー)と一緒に暮らしています。
アンナがマグダに「心当たりは?」と尋ねると、マグダは「わからない。ハンスには内緒にして」と答えます。アンナがハンスの様子を尋ねると、マグダは「診察室に籠もりきり」と答えます。
診察室では、ハンスが患者のクロイツ(ヨハン・フォン・ビューロー)に「また痛むか?」「そのうちに踊れるようになる」と言うと、クロイツは「最近、街でお見かけしませんね」と尋ねます。それに対し、ハンスは「最愛の息子だった」「治療を続ければ、1週間で治る」と答えます。
クロイツは改まった調子で、「アンナのことですが、彼女はあなたを父親のように慕っています」「彼女は息子さんの婚約者ですが、私と結婚させてください」とハンスに願い出ます。
診察室から出てきたクロイツを見かけて、アンナが「こんにちは」と挨拶すると、クロイツは「乗馬はどう?」と尋ねます。アンナは「止めたの。気分が失せて」と答えます。それに対し、クロイツが「愛する人を亡くしたけれど、生きていくんだ」と言うと、アンナは「フランツも、同じことを手紙に書いていた」と答えます。さらにクロイツが、「気持ちはわかる」「でも、フランツのことを忘れさせる」と言うと、アンナは「私は忘れたくない」と答えます。
ハンスとマグダとアンナが夕食をとっています。
マグダが「土曜日の舞踏会はどうするの?」と尋ねると、アンナは「行きたくないと」答えます。
ハンスが「クロイツとは?」と訊いた時、ドアをノックする音がします。
アンナが立ち上がってドアを開けると、男が慌てて立ち去るところでした。
翌朝、アンナがフランツの墓に行ってみると、見知らぬ男(ピエール・ニネ)が墓の前に立っています。アンナが遠くから見ていると、その男はしばらくして立ち去ります。
ハンスの診察室。
その男が診察室の中に入ります。
ハンスが名前を尋ねると、彼は「アドリアン・リヴォワール」「パリからです」と答えます。それに対しハンスが、「フランス人か。すまんが診察はできない。帰ってくれ」「フランスの男はみな、私の息子を殺した犯人だ」と言うと、アドリアンは「そのとおりです。僕も兵士でした」「人殺しです」と答えて診察室を出てしまいます。
こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、これからどのように物語は展開するのでしょうか、………?
本作の当初の舞台は、1919年のドイツの古都。最愛の息子を第1次大戦で亡くした老夫婦とその息子の婚約者とが一緒に暮らしているところに、息子の友人だったというフランス人の若者が現れて、云々という物語。婚約者とフランス青年との間に親しい感情が醸成するものの、彼には秘密があるらしいこともわかってきて、全体としてオーソドックスなラブストーリーながらも、サスペンス物的な要素も加わって、なかなか見ごたえのある作品になっているように思いました。
(2)本作の舞台の1919年というと、第1次大戦が前年の11月に終わったばかりであり、同盟国側のドイツも連合国側のフランスも、まだ殺伐とした雰囲気が漂っていたものと思われます。
本作においても、一方で、アドリアンが宿泊していたクヴェードリンブルクのホテルのレストランでは、フランツの父親ハンスと似たような世代のドイツ人らが「ラインの守り」という軍歌を歌い、他方で、アンネが入ったパリのレストランでは、フランス軍の兵士が姿を見せると、客が「ラ・マルセイエーズ」を高唱するという具合です(注2)。
そんな中でハンスは、ひとたびアドリアンの話を聞くと、周囲の人々に「息子を戦地に送り出したのは我々ではないのか」と言ってまわり、反仏の姿勢を改めさせようとします。
また、アンナもフランツ(アントン・フォン・ラック)も、フランス語ができ、ヴェルレーヌの「秋の歌」を一緒に口ずさんだりします(注3)。
それに、ドイツにやってきたアドリアンも、ハンスらとドイツ語で会話をしています。
第1次大戦ではお互いに銃を向け合いますが、実際には両国の間で交流が相当進んでいたように思われます。
そういう背景があって、実のところは、ハンスのもとに謝罪のためにやってきたアドリアンですが、ハンスに会うと、自分はフランツとパリで友達だったと嘘をついてしまいます(注4)。
この後、アンナも、ハンスとマグダにアドリアンのことで嘘をつきます(注5)。
こうして、本作は、嘘というものに焦点が当てられていくように思われます(注6)。
確かに、嘘は本作において大きなテーマなのでしょう。
ただ、クマネズミには、本作は、アンナが自分を取り巻く状況から脱出しようとする物語のようにも思えました。
アンナは両親がおりませんから、婚約者の家で暮らすことができたのでしょうが、いつまでもそのままでいられないこともよく承知していたことでしょう。
それに、このままクヴェードリンブルクにいたら、周囲からの圧力もあって、クロイツと結婚させられるかもしれない恐れも感じたでしょう。
いい機会があれば、アンナは、ハンスたちの元を去るつもりだったのではないでしょうか?
そこにアドリアンが現れました。
最初のうちは、アンナは、アドリアンンの話でフランツのことを思い出していました。
ですが、単なるフランツの友人にしてはその言動に不審な点があるようにも感じられたのではないでしょうか(注7)?
それで、アンドリアン宛に出した手紙が宛先不明で戻されてきて、マグダが「フランスに行ってアドリアンを探して連れ戻してきて」「名前も元の住所もわかっているから、探し出せる」「人生はこれから。チャンスを逃さないで」と言い出すと、アンナは、それを奇貨として、早速フランスへ行って事情を調べてくることになります。
おそらく、マグダは、フランツの成り代わりのアンドリアンとアンナが一緒になって自分たちのそばで暮らしてくれたら、と願ったのでしょう。
でも、アンナの方は、これはクヴェードリンブルクからの脱出の機会になるかもと受け止めたのかもしれません。
結局、アンドリアンには、幼馴染の婚約者ファニー(アリス・ドゥ・ランクサン)がいて、もうすぐ結婚式が執り行われることになっているとわかります。
アンドリアンに対する想いが強くなっていたアンナですから、その事情がわかった時はショックだったでしょう。
それに、アンドリアンによってクヴェードリンブルクから引き上げてもらうというアンナの期待も潰えてしまいました(注8)。
でも、よく考えてみれば、そんなことをしたら、この先フランツの影から抜け出せないことになってしまいかねません。むしろ、アンドリアンからも離れることができたことによって、アンナはようやく独り立ちできることになるのではないでしょうか?
それが、ルーブル美術館でマネの「自殺」の絵を前にして、「生きる希望が湧くの」とアンナが呟いた意味合いなのではないかなと思った次第です(注9)。
(3)渡まち子氏は、「戦争と戦争の間に挟まれた不安な時代を背景に、嘘の功罪を描くオゾン流のミステリアスなメロドラマだ。アンナを演じるドイツ人女優パウラ・ベーアの、複雑で繊細な表情が心に残る」として70点を付けています。
村山匡一郎氏は、「映画は、第1次大戦後の憎悪し合うドイツとフランス両国が互いに認め合って許しを求める姿を描いているが、その姿は憎しみの連鎖が至る所に見られる今日の世界にこそ必要だろう」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
林瑞絵氏は、「人間らしさを失う戦争の時代、たしかに人は一編の詩、ひとつの旋律に救われることがあるのだ。鋭い洞察力を持つ皮肉屋の俊英監督が、円熟期に入り慈悲深い眼差(まなざ)しを手に入れた」と述べています。
(注1)監督・脚本は、『彼は秘密の女ともだち』のフランソワ・オゾン。
原題は「Franz」。
原案は、エルンスト・ルビッチ監督の『私の殺した男』(1932年)。
(注2)さらには、アドリアンが、道路で酔いつぶれているドイツ人の若者を介抱しようと近寄りますが、その若者は、介抱するのがフランス人だとわかると、「触るな!」と怒り出します。
(注3)アンナがアドリアンに話したところによれば、「内緒話はフランス語だったの」とのこと。
(注4)アドリアンはハンスらに、「パリであったのが最後。ルーブル美術館へ行きました」「そこでは、彼のお気に入りのマネの絵をしばらく眺めました」などと言います。
また、回想シーンでは、フランツがヴァイオリンを演奏していると、アドリアンが手の位置などを直してあげるところが映し出されたりします。
(注5)更には、アンナはアドリアンに対して、フランツの両親はアドリアンの言い分を了解し許していると嘘をつきます。
(注6)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、フランソワ・オゾン監督は、「戯曲〔モーリス・ロスタンが書いた戯曲「私の殺した男」(1930年)〕とルビッチ版では、フランス人青年の秘密は、冒頭で神父に罪を告白するシーンで明らかになる。僕は彼の罪よりも嘘の方に興味を惹かれた」と述べています。
(注7)というのも、アドリアンは、きちんとハンスの家に現れないで、一度目は逃げ去ったりしていますが、その後姿をアンナは見ています。アンドリアンがフランツの大親友というのであれば、クヴェードリンブルク到着後ただちにハンスの家に顔を出すはずでしょう。
それに、元々アンナは、フランツからアンドリアンについて何も知らされていなかったのです。フランスで見つけた友達ならば、アンナに手紙で知らせてきても良かったはずです。その点をアンナがアンドリアンに尋ねると、アンドリアンは「友情だけだ」とそっけなく、風で木の葉のそよぐ音が聞こえると、「忘れてた、風でそよぐ木の葉の音」などと言って話題をそらす感じです。
(注8)アンナは、アンドリアンを岩場に案内し、「ここでフランツからプロポーズされた」と明かしますが、途中で洞窟のようなところを通過します。洞窟を抜けて明るいところに出るシーンは、クマネズミには、アンドリアンが自分を今の世界から連れ出してくれるのをアンナが期待していることを象徴しているように思えました。
(注9)もしかしたら、アンナは、自分がこれまで関わった男、フランツとアンドリアンが目の前から消えてくれたことによって〔フランツは空砲を所持していて自殺同様の状態だったですし、アンドレアンは母親を喜ばせようと自分を殺しているのですから〕、これから自由にパリで行きていけると思ったのではないでしょうか?
★★★★☆☆
象のロケット:婚約者の友人
(1)フランソワ・オゾン監督の作品ということで、映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭の舞台は、1919年のドイツのクヴェードリンブルク。
黒の服装のアンナ(パウラ・ベーア)が、街を歩いています。
アンナは、花屋で白い花を12ペニヒで購入し、それを手に持って歩き続けます。
ジョウロに水を入れて墓地の中を進み、婚約者だったフランツの墓の前に着きます。
アンナは、既に墓にバラの花が手向けられているのを見つけます。
そばで作業をしている男に、「誰が花を?」と訊くと、その男は「外国人だった」と答えます。
アンナは、「ホフマイスター診療所」との看板のある家のドアを押して、中に入ります。
そこは、フランツの父親・ハンス(エルンスト・ストッツナー)が営む医院で、身寄りのないアンナは、ハンスとその妻のマグダ(マリエ・グルーパー)と一緒に暮らしています。
アンナがマグダに「心当たりは?」と尋ねると、マグダは「わからない。ハンスには内緒にして」と答えます。アンナがハンスの様子を尋ねると、マグダは「診察室に籠もりきり」と答えます。
診察室では、ハンスが患者のクロイツ(ヨハン・フォン・ビューロー)に「また痛むか?」「そのうちに踊れるようになる」と言うと、クロイツは「最近、街でお見かけしませんね」と尋ねます。それに対し、ハンスは「最愛の息子だった」「治療を続ければ、1週間で治る」と答えます。
クロイツは改まった調子で、「アンナのことですが、彼女はあなたを父親のように慕っています」「彼女は息子さんの婚約者ですが、私と結婚させてください」とハンスに願い出ます。
診察室から出てきたクロイツを見かけて、アンナが「こんにちは」と挨拶すると、クロイツは「乗馬はどう?」と尋ねます。アンナは「止めたの。気分が失せて」と答えます。それに対し、クロイツが「愛する人を亡くしたけれど、生きていくんだ」と言うと、アンナは「フランツも、同じことを手紙に書いていた」と答えます。さらにクロイツが、「気持ちはわかる」「でも、フランツのことを忘れさせる」と言うと、アンナは「私は忘れたくない」と答えます。
ハンスとマグダとアンナが夕食をとっています。
マグダが「土曜日の舞踏会はどうするの?」と尋ねると、アンナは「行きたくないと」答えます。
ハンスが「クロイツとは?」と訊いた時、ドアをノックする音がします。
アンナが立ち上がってドアを開けると、男が慌てて立ち去るところでした。
翌朝、アンナがフランツの墓に行ってみると、見知らぬ男(ピエール・ニネ)が墓の前に立っています。アンナが遠くから見ていると、その男はしばらくして立ち去ります。
ハンスの診察室。
その男が診察室の中に入ります。
ハンスが名前を尋ねると、彼は「アドリアン・リヴォワール」「パリからです」と答えます。それに対しハンスが、「フランス人か。すまんが診察はできない。帰ってくれ」「フランスの男はみな、私の息子を殺した犯人だ」と言うと、アドリアンは「そのとおりです。僕も兵士でした」「人殺しです」と答えて診察室を出てしまいます。
こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、これからどのように物語は展開するのでしょうか、………?
本作の当初の舞台は、1919年のドイツの古都。最愛の息子を第1次大戦で亡くした老夫婦とその息子の婚約者とが一緒に暮らしているところに、息子の友人だったというフランス人の若者が現れて、云々という物語。婚約者とフランス青年との間に親しい感情が醸成するものの、彼には秘密があるらしいこともわかってきて、全体としてオーソドックスなラブストーリーながらも、サスペンス物的な要素も加わって、なかなか見ごたえのある作品になっているように思いました。
(2)本作の舞台の1919年というと、第1次大戦が前年の11月に終わったばかりであり、同盟国側のドイツも連合国側のフランスも、まだ殺伐とした雰囲気が漂っていたものと思われます。
本作においても、一方で、アドリアンが宿泊していたクヴェードリンブルクのホテルのレストランでは、フランツの父親ハンスと似たような世代のドイツ人らが「ラインの守り」という軍歌を歌い、他方で、アンネが入ったパリのレストランでは、フランス軍の兵士が姿を見せると、客が「ラ・マルセイエーズ」を高唱するという具合です(注2)。
そんな中でハンスは、ひとたびアドリアンの話を聞くと、周囲の人々に「息子を戦地に送り出したのは我々ではないのか」と言ってまわり、反仏の姿勢を改めさせようとします。
また、アンナもフランツ(アントン・フォン・ラック)も、フランス語ができ、ヴェルレーヌの「秋の歌」を一緒に口ずさんだりします(注3)。
それに、ドイツにやってきたアドリアンも、ハンスらとドイツ語で会話をしています。
第1次大戦ではお互いに銃を向け合いますが、実際には両国の間で交流が相当進んでいたように思われます。
そういう背景があって、実のところは、ハンスのもとに謝罪のためにやってきたアドリアンですが、ハンスに会うと、自分はフランツとパリで友達だったと嘘をついてしまいます(注4)。
この後、アンナも、ハンスとマグダにアドリアンのことで嘘をつきます(注5)。
こうして、本作は、嘘というものに焦点が当てられていくように思われます(注6)。
確かに、嘘は本作において大きなテーマなのでしょう。
ただ、クマネズミには、本作は、アンナが自分を取り巻く状況から脱出しようとする物語のようにも思えました。
アンナは両親がおりませんから、婚約者の家で暮らすことができたのでしょうが、いつまでもそのままでいられないこともよく承知していたことでしょう。
それに、このままクヴェードリンブルクにいたら、周囲からの圧力もあって、クロイツと結婚させられるかもしれない恐れも感じたでしょう。
いい機会があれば、アンナは、ハンスたちの元を去るつもりだったのではないでしょうか?
そこにアドリアンが現れました。
最初のうちは、アンナは、アドリアンンの話でフランツのことを思い出していました。
ですが、単なるフランツの友人にしてはその言動に不審な点があるようにも感じられたのではないでしょうか(注7)?
それで、アンドリアン宛に出した手紙が宛先不明で戻されてきて、マグダが「フランスに行ってアドリアンを探して連れ戻してきて」「名前も元の住所もわかっているから、探し出せる」「人生はこれから。チャンスを逃さないで」と言い出すと、アンナは、それを奇貨として、早速フランスへ行って事情を調べてくることになります。
おそらく、マグダは、フランツの成り代わりのアンドリアンとアンナが一緒になって自分たちのそばで暮らしてくれたら、と願ったのでしょう。
でも、アンナの方は、これはクヴェードリンブルクからの脱出の機会になるかもと受け止めたのかもしれません。
結局、アンドリアンには、幼馴染の婚約者ファニー(アリス・ドゥ・ランクサン)がいて、もうすぐ結婚式が執り行われることになっているとわかります。
アンドリアンに対する想いが強くなっていたアンナですから、その事情がわかった時はショックだったでしょう。
それに、アンドリアンによってクヴェードリンブルクから引き上げてもらうというアンナの期待も潰えてしまいました(注8)。
でも、よく考えてみれば、そんなことをしたら、この先フランツの影から抜け出せないことになってしまいかねません。むしろ、アンドリアンからも離れることができたことによって、アンナはようやく独り立ちできることになるのではないでしょうか?
それが、ルーブル美術館でマネの「自殺」の絵を前にして、「生きる希望が湧くの」とアンナが呟いた意味合いなのではないかなと思った次第です(注9)。
(3)渡まち子氏は、「戦争と戦争の間に挟まれた不安な時代を背景に、嘘の功罪を描くオゾン流のミステリアスなメロドラマだ。アンナを演じるドイツ人女優パウラ・ベーアの、複雑で繊細な表情が心に残る」として70点を付けています。
村山匡一郎氏は、「映画は、第1次大戦後の憎悪し合うドイツとフランス両国が互いに認め合って許しを求める姿を描いているが、その姿は憎しみの連鎖が至る所に見られる今日の世界にこそ必要だろう」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
林瑞絵氏は、「人間らしさを失う戦争の時代、たしかに人は一編の詩、ひとつの旋律に救われることがあるのだ。鋭い洞察力を持つ皮肉屋の俊英監督が、円熟期に入り慈悲深い眼差(まなざ)しを手に入れた」と述べています。
(注1)監督・脚本は、『彼は秘密の女ともだち』のフランソワ・オゾン。
原題は「Franz」。
原案は、エルンスト・ルビッチ監督の『私の殺した男』(1932年)。
(注2)さらには、アドリアンが、道路で酔いつぶれているドイツ人の若者を介抱しようと近寄りますが、その若者は、介抱するのがフランス人だとわかると、「触るな!」と怒り出します。
(注3)アンナがアドリアンに話したところによれば、「内緒話はフランス語だったの」とのこと。
(注4)アドリアンはハンスらに、「パリであったのが最後。ルーブル美術館へ行きました」「そこでは、彼のお気に入りのマネの絵をしばらく眺めました」などと言います。
また、回想シーンでは、フランツがヴァイオリンを演奏していると、アドリアンが手の位置などを直してあげるところが映し出されたりします。
(注5)更には、アンナはアドリアンに対して、フランツの両親はアドリアンの言い分を了解し許していると嘘をつきます。
(注6)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、フランソワ・オゾン監督は、「戯曲〔モーリス・ロスタンが書いた戯曲「私の殺した男」(1930年)〕とルビッチ版では、フランス人青年の秘密は、冒頭で神父に罪を告白するシーンで明らかになる。僕は彼の罪よりも嘘の方に興味を惹かれた」と述べています。
(注7)というのも、アドリアンは、きちんとハンスの家に現れないで、一度目は逃げ去ったりしていますが、その後姿をアンナは見ています。アンドリアンがフランツの大親友というのであれば、クヴェードリンブルク到着後ただちにハンスの家に顔を出すはずでしょう。
それに、元々アンナは、フランツからアンドリアンについて何も知らされていなかったのです。フランスで見つけた友達ならば、アンナに手紙で知らせてきても良かったはずです。その点をアンナがアンドリアンに尋ねると、アンドリアンは「友情だけだ」とそっけなく、風で木の葉のそよぐ音が聞こえると、「忘れてた、風でそよぐ木の葉の音」などと言って話題をそらす感じです。
(注8)アンナは、アンドリアンを岩場に案内し、「ここでフランツからプロポーズされた」と明かしますが、途中で洞窟のようなところを通過します。洞窟を抜けて明るいところに出るシーンは、クマネズミには、アンドリアンが自分を今の世界から連れ出してくれるのをアンナが期待していることを象徴しているように思えました。
(注9)もしかしたら、アンナは、自分がこれまで関わった男、フランツとアンドリアンが目の前から消えてくれたことによって〔フランツは空砲を所持していて自殺同様の状態だったですし、アンドレアンは母親を喜ばせようと自分を殺しているのですから〕、これから自由にパリで行きていけると思ったのではないでしょうか?
★★★★☆☆
象のロケット:婚約者の友人
おっしゃるように、本作は「オゾン監督ならではの重厚なドラマ」であり、一筋縄ではいかない内容になっているように思いました。
真実を飲み込んで嘘をつき通し、
自殺してしまえば丸く収まるような。
何回か見ると、多分わかってきそうな・・・
オゾン監督ならではの重厚なドラマでした。
確かに、アンナは、湖で入水自殺をしようとしながらも、村民に救助されて果たしませんでした。ですから、「ここなつ」さんがおっしゃるように、「自ら死を選べるなんて、なんて羨ましい」と思ったとも解釈できるでしょう。
ただ、クマネズミは、アンナは自殺未遂からは既に立ち直ってパリに来ているのではないか、マネの絵を見て2人の男のことを思ったのではないか、これからの解放された生活を見通して「生きる希望が湧く」と言ったのではないか、と単純に考えたところです。
派手さはないけれど、実に魅せる作品でした。私はオゾン監督のなんたるかをあまり良く存じ上げないのですが、流石に名匠と言われる監督だな、と感じました。
さて、私はマネの「自殺」を見た時のアンナのコメントに対してはクマネズミさんとは少し違う解釈をしております。彼女はこの作品を見て、自分で自分の命を断つということと、見えない力によって心の命を断たれてしまうということは似て非なるものなのではないか?自ら死を選べるなんて、なんて羨ましい。その点でこの絵画の登場人物はむしろ生き生きとしていると言っていい(このタイミングで初めてこの作品が彩色されたというのもそんな気持ちの表れなのかな…?と)。だから逆説的に、私(アンナ)はこの絵画を見て、生きる希望が湧いてきた、という風に感じられたのです。