映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

アイガー北壁

2010年04月29日 | 洋画(10年)
 『アイガー北壁』を、ヒューマントラストシネマ有楽町で見てきました。単なる山岳映画ではないということを耳にしたので映画館に行ってみた次第です。

(1)この映画は、第2次世界大戦直前に、アイガー北壁を登頂しようと試みた男たちの物語です。
 とりわけ、登頂の最中の迫真的な映像は、山岳映画として素晴らしい出来栄えだと思いました。
 比較するとしたら昨年大きな話題を呼んだ『劔岳 点の記』でしょう。
 その映画では、陸軍測量部と民間人パーティとが初登頂を競いましたし、本作品では、ドイツ隊とオーストリア隊とが競います。
 ただ、その映画で描かれている陸軍測量部による登頂は、今回の映画の時点よりも30年前のことであり(1907年7月)、また前者は尾根伝いであるのに対して、アイガーの場合は峻嶮な岩壁を垂直に登るわけですから、違いの方が大きいのかもしれません。
 たとえば、『劔岳』では、西欧流の登山技術はまだ十分に取り入れられていない状況ですから、むしろ陸軍測量部は、昔からの道案内人を頼りに随分と伝統的な装備で臨みます。他方、『北壁』にあっては、当時としてはかなり先端的な装備で登り始めます(ただ、ザイルが現在よりも短かったことが致命的でした)。
 また、『劔岳』の場合は、登頂ルートの確認が問題となりますが(吹雪で視界不良のため、一時進行方向が分からなくなってしまいます)、アイガーの場合は、落石、雪崩、急激な天候急変による気温の低下などが絶えず襲ってきます。
 こうした違いはあるものの、どちらもその当時としては可能性が極めて低いとされた登山に、持てる力を十二分に出し切って挑戦してみたわけですから、その大変さを比べてみても無意味でしょう。

 以上のようなタテ糸の話(こちらは実話です)に、本作品はヨコ糸となるべくサブの物語を組み合わせています〔タテ糸だけでは、あまりにも単調になってしまうために、かなり常識的な内容ですがこうしたサブの話を絡ませたものと推測されます〕。
 その一つ目として、ナチス政権が絶頂期にあってベルリン・オリンピックが間近となっている政治的・社会的状況が描き出されます。たとえば、主人公のトニーとアンディの幼馴染のルイーゼが勤め始めた新聞社も、ドイツの国威発揚を目的として、北壁登頂を大々的に報道しようとします。他方で、トニーは、そうした動きを苦々しく思っています。

 もう一つの話は、ルイーゼとトニーの儚いラブロマンスでしょう。
 ルイーゼに扮したヨハンナ・ヴォカレクは、あまりに風貌を違えているために映画を見ているときには同一俳優だとは分からなかったのですが、あとで『バーダー・マインホフ』でバーダーの愛人役をこなしていたことがわかり驚きました。そちらでは、過激なテロに走る現代女性を力強く演じていましたが、こちらでは、反対に地方出身の地味な女性を巧みに演じていて好感が持てました。

(2)この映画については、下記の(3)でもわかるように、評論家の評価は概して高そうなのに対して、例の“つぶあんこ”氏は酷く低い評価しかしていません。すなわち、
 「自分で焚きつけておきながら、最悪の事態になった途端に他人に命懸けの救出を迫るバカ女の自己中全開にウンザリ。しかも彼女だけ装備ゼロでも大丈夫とはどういう事? さあここでハラハラしろ感動しろと大仰すぎるBGMおよび恋愛要素を前面に出しすぎな後半など、押し付けがましいにも程がある。テレビ演出レベルの低俗なやり口には興醒めまくり。出来もしないクセにやりたがるバカが一人でもいると全員がヤバイ。散々抜け駆けしておいて後から助け合っても遅すぎる、との皮肉な展開はそれなりに面白いのだが。いろいろと惜しい」。

 ただ、この批判にはいろいろ問題があるのではと思われます。

 まず、「自分で焚きつけておきながら、最悪の事態になった途端に他人に命懸けの救出を迫るバカ女の自己中全開」とあります。この「バカ女」とは、ヨハンナ・ヴォカレクが演じる女性記者ルイーゼのことでしょう。
 確かに、トニーが最悪の事態になったときに、下のホテルで天候回復を待っていた他のパーティの登山家に必死に救出を頼みます。ただ、それは愛する人を救出したいとの一途の思いからなのですから、「自己中」と責められるのは酷かなという気がします。
 それに、かなり以前にトニーとアンディに対して北壁登頂をサジェストしていますが、1936年7月に上司の記者と一緒にアイガーの山麓までやってきたときは、オーストリア隊の取材が目的であり、ドイツ隊の2人がそこに来ていることは全く知らなかったのですから、「自分で焚きつけておきながら」というのも言い過ぎではないかと思います。
 ただし、「彼女だけ装備ゼロでも大丈夫とはどういう事?」という“つぶあんこ”氏の批判は当たっていると思います。いくらなんでも、きちんとした装備と訓練なしに、山腹の坑道の出入り口から外に出て岩場を移動するというのは、ほんの少しであっても無理な話でしょう!
 ただ、これはもしかしたらルイーゼの願望だったのかも知れません。トニーにギリギリのところまで近づいて愛する人の声をじかに聞きとりたいと願ったのでしょう。それが映像化されていると考えたらどうでしょうか?
 なお、「出来もしないクセにやりたがるバカが一人でもいると全員がヤバイ。散々抜け駆けしておいて後から助け合っても遅すぎる、との皮肉な展開」と末尾で述べられています が、これは実話部分なのでしょうから、「バカ」とか「遅すぎる」、「皮肉な展開」などと評価しても仕方がないと思われます。

 総じて、「興醒めまくり」と酷評される「テレビ演出レベルの低俗なやり口」がみられるのは、(1)で述べたように、この映画のメインのタテ糸の方ではなく、サブ的な位置づけのヨコ糸の方ですから、なんでそんなに激しく“つぶあんこ”氏は噛みつくのかしらと、不思議に思えてしまいます。

 なお、話はやや飛躍してしまいますが、“つぶあんこ”氏の声高な「バカ女の自己中」呼ばわりから、次の事件のことを思い出してしまいました。
 2004年のことですが、日本政府が、渡航自粛勧告とイラクからの退避勧告を出していたにもかかわらず、それを無視して渡航した日本人3人が武装勢力に拘束され、イラクで展開していた自衛隊の撤退を要求されるという事件がありました。
 この事件を解決するべく、被害者家族らが自衛隊のイラク撤退を要求したことから、被害者とその家族に対して、「自己責任」だとする立場からの批判が噴出したところです。
 

(3)映画評論家は随分と好意的にこの映画を見ているようです。
 小梶勝男氏は、「山でのロケや、巨大冷凍庫での撮影で作り上げた映像の迫力が凄かった。悪天候や怪我、雪崩によって、登山家たちが次第に追い詰められていく様子は息詰まるほどだ。登攀場面のドラマに、前半の人間関係がきちんと生かされているのも良かった」として71点を、
 渡まち子氏は、「険しく神々しい山に挑む人間というテーマは、ドイツ的ロマンティシズムの発露で、山の崇高な高みは世俗とは無縁の聖地でもある。さらに歴史には、ナチズムによる支配領域への渇望や民族の優位を示す思惑もあった。実話に基づく本作にはそれらすべてが事実として注入されていて、そこに人間ドラマをからめることで感動的な内容になっている」として70点を、
 福本次郎氏は、「垂直に切り立った絶壁で重力を克服し、氷と雪と風がもたらす最悪のコンディションと戦い、凍傷の痛みに耐え、それでもわずかな生存への望みをかけるクライマーたちの姿が生々しく再現される」として60点を、
それぞれ与えています。
 ただ福本氏は、ドイツ人新聞記者が「国粋主義的であるのとは対照的に、トニーとアンディはただ山を愛するだけの若者。名誉欲はあっても、国のため民族のためという気負いはなく政治とは一線を引いている。そのあたりの当時のドイツの世相が興味深かった」と述べていますが、映画で描き出されたことをそのまま「当時のドイツの世相」と受け止めてしまうのは単純にすぎるというべきでしょう。


★★★☆☆


象のロケット:アイガー北壁