まわりで起こっていること

since2004.12「糠漬け初心者」

かわいいねぇ!と相方から声が出た。

2022年02月17日 | Weblog

もちろん、僕にかけられた声ではないんだけど。

昨日の昼下がり。

暖房の効いていない僕の部屋で、上着もとってのひととき。

そう、日当たりが良くて、2月の、なんて思えない陽気の中のできごと。

窓の外に向いての相方だったんだけど、振り返るとそこにはメジロがみかんを啄んでいる。

難しい社会情勢やら何やらを語り始めようとした矢先の、ナイスなタイミングでの光景だったのです。

しばらくすると、その席はヒヨドリに変わり、だった。

五感に素直に生きてある、ってのはいい感じだよな。

どちらかというと、女性が得意な分野なのかもしれないけれど、男同士の会話に混じり込んだ、メジロ。

をきっかけとした流れ、というわけだ。

おかげで、激変への予感、とでもいうのか、そんなことには話は転換せず、だった。

ことほどさように、起こっているできごとというのは、存在するようで存在せず、存在しないようで存在する。

なんて具合の、まるで、量子物理学だっけ、観察する人がいてそこに存在する、というのが、物質。

くらいの話と似てるな。

なので、落語で言えば、与太郎みたいな暮らし方がいいのかもね。

今朝は、久しぶりに、180spmの女史が走り去っていった。

今までより少しペースが速まったかな、という印象の走りだった。

昨日だったか、Facebookのわがタイムラインに、ご丁寧、親切にも、9年前のあなたの投稿、ってのがやってきて。

枝垂れ梅、満開の中の、母とおばが映り込んでいた。

掛川の龍尾神社だ。

いまだに元気でいる二人に驚嘆、感嘆、安心みたいな感情とともに眺めていた。

その時にも、立春がなんとか、と書いてあったのだけど、今年の梅はどうなんだろうか。

少し寒いのかな、なんて会話も叔母たちとは、ここしばらくはしてないんだよね。

さて今日も、わがレストランにメジロくんがやってくるのかどうなのか、来るだろうな。

なんて思いつつ、次なるルーティンへ向かうとするか。

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今朝は表題が浮かばない

2022年02月16日 | Weblog

ので、こんな写真で。

 


アップしてみたら、写真、大きいな。
 
わがローソクストーブです。
 
隣は珈琲保温用の、です。
 
ということで、また明日、いや、明日は永遠に訪れず、か。
 
 
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過去の成功の話はしない。

2022年02月15日 | Weblog

そんなストレートな物言いに出会って、思わず、その方の名前とともにノートにメモした次第。

昭和の懇親会には、あるある話だったんだろうね。

昭和に限らず、平成でもか。

令和になってからは、どうだろうか。

かといって、失敗話ばかりを自虐ネタにするのも、どうなのかね。

なんて感想が湧いてもくるけれど。

コロナ禍で、会食禁止、とか、黙食、とかね。

玄米食を始めたので黙食だよ、と言いつつも、食事をしながらの会話というのは、またひとしお。

でもあるので、だけど。

いずれにしても、飲み会禁止ムード、自粛模様の中で、成功談や失敗談の披瀝合戦がないとすると。

どうなるんだろうね、興味深いものだ、まるで、人類学の研究生みたいな、だ。

ちょっと前にも書いたけれど、人は人を浴びて人になる、っての。

「しつけの日管」の、今は亡き三輪社長だ。

たしかにね、それはそうだよな。

いいも悪いも丸っぽ浴びる、ってわけだ。

いちいち、いいことだけを選んでもいられないからね。

そもそも、いいこと、なんてのは、その時の自己判断に過ぎず、万事塞翁が馬、なんてのもあるし。

だよな。

経験談でいくと、ある御仁、漁師の街出身の先輩、最初、心の座敷に土足で入ってくるような感覚が。

たまらなく嫌で、だったんだけど、それがだんだんと気にならなくなり、通常は、指摘されないことを。

ずけずけと言ってくれることが、むしろ、ありがたく感じ始め、今では。

先輩とは言いつつのいい友人、畏友という感じで、長いお付き合いだ。

なんてこともあったので、あいつのこういうところが嫌でさ、なんて話は、半分、受け流しつつの。

対応なんかができたりするんだよね。

白黒をはっきりさせたい、なんての、それも、単なる、その人その人の好みに過ぎず。

歳をとると、幼い頃には食べれなかった鰻やしめ鯖が美味くなる、みたいな話でもあり。

なんてことも、表題に戻ると、過去の成功談、ってことになるのかもな。

そもそも、人生に、成功も失敗もありません、キッパリ、ってな話だな。

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どうも、たしかに、立春だ。

2022年02月14日 | Weblog

なんとはなしに、そんな表題にしてみたい巡りだな。

今朝開けた、立春の末候には、魚氷を上がる(さかなこおりをいずる)となっている。

まるで旧暦の民と心を同じくして日々を送る、みたいな風情だな。

時の流れというのは、人工的なものと自然なものと、やっぱりあるよね。

いくら、これこれこうです、みたいな季節の風情を演出しても、そこはそれ、頭の体操みたいなものだし。

今年もまたやってきました的な。

夕べ遅くのメールに、雪が見る間に積もっている、明日はお休みでよかった、と。

八王子のいとこからだけど。

さぞかし、そこかしこでご苦労されている御仁方が大勢いらっしゃる。

というか、例えば、東京の人口1400万人くらい?のうちの。

何百万人の方々が、雪で足止めされている、のかもしれないな。

なんて呑気なことを、この駿河の地からの感想として書いている次第で。

と言い出すと、ウクライナでは、とか、カナダ・アメリカの国境のフリーダムコンボイとか。

フランス、あと、どこだったか、の地でも、いろんなご苦労をされている同朋たち、ホモ・サピエンスとしての、ね。

と思いは飛んでいくな。

まるで、子どもの頃に戻ったみたいな気分でもあるな。

象徴的には、第一回目の東京オリンピックの閉会式。

大感動だったんだ、人種、国籍関係なく、みんなが集まっている映像、ちょうど、この事務所の近くの。

江尻小学校でサッカーの試合があった後、自宅だったか、テレビから流れてきた。

やればできるじゃん、と子供心にも思った次第、つまり、みんなが仲良くなれるじゃん、ってことだ。

あれは、今でも強烈に残っていて。

だから今でも、リアルでも、SNSでも、なじり合う、ってのは、嫌いなんだな。

そこにはないよ、ってね。

あれ、今朝のお題は、立春か。

ことほどさように、カラダのみならず、ココロもゆるむ季節です、ということでお後がよろしいようで、だな。

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後生つながりで。

2022年02月13日 | Weblog

というのも、沖縄のユタね。

鳥の声が聞こえるらしい。

そりゃ、声というか、囀りだけなら、当方も聞こえるけれど、言葉として。

意味を持つものとして、いや、なんらかのメッセージとして、だな。

んなことになれば、毎朝、途方もないことになるけれどね。

何?なに?なーに、ってわけだ。

もっとも、聞こうとして聞くことができるのでもなく、なんだろうね。

ふと訪れる、とでもいうか。

ま、そんなだから、気楽に、って次第。

こちらのレストランにも、もう少ししたら、やってくる。

ユタに倣えば、ひょっとしたら、なんらかの、重要なるメッセージとともに、ね。

そういえば、ユーミンの歌に、カーテンの向こうからやってくるもの、だっけ。

すべてはメッセージ、なんての、あったよね。

とはいえ、あんまり、言葉のやってくるかも、ということに気を取られていると、今この時が疎かになり。

過去と未来のゆりかご、シーソー、ブランコ、ふらふら揺れて、ゆやーんゆよんゆやゆよーん、と中也だ。

さすがに、立春という集合意識に畏れをなしたか、今朝のフロントガラスは凍ってなかったな。

もっとも、そんな季語も、ご当地、駿河のなせる技でもあるんだろうね、東京方面は大雪注意報だ。

このところ、おどろおどろしい謳い文句が溢れ出てくる気配だよね。

なんて、メジャーなブログやツイッターだったら、噴飯物、いや、怒涛の炎上くらいな話かもな。

実は、昨日、あることであることが腑に落ちたんだけどね。

もちろん、以前から腑に落ちていた、とも言えるけれど、それが、さらに増幅されたとでも言えるか。

世界規模での、パンデミック由来の、だけど。

なんて書いていて、わが社でも、社員さんの界隈で、陽性者、濃厚接触者、そのまた濃厚接触者が確認されそうな。

そんな状況なんだけど、ね。

だからなに?ってなもんでもあるが。

この手法を続けたら、どこかで確実に、人手不足となり、なんて話でもあるな。

ま、それはともかく、立春の日曜日に出かけることにします。

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後生だんて勘弁してやってくんな。

2022年02月12日 | Weblog

いや、まみゃあだんて、と言ったのか。

ずっと前にもアップしたのかも、ですが、わが曽祖母の言葉。

僕がなにか悪さをしたのか、何歳頃のことだったのか。

母親から、つまり、曽祖母のおみなさんからしたら、孫だ。

叱られていたんだろうな、その母親に向かって、の言葉。

その時に出てきた、後生(ごしょう)を思い出したのも。

沖縄のユタに、谷川健一さんが質問する。

というシチュエーションが書かれている文庫本を手に入れ、読んでいたんだな。

「神に追われて 沖縄の憑依民俗学」っての。

かの地では、ぐしょう、と言うらしい。

後生へ行ったことがありますか、と聞いた。

もちろん、あるよ、ってわけだ。

この世にある一切のものが後生にはある、亡くなった人もみんないる、と。

どうやってそこから帰ってきたの?

空を飛んで帰ってきた、後ろを振り返るな、といましめられていたけど、忘れて振り返った。

すると、みんな骸骨だった、そうだ。

なんだか、イザナギとイザナミの神話を思い出したり、ギリシア神話にもなかったっけ。

春野町、駿河の西だね、そこでの山犬信仰も。

土地に嫁に来た女性が、今風に言えば、鬱になる。

かの地では、狐憑き、と言っていたかな。

すると、大光寺という、その昔、行基さんが修行したという霊場なんだけど、そこから。

お札をもらってきて、治ると、だったかな、お札を持ってお礼参りに行く。

その時に、後ろを振り返ってはいけない、ということだった。

そんな似たような話が繋がり。

結果、後ろを振り返る、ってのは、そこに存在しちゃうんだな、ないことが。

ないけどある、あるけどない。

わけわかんないよね、この書き方ってのは。

ユタの話だけど、かの地では、ユタという呼び方は、蔑称だというので、物知り、と呼び替えるらしい。

物知り、もの、というのは、それこそ、後生(ぐしょう)のことで、それについて知っている者、とね。

となると、例の、物部だ。

後生を知っている者たちのグループ、部族、とかいうことになるか。

物部守屋が密かに祀られている四天王寺へ行ったな。

聖徳太子に滅ぼされたことになっている、物部守屋を祀る祠が今でも存在し、1000年以上、物部氏の末裔が。

大事に護っているらしい。

今では、当方は、諏訪大社の前宮、その奥宮とでもいうのか、守屋山の守屋のエネルギーで瞑想したりしている。

ということで、なんらかの、ご縁もあるんだろうな、と感慨深い、谷川健一さんの文庫本だったのです。

 

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「野鳥の餌」をヒヨドリが啄む仕草を始めたか。

2022年02月11日 | Weblog

このところ、鳥ネタだね。

表題の餌は、ホームセンターで買ってくるんだけど、ヒヨドリは。

みかんとかを、少し離れた場所で啄んでいたんだけど、この間、スズメや鳩のように。

小さな実を首をふりふりの仕草をしていたな。

かわいいな、と思いつつ、しかし、貴族が1000年前に飼っていたというから。

とかのことを思い出し、1万年くらい、そんなことをしていたら、スズメになっちゃうかもな、なんてね。

つまり、1000年じゃ変わらず、だから、その10倍くらいの年月が必要かもな、という妄想ですが。

ところで、日の出が6時36分だというから、その42分前、というと、なんて計算していたら。

案の定、我がレストランに登場したのが、くだんのヒヨドリだ。

今朝の気温、と言っても、わがApple Watchの指し示す機械的な数値だけど、4度となっているので。

これでもう少し明るくなれば、走ることができるわけだ。

なにせ、安全走行、ってことにこだわっているので、暗い夜道は御用心、ってことだ。

なんて書いてる朝なんだけど、昨夜の遅い時間にLINEが入っていて。

古くからの友人が、癌のレベル4。

なんとか助けたい、というこれまた、古くからの友人からの、で。

昨日の夕方には、こちらは、古くからの若い友人が、前日に葬儀だったんですが。

と訪ねてきた。

白血病で急逝された取引先の方、その会社さんは、その方しか内部事情を把握していないので。

商売不如意でもあり、その事業の一部を引き継ぎたい、というような。

そんなもので。

いずれにしても、すべての人があちら側へ行くことになっているんだけど、なかなかに、日々の忙しさというのか。

生きてあることがデフォ、みたいな流れの中、短い間に、二つの生と死を見せつけられつつある。

なんて感じだな。

そろそろ、生と死の間に佇むもの、その秘密を解き明かしてくれ、ってなもんだけど。

中島みゆきの歌詞を借りれば、永遠の嘘をついてくれ、種明かしをしないでくれ、ってなもんか。

ドラマのエキス、吹き飛んじゃうでしょ、と。

巴川上空は、厚い雲が垂れ込めているけれど、明るくなるのが早くなって、だけど。

いつものランナーは通り過ぎないな。

さて、当方も準備を始めるか。

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知らぬが仏、は実は深淵な意味が。

2022年02月10日 | Weblog

と言う表題のような解釈がやってきた。

どこか、揶揄したような、斜に構えた、そんな言葉として流布しているような気がするんだけど。

実のところは、まさに、仏の境地なのかもしれず。

と言うわけだ。

知るという、こちらから何とか分かろうとするという営為が虚しいのですよ、と言うような。

知らないでいることが、知ろうとしないことが、仏の境地、とでも解釈してみるか。

なになにしようとする、と言うことがなくなれば、そこに訪れるのが、そんな境地、だと。

今日は雨だ。

春告鳥とも言われる鶯の囀りが山では聞こえ始めるのか。

昨日は午後、オトナのキャリア体験と銘打ったワークショップがあって。

5社の経営者さんたちが、求職者さん相手に、結果、わが人生を語る、みたいな、になっていたな。

なんらかの可能性を感じさせるものだった。

経営もプレゼンも求職も、人々の営みだよね。

そこには、当然のごとくにドラマがあり、それをプロデュースする人々がおり、だ。

各々の物語が語られ、それを「取材」する求職の方々がおり、そこでもまた、ドラマが展開し。

って次第。

人生は何度でも設計できる、と言うコンセプトからの発想だ。

まるで、僕の毎朝の勤行?日に新たに日々に新たにまた日に新たなり、まんまだ。

表題のような言葉を吐きつつも、知ろうとするさが、如何ともし難いさが。

その間(あわい)にのぞかれる、仏としての境地、ってね。

いずれにしても、なにごとかがはじまりつつある、そんな予感のする時間でもあり。

かつ、その時間の続き、流れ、まさに、転換の時代、と言うことになるな。

そこまで辿り着くか、そこまで切り開けるか、それが問題だ、ってハムレットみたいだ。

時の流れが、川の流れのように、と言うけれど、時には大きく流れを変えることもあるんだよね、川も。

変わりゆく時代の前で、防衛本能と進取の気性、ネガとポジっぽいけれど、その根っこはおんなじなんだろうな。

世情が大きく動く時には当方も大きく構える、と。

大きく、と言う意味は、たぶん、自分の殻を、自分だと認識している力量を、一瞬、無視、スルーして。

くらいの話かもな。

まさに、自分をデザインし直す、ってもんだ。

さて、述志(じゅつし)も終わったところで、次なるルーティンに向かうとするか。

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玄米にしたらカムカム。

2022年02月09日 | Weblog

エブリバディ、ってやつだな。

咀嚼回数が以前と比べたら半端じゃないな。

なので、何回も書いてるけれど、会食には向かないんだよね。

噛む事以外に口を開かないんだからさ。

戦国時代か、千利休の始めた茶の世界。

あそこで、スパイやらなにやらが暗躍した、なんて話もあるけれど。

会話は、お茶をしながら、って事だったんじゃないのかな。

今の政界では、お茶屋さん、と言いつつ、食事、だよね。

そこがすべての悲劇の、あるいは、喜劇の源、なんて仮説でも立ててみるか。

カラダとの対話が大事、なんて話になると、対話する主は誰なんだい、ってなものだけど。

カラダの声を聞けたらおもしろいよね、鳥たちのやりとりがわかったら、ってのにも似て。

おもしろい、以上の話だろうな。

むしろ、そこにこそ、命をかけろ、とかさ。

そこができてないことこそが、不幸の源、なんて話にもなりそうだな。

なんたって、100兆?の細胞たちでしょ、それに、ミトコンドリアくんが、かける200くらい?

さらに、常在菌というのか、共生菌というのか、それらを合わせると、途轍もない数の命たちだ。

人間はすごいんです、そう、すごいんだけど、そんなこと言うなら、鳥だって獣だってそうだし。

植物から何から、生きとし生けるもの、すべて、って具合だな。

途方もない世界だよ。

話が広がりすぎて、次に続かないので、このあたりにしときますか。

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愛に宛先があってはならない。

2022年02月08日 | Weblog

という今朝の表題は、OSHOからのパクリなんだけど。

それに続いて。

『それはただ あなたの存在が放射状に広がることでなければならない』

とあるんだな。

ついでに、僕自身は、朝の榊の水替え、その時に、「愛と光を」と三回、つぶやく。

同時に、ある御仁の。

『あなたが「宇宙の法則」にすべてお任せしちゃえば、あなたは完全にリラックスした状態。

あなたと一緒にいる人たちもとてもリラックスできる』

なんて言葉にも出会ったのが、昨日だな。

なにも意図せず、なにも言わず、そこにいるだけで、その場が和む、平穏な空気感に包まれる。

というのが、僕自身の望むところでもあり。

上記二つの物言いは、それにかなう状況なんだな。

去年の暮れに、風水の品々を自宅に設置、その注意点は。

やりたいことだけやる、というのだったけれど、つい先日のワークでも。

気ままにやってみよう、というような卦が出た。

卦というのか、よくわからないけれど、生まれた月日による、わが人生の設計図はそうなっている由。

なので、さらに拡幅、増幅、拡がりを持ったことになるな。

早い話が、脳内に引きこもらないでね、ということだな。

カラダ全体で生存する、とか言っちゃうか。

世情で陰から語られる嘘やまことに翻弄されずに、とね。

それにしても、今までを振り返ると、あの人もこの人も今はなく、もちろん、自分の父親、昭ちゃんも。

僕の歳では、この世にいないわけで、いろんな気づき、ハタと膝を叩く光明のようなもの、そんなこと。

それを体感できる幸せ、ってのは、このところ、ツトに感じるところで。

有り難い、って次第だな。

定年退職で、暇を持て余している同級生もいる中、相変わらず、売上が、とか、社内の人間関係が、とか。

それ以外にも、次なる展開をどうしようか、なんて画策しているんだから、そりゃ、そんな気分にもなるな。

なんて書いてきたこの時間、わがベランダレストランには、鳥たちがやってきた。

 

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