いや、まみゃあだんて、と言ったのか。
ずっと前にもアップしたのかも、ですが、わが曽祖母の言葉。
僕がなにか悪さをしたのか、何歳頃のことだったのか。
母親から、つまり、曽祖母のおみなさんからしたら、孫だ。
叱られていたんだろうな、その母親に向かって、の言葉。
その時に出てきた、後生(ごしょう)を思い出したのも。
沖縄のユタに、谷川健一さんが質問する。
というシチュエーションが書かれている文庫本を手に入れ、読んでいたんだな。
「神に追われて 沖縄の憑依民俗学」っての。
かの地では、ぐしょう、と言うらしい。
後生へ行ったことがありますか、と聞いた。
もちろん、あるよ、ってわけだ。
この世にある一切のものが後生にはある、亡くなった人もみんないる、と。
どうやってそこから帰ってきたの?
空を飛んで帰ってきた、後ろを振り返るな、といましめられていたけど、忘れて振り返った。
すると、みんな骸骨だった、そうだ。
なんだか、イザナギとイザナミの神話を思い出したり、ギリシア神話にもなかったっけ。
春野町、駿河の西だね、そこでの山犬信仰も。
土地に嫁に来た女性が、今風に言えば、鬱になる。
かの地では、狐憑き、と言っていたかな。
すると、大光寺という、その昔、行基さんが修行したという霊場なんだけど、そこから。
お札をもらってきて、治ると、だったかな、お札を持ってお礼参りに行く。
その時に、後ろを振り返ってはいけない、ということだった。
そんな似たような話が繋がり。
結果、後ろを振り返る、ってのは、そこに存在しちゃうんだな、ないことが。
ないけどある、あるけどない。
わけわかんないよね、この書き方ってのは。
ユタの話だけど、かの地では、ユタという呼び方は、蔑称だというので、物知り、と呼び替えるらしい。
物知り、もの、というのは、それこそ、後生(ぐしょう)のことで、それについて知っている者、とね。
となると、例の、物部だ。
後生を知っている者たちのグループ、部族、とかいうことになるか。
物部守屋が密かに祀られている四天王寺へ行ったな。
聖徳太子に滅ぼされたことになっている、物部守屋を祀る祠が今でも存在し、1000年以上、物部氏の末裔が。
大事に護っているらしい。
今では、当方は、諏訪大社の前宮、その奥宮とでもいうのか、守屋山の守屋のエネルギーで瞑想したりしている。
ということで、なんらかの、ご縁もあるんだろうな、と感慨深い、谷川健一さんの文庫本だったのです。
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