まわりで起こっていること

since2004.12「糠漬け初心者」

知らぬが仏、は実は深淵な意味が。

2022年02月10日 | Weblog

と言う表題のような解釈がやってきた。

どこか、揶揄したような、斜に構えた、そんな言葉として流布しているような気がするんだけど。

実のところは、まさに、仏の境地なのかもしれず。

と言うわけだ。

知るという、こちらから何とか分かろうとするという営為が虚しいのですよ、と言うような。

知らないでいることが、知ろうとしないことが、仏の境地、とでも解釈してみるか。

なになにしようとする、と言うことがなくなれば、そこに訪れるのが、そんな境地、だと。

今日は雨だ。

春告鳥とも言われる鶯の囀りが山では聞こえ始めるのか。

昨日は午後、オトナのキャリア体験と銘打ったワークショップがあって。

5社の経営者さんたちが、求職者さん相手に、結果、わが人生を語る、みたいな、になっていたな。

なんらかの可能性を感じさせるものだった。

経営もプレゼンも求職も、人々の営みだよね。

そこには、当然のごとくにドラマがあり、それをプロデュースする人々がおり、だ。

各々の物語が語られ、それを「取材」する求職の方々がおり、そこでもまた、ドラマが展開し。

って次第。

人生は何度でも設計できる、と言うコンセプトからの発想だ。

まるで、僕の毎朝の勤行?日に新たに日々に新たにまた日に新たなり、まんまだ。

表題のような言葉を吐きつつも、知ろうとするさが、如何ともし難いさが。

その間(あわい)にのぞかれる、仏としての境地、ってね。

いずれにしても、なにごとかがはじまりつつある、そんな予感のする時間でもあり。

かつ、その時間の続き、流れ、まさに、転換の時代、と言うことになるな。

そこまで辿り着くか、そこまで切り開けるか、それが問題だ、ってハムレットみたいだ。

時の流れが、川の流れのように、と言うけれど、時には大きく流れを変えることもあるんだよね、川も。

変わりゆく時代の前で、防衛本能と進取の気性、ネガとポジっぽいけれど、その根っこはおんなじなんだろうな。

世情が大きく動く時には当方も大きく構える、と。

大きく、と言う意味は、たぶん、自分の殻を、自分だと認識している力量を、一瞬、無視、スルーして。

くらいの話かもな。

まさに、自分をデザインし直す、ってもんだ。

さて、述志(じゅつし)も終わったところで、次なるルーティンに向かうとするか。

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