と言う表題のような解釈がやってきた。
どこか、揶揄したような、斜に構えた、そんな言葉として流布しているような気がするんだけど。
実のところは、まさに、仏の境地なのかもしれず。
と言うわけだ。
知るという、こちらから何とか分かろうとするという営為が虚しいのですよ、と言うような。
知らないでいることが、知ろうとしないことが、仏の境地、とでも解釈してみるか。
なになにしようとする、と言うことがなくなれば、そこに訪れるのが、そんな境地、だと。
今日は雨だ。
春告鳥とも言われる鶯の囀りが山では聞こえ始めるのか。
昨日は午後、オトナのキャリア体験と銘打ったワークショップがあって。
5社の経営者さんたちが、求職者さん相手に、結果、わが人生を語る、みたいな、になっていたな。
なんらかの可能性を感じさせるものだった。
経営もプレゼンも求職も、人々の営みだよね。
そこには、当然のごとくにドラマがあり、それをプロデュースする人々がおり、だ。
各々の物語が語られ、それを「取材」する求職の方々がおり、そこでもまた、ドラマが展開し。
って次第。
人生は何度でも設計できる、と言うコンセプトからの発想だ。
まるで、僕の毎朝の勤行?日に新たに日々に新たにまた日に新たなり、まんまだ。
表題のような言葉を吐きつつも、知ろうとするさが、如何ともし難いさが。
その間(あわい)にのぞかれる、仏としての境地、ってね。
いずれにしても、なにごとかがはじまりつつある、そんな予感のする時間でもあり。
かつ、その時間の続き、流れ、まさに、転換の時代、と言うことになるな。
そこまで辿り着くか、そこまで切り開けるか、それが問題だ、ってハムレットみたいだ。
時の流れが、川の流れのように、と言うけれど、時には大きく流れを変えることもあるんだよね、川も。
変わりゆく時代の前で、防衛本能と進取の気性、ネガとポジっぽいけれど、その根っこはおんなじなんだろうな。
世情が大きく動く時には当方も大きく構える、と。
大きく、と言う意味は、たぶん、自分の殻を、自分だと認識している力量を、一瞬、無視、スルーして。
くらいの話かもな。
まさに、自分をデザインし直す、ってもんだ。
さて、述志(じゅつし)も終わったところで、次なるルーティンに向かうとするか。
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