夕べは、娘の作ってくれたお汁粉をいただき。
そう、お供えのお餅の入った。
その前の日は、七草粥。
これで、どんど焼きでもあれば、一件落着、ってことだけど。
これで、2月3日の立春を迎えるという算段で、そこを境に新たな年が、だ。
その昔は、一つ一つが長いね、というのか、丁寧にていねいに、一つ一つのイベントを味わった。
そんな気がしてきて、当方も、それに倣い、ってなもんだ。
時代や政治や経済や、が、さまざまな様相で訪れるけれど、時の流れに采配を振るうのは。
そこにまったき自由がある、我が方で。
文明の名の下に、ホモ・サピエンスとしてのカラダとココロの流れが、慌ただしいものに変わってしまって。
時には、人によっては、適応障害、なんて名付けられ。
本末転倒も甚だしいことになっちゃってもいるんだけど。
便利さと体内時間とを秤にかけて、前者優位の、そんな時代ではあるんだな。
そんな流れに棹ささず、ってのも一興だ。
せっかくの「緊急事態宣言」下、それを楽しむに如くはなし、ってことだね。
それにしても、もう少し、落ち着いた広報、ってのがあっても良さそうだけど、マスのメディアも。
そうはいかないオトナの事情もあるんだろうな。
だから、子どもの頃、オトナが嫌いだったんだな、きっと。
言ってることとやってること、違うよな、って感覚ね。
それでなくても、朝、起きろ、とか、寒いのにね、眠いのにね。
これ食べろ、なんてのも、食べたくないのに、ってわけだ。
なにせ、とても神経質な、ナイーヴな、線病質な、あとなんだろう、おとなしい子だった、らしい。
なんて自画像も、周囲のオトナからの又聞きで、幼い頃のセピア色の写真を見ると。
天真爛漫な笑顔、なんだけどね、それが、長じるにつれ、笑いのそぶりもない顔になっていたな。
社会への、世間への、オトナたちのつくる共同体?価値の集まり?みたいなものへの。
体内、心内から押し出された、何事かを物語っているような顔。
よくぞ、ここまで生きてきた、なんて、悲劇のヒーローを気取っても仕方ないか。
そう、立春だった。
今年のお正月は、そこかな、と見当をつけていて、時勢にはそぐわないけど、めでたさを。
持続させる1月、ってくらいで行こうかな、と考えている次第。
さて、そんな今日は、走るのか、歩くのか、聴くのか、書くのか、いろいろとありそうでもあり。
いずれにしても、出かけるとします。