知が随分と並ぶけれど、微妙な違い、ってわけだ。
実は、知性VS反知性、とかにしようか、なんて思ってもいて。
んだけど、ベタすぎて、やめといた。
というか、そんな表題そのものが知への讃仰、信仰、信頼みたいになっちゃってるか、なんてね。
はともかく、この間来社された御仁が、「無知の知」というお題の新聞コラムを送ってくれた。
娘さんがお弁当を作ってくれた、と写真を見せてくれた御仁なんだけど。
水瓶座の時代は、i know、我知る、の時代、というんだけど、であるからとも言えるか、知性。
なんて言葉への讃仰に、眉に唾して、って魂胆なんだな。
なんたって、i believeの時代の残滓、残渣、未だ衰えず、って時に、知ることで知ったことへの。
believeってのが、厄介でもあるんだよね。
なんて事書いて来ると訳わかんなくなっちゃうな。
くだんの御仁曰くは、無知、私が知らないことを私は知っている、とソクラテスが言った、なんてことだったか。
なんでも知っているという、どこかの碩学の、賢者に答えて曰く、ってシチュエーションで、だそうで。
そういえば、言う者は知らず知る者は言わず、なんてのも、あったな。
いずれにしても、めんどくさいね、コオロギはそんなこと、考えて鳴いてるかね、ってなもんだ。
この間、来社された女史が、サソリじゃなく、なんだっけ、ワニみたいなの、ペットとして飼っていたそうで。
その餌が、生きたコオロギ、だと言うんだよね。
なんともかんとも、だけど、そんなこと言い出したらキリがないか。
肉、食べるなよ、ってわけだ。
きゃー、かわいそう、このお魚さんがこっちを見てる、とても食べられない、と言って、そこをお箸で撤去して。
結果、食べた、なんて半分ネタのような話もあるしね。
「進撃の巨人」なんて漫画、読んだことないけど、そんな風情濃厚でもあるな、ヒトのやってることも。
食というもの、大事というか、なかなかのものだよね、と誕生日の昨日、話したな。
その視点への復活、復旧、復興の一大事業かも、なんて話ね。
そう、昨日は、午後から財務局関係の方々とのズーム会議。
おもしろかったな。
さまざまな取り組みをしなければ、という観点から、それぞれの方がそれぞれの立場での発言。
群盲像を撫でる、みたいに見えるかもな、神の視点からは、なんてね。
でも、それがホモ・サピエンスの鋭意そのもので。
決して、シニカルに話してはいけません、まる。ってなもんだ。
そう、与謝野晶子の短歌、の話もしたな、わが誕生日に。
柔肌の熱き血潮に触れもみでさみしからずや道を説く君、ってやつだけどね。
これについても語り出せば、一昼夜を要するかもしれず、って大袈裟だね。
はともかく、そんなわけで、誕生日の翌日に向かうとします。