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銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

渡辺幸子、石塚雅彦、伊藤玄二郎、酒井忠康、栗田玲子、宇都宮和代・・・・この23年間、私をいたぶり続けた人物たち

2021-06-11 00:23:32 | 政治

  今は、11日の午後1時半です。先程、水曜日に放映をされたNHKの【サンドのお風呂いただきます。増上寺編の】録画番組を、三日遅れで見たところです。すると、増上寺に入る前に、【豆腐や うかい】によりました。収録をしたのは、何年も前のことらしいのですが、以下の文章とピッタリのチャネリングをなしています。したがって、古いことを描いているみたいに見える、この一文は、現在に見事に続いてくる一文となっています。

副題1、『萩尾望都が、血潮を噴きながら書いた、【一度きりの大泉の話】に、触発されて、私も、別れざるを得なかった、人々のことと、その理由や原因を思い出しているところなのだが、渡辺幸子さんと、私とのトラブルには、CIAが挟まっている部分を除けば、竹宮惠子と、萩尾望都の、別れと、そっくりなのだった』

 ::::::::::これは、渡辺幸子さんという画家と、私との間に起きたことと、そっくり同じなのです。その頃、私と彼女は、仲良くしていて、幸子さんから電話で「(今度、望月画廊で開かれる)大学同窓会展には、鎌倉美術家協会に出した、8号を回すわ。だって、あそこは、展覧会としては、社交場でしかなくて、美術界における経歴としては、小さいものですからね。私って、とっても、忙しいのよ」と、予定を聞きました。

 それに対して、私は、批判も肯定もせずに、ただ、承っておきました。しかし、私の方は、100号を出すつもりだったのです。望月画廊で、開かれる大学同窓会展というのは、確かに、美術界での、経歴としては、数にも入らないものです。しかし、まだ、六本木の新国立美術館が、開館していなかった時期の、上野の、公募団体展を、逃げ出す決意をしていて、そちら向けに、制作していた、100号を、こっちに回して出すつもりでした。

 渡辺幸子さんに言わせると、「自分が、8号を出すといっている時に、黙っていて、そして、実際には、100号を出したのは、ひどい裏切りだ。目下(年下でもある)のくせに、不誠実極まりないひどい人間だ」と、言うことになるのでしょう。しかし、私の方にしてみると、沈黙もまた無理ないことだったのです。

 いったん、かかわりを持って、10年近く、出品をつづけている公募団体展(この場合は、国展と、女流展)を抜けるのは、女郎が花街を、逃げ出すほどの、大変な難事なのです。1990年代の、公募房団体展って、やくざっぽいところがあったのです。国画会というのは、芸大出身者が多くて、最も近代的で、かつ、民主的なところのはずでした。が、それでも、私から見ると、自分が、そこには、とても、存在しえない世界なのでした。しかし、足抜けするつもりなのを、渡辺幸子さんに言うわけにもいかないのです。新制作に出品していて、田沢茂先生の弟子でもあり、湘南地方では、アマゾネス軍団の一人として、高名だった、わたなべ、幸子さんに、それを打ち明けることはできないのでした。神奈川県内には、神奈川県内の、美術界の、社交場があって、パーティがあり、打ち上げ会があり、そこで、飲食を共にするわけで、たちまちにして、噂は広まるのです。

 ただね。渡辺幸子さんは、割と現実主義的な人なのです。大きなコンクールとか、銀座の個展という、気張らなければいけない場面では、精魂を込めるが、鎌倉美術家協会展などという、お客さんが、素人だけの会だと、手抜きをすると、言う感覚の人なのです。テーマもよくて慣れていた、ロールスロイスでしたし。そして、それぞれの展覧会に、固有のサイズ制限があって、上野の伝統ある公募団体展は、たいてい、100号までした。ですが、新制作と、毎日展は、150号まで、許可されていたのではないかしら。当時はですよ。それで、100号と、8号では、時間とエネルギーの込め方に圧倒的な差があるのだから、「100号を出したあなたが、私に、勝つのは当然よ。なんていやな人間なの、あなたって」と、思って彼女は、激怒したのでした。

 私は、100号の作品を出して、渡辺幸子さんを凌駕し、出し抜き、恥を、かかせるつもりなど、一豪もありませんでした。でもね、望月画廊の、お接待用お当番の、予定日に出かけたところ、幸子さんが、私の荷物を乱暴に、ソファーから床に払い落しながら、大声で「なんで、こんな汚い置き方をするのよ」と、どなった時に、すべてはわかりました。しかし、望月画廊は、独立(画家協会、絹谷幸二が、トップの会)の画家が、多く個展をする場所です。独立と国画会は、仲良しです。望月画廊の、スタッフが、聞いている場所で、どうして、「国展には、今年から出さないつもりなの。だから、100号を、こちらにまわしただけよ」と、言えるでしょうか? 言えないです。

 たまたま、その会には、当時、12人のメンバーがいました。しかし、そのうちの、五人が、幸子さんと、同期卒業(?)でした。しかも、幸子さんのご主人が、画家ではないのですが、同期卒業でした。(これは、巻末に、蛇足2として、政治が関与してきて、どれほどに、渡辺幸子さんが、得をすることとなったかを、語ります。)ここでは、12人のうち、6人が敵方に回ったので、私には弁明の余地も与えられませんでした。非常な悪人として、規定をされてしまったのです。

 で、名誉挽回のチャンスはないと考えて、逃げ出すことにしたのですが、ここで、幸子さんと、私との決定的な違いを語っておかないといけません。そうしないと、私としては、立つ瀬がないからです。それは、渡辺幸子さんは、美術の世界における、階級というものに、どっぷりと毒されているという人だと、言うことです。そして、出世したいと、願っている人だと、言うことです。絵を描くことは、純粋な世界ですが、そこに出世とか、階級が入り込むと、苦しくなります。彼女は、この時に、65歳だったから、早く新制作の会員になってとか、そのほか、いろいろな欲望がある真っ最中でした。で、出世のためには、各種コンクールに応募することだと、言うことになって、夜10時だって絵を描いているという生活だったのです。

 また、その出世のために田沢先生の、言うことを聞くことが大切だと、思っていて、支配され切っていました。田沢先生と、言う人物は美大を出ていません。それにもかかわらず、生活のための画塾に、8人程度の、背の高い、美人画家を集めていて、アマゾネス軍団といわれていて、有名なグループでした。女性たちは1940年代という食糧難の時代に生まれたのに、みんな160cm以上の背の高さです。というのは、子供時代にはお金持ちで、育った女性たちです。そういう人たちをまとめて、かつ支配をしていくために、田沢先生は、テクニックを弄していました。中に、美人で、しかも、武蔵野美大卒の桜井陽子さんがいて、固い性格の人でした。その人を弟子から、去らせないがために、幸子さんに、からかわれる役目とか、強烈に支配される役目を、負わせていたのです。幸子さんが、スケープゴートでした。田沢先生は、自分の権力を誇示するために、幸子さんに、朝令暮改と、言う様な指導をするので、悩み切っていました。で、答えるにあたって、「そこを出たほうが良い」と常に言っていました。私は、彼女が、五歳も年上だとは、知りませんでした。ほとんど、同い年だと、考えていたのです。私は、常に人に頼られる方ですが、その理由は見かけによらず、精神的には、揺らがない人だからです。その上、画家としては、私は、一種の二代目でした。父は、石油開発の技師として、満鉄中央試験所というところに所属していました。が、週末は、休みをとれる立場だったし、鉄道運賃がタダですから、中国のありとあらゆるところに行って、遺跡を絵にかいていて、満州文展の特選をとっていて、ラストエンペラーの宮殿、甘粕満映理事長執務室、佐藤正典(後日、人事院総裁に、なっていき、満鉄の、人々の再就職を図った人)などの、執務室を飾っていました。

 それを記録した新聞記事が盗まれています。国会図書館に行けばあると、思っていたら、マイクロフィルム化されていて、かつ、奇数頁で終わっていて、文化面が、採択されていないのでした。それを問題にすると、マイクロフィルムそのものがなくなったと、言われました。アメリカの、公文書館とか、スタンフォード大学行けば、紙の資料があるはずだと、思っていますが、この年になると、もう行くことはできません。

 だから、渡辺幸子さんの方は、公募団体展をやめるつもりだと、言う私の胸中など、推察さえできなかったのでしょう。ただ、ただ、裏切ったとの、一点張りだったのです。

 彼女にしてみると、各種コンクールには、レベルの違いがあって、鎌倉美術家協会展は、もっとも、低いレベルの会(または、コンクール)だから、手抜きの絵だったのです。しかし、上野の、新制作に出す絵は、まったく違うレベルの完成度を目指すものです。

 私は、国展への出品をやめようと考えているわけなので、国展の審査員が求める緻密な技量を示す、作品を作るのを、もう、やめていて、澄み切った心境の絵を描いていました。緑色の研究の絵の集大成だったのです。

 ある一つの作品が成功しているか、否かは、作った側にもわかるものですが、それを、見る人間に、美的センスがあれば、その人にも伝わるものなのです。渡辺幸子さんには、それが、稀有なほどの成功作品だと、わかったのですね。望月画廊で、ほかの、11人と一緒に、一週間だけ展示をするのでは、本当にもったいないことでしたが、傑作を出すつもりで、出し抜いたと言う、彼女の誤解も、郁子なるかなと言うほどに、いい絵だったので、出し抜かれたという気分も大きかったのでしょう。

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副題2、『渡辺幸子さんは、二人姉妹の次女で、したがって、偏愛の対象になっていたと、私は考える。つまり、丁寧な扱いを親から受けない方だ。お父様が、破産をして、その後、彼女は、大学を中退して、一家の生活を長期間支えた模様だ。だけど、お姉さんの方は、無事に大学を卒業をして、家族に奉仕をしないうちに結婚できたと、思う。幸子さんの方に、ひとえに、大きな負担がかかってきた方だった。だから、その責任が終わって、ずっと、待っていてくれたICU同期のご主人と結婚をした後で、ロールスロイスを買う、という気分になったのだろう。ロールスロイスにこだわると、言う理由において、高野ゆりさんとちょっと似ている。一時期経済的に大変だったことへの反動が大きい模様。ご主人は、外資系会社の社長である。だから、お金については、心配する必要はないだろうと思うのに、彼女は、絵描きとしての活動費を、自分で、ひねり出そうとして、必死である。

 私は、自分のお金の、使い方について、彼女から何度も叱られたものだった。過保護というほどに、親から、お金を与えられていたので、お金の価値を知らなかった、そういう側面も、私には確かにあって、そういう意味では、私の方が、彼女より子供ではある』

 渡辺幸子さんの、田沢先生との関係を見ていると、彼女が、本当の意味での自信はない人だと、言うことがわかる。鎌倉のお嬢様であり、フェリス出身であり、1950年代のICU卒業組である。桜井陽子さん以上の自信をもって、堂々と、生きていけばいいのに、田沢先生との関係においては、悩みっぱなしだった。

 ところで、湘南信金、鎌倉支店というのがある。彼女と、望月画廊で、決裂をする前にも、すでに、彼女は、お金という意味で、優遇策を与えられていた。その優遇策のひとつが、湘南信金の三階で個展をすることだった。広さは、銀座の画廊の、大きい部屋の三倍という広さのホールである。2001年だったと思うけれど、当時の彼女程度のキャリア(まだ、銀座では一回も個展をしたことがなかった時期)だと、一週間で、50万円は、とられる時期だったと思う。だけど、湘南信金はあのホールを無償で、貸し出したと、思う。しかも2週間貸した。

 もちろん作家側が、有名になると画廊は、ただで、展示室を貸す。そういう場合、普通だと、売り上げの、40%を画廊側がとる。シロタ画廊が、柄沢斉の個展をするときとか、ガレリアグラフィカが、山本容子の個展をするときは、そういうシステムで、行われる。

 しかし、湘南信金は、画商ではない。その上、日経新聞論説委員にして、外人記者クラブ理事長の、石塚雅彦さんと、伊藤玄二郎合同の、依頼だったら、何の、利益も得ないで、使わせると、思う。で、彼女は、バラを中心とした、花の絵を展示して、純売り上げ150万円は上げたと思う。

 額縁代などの経費を差し引いても、100万円は、純利益として残ったと、思う。彼女は、この時、花瓶に生けたバラの花の絵を中心に売った。バラの絵は、美しく出来上がっているが、どこかで、デジャブーがあった。ただ、フェリス時代のお友達とか御成小学校時代の、同級生には、受ける絵だと、思う。

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副題3,『わたくしは、この時、小品【曼殊沙華】の絵を2万円で買った。これは、お金をケチって、小さいサイズを買ったというよりも、その日、飾ってあった、全作品の中で、最高に、よくできていると感じたから、買ったのだった。その絵だけは、写実から離れて、抽象化してあったが、色が素晴らしかった。赤い円で、表現された曼殊沙華の花が、茶色の背景に浮かんでいる。これは、渡辺幸子の全作品の中でも、成功した方のいってんだと、いってよく、傑作中の傑作ともいえるものだった。

 作る側の立場でいうとこれは、パレットに余った絵の具を使って、ちょこチョコちょっと、描いたものに、過ぎない。と頃が、傑作は、思いがけないところで、描かれているのだった。この絵は、私の手を離れて酒井氏に贈呈をされたと思うが、酒井先生は、葉山に、置くように頼んであるのではないかなあ。まあ、幸運な絵であります。

 しかし、私が、自宅では、妨害を受けて、できない本の制作のために、新橋のネットカフェ【げらげら】で、徹夜をして、やっと家に帰ってきた、その夜中、9時ごろ家に、電話がかかってきて、返すように言われたと、主人が言う。で、徹夜明けで、死ぬ思いだったが、駅まで、持って行った。彼女は、車を運転する人なのに、雪ノ下の我が家までは来てくれず、鬼の様な顔をして、裏駅で、それを受け取った。新橋で、徹夜をしているのは、警察しかわからないことだと、思うけれど・・・・・

 したがって、彼女の後ろにCIAエージェントがいることが分かったのだけれど、・・・・・まあ、これも「お前は、寝かせてやんねえからね。そういう形で殺していくもんね」と、言う例の連中発案の、仕組みの一つだった。

 ただし、彼女は、この個展が、田沢先生に知られることをひどく恐れていた。私は、例のごとく、田沢先生が、嫌いだから、「気にすることはないわ。こっちの方が、上野の公募展に出すのより、いいのもあるし」といった。それは、返せと言われた日の、7年は前のことだった。ところで、絵を買ったお金二万円は、むろん返してもらっていない。

 この後で、彼女には、莫大な、名誉や、金銭が、降ってくる様になるのだけれど、それについては、明日語りたい。

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副題4、『井上ひさし + 伊藤玄二郎の悪意が、豆腐やうかいに、出現したのは、2014年秋だった』

 というお断りを入れて、いったん本日の午前二時に閉じて、12時間後の今、午後二時に再開しているわけです。その間に、【サンドのお風呂いただきます。増上寺編】を見て、・・・・おや、おや、栗田玲子さんに関して、書け・・・・と、神様が言っているわけですか?と、驚いた次第です。 

 とても、複雑ですが、丁寧に書いていきましょう。豆腐屋うかいで、2014年に、開かれた、お茶大付属高校のクラス会で、合計五人が加わっている罠に私は、ひっかけられてしまって、お歌を使った辱めを受け、とても、悲しい思いをします。それを実行した主要人物は、宇都宮さん、坂本きっこさん、中島加奈子さんでしたが、この三人が、自動的に思いつく罠ではあるはずもないのです。

 考案したのは、むろんのこと井上ひさしです。彼は、公的には死んだことにしていますが、そちらが嘘で、いまだ生きていて、様々な謀略を紡ぎだしています。一応死んだことになっているので、表向きの連絡係は、伊藤玄二郎を使います。伊藤玄二郎は、かまくら春秋社社長ですが、同じ出版社、特に私費出版も手掛けている、冨山房インターナショナル社長の、坂本きっこさんと、すでに通々の間柄になっているでしょう。坂本きっこさんは、神保町で、高級喫茶店【冨山房サロンFolio】も、経営している人で、この30年間、同級生の間でも、『その力量は、ご主人を上回っているわね』と、言う評判の女性経営者です。ご主人は、本体の、冨山房の社長さんだったはず。 冨山房サロンFolio は、NHK ETV【スイッチインタビュー・今泉忠明 VS 山田るい3世編】でも、収録場所として使われました。

 坂本きっこさんは、神保町の経営者として、履歴が、40年はあるでしょうから、高野悦子岩波ホール社長とは、すでに、既知の間柄だったと、思われます。その高野悦子岩波ホール社長に、取り入って、懇意にしてもらっているのが、伊藤玄二郎なので、坂本きっこさんも、伊藤玄二郎の、言うことを聞くと、言う流れになっています。きっこさんは、悪い人ではないのです。ただ、計算をする人だし、怜悧な人だから、私に見破られる恐れはないと考えていたと、思い、伊藤玄二郎側に協力をしました。

 私が弾圧を受ける署員はただただ、一点だけ、つまり、頭がいいと、言うことだけなのですから、私を悲しませたり、損失を与えたりしたら、必ず、実名で委細を書かれるとは、覚悟をしてください。

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副題5,『伊藤玄二郎は、栗田玲子さんをも、動かしたはず。栗田玲子さんは、イタリア大使館、出入り文化人の、縁で宇都宮和代さんを、使役することに成功した。このイタリア大使館・で入り文化人としては、現在のところ、やまざきまりさんが、突出して、使役をされている。養老先生の、最近の著書でも、中川恵一医学部教授との、鼎談が、組まれているし』

 ここで、栗田玲子さんが出てくるのには、必須な条件があるのです。この章の、副題3に、・・・・・新橋で、徹夜をしている、私を次の日に寝かせない・・・・・そういう形で、緩慢に暗殺していく仕組みの一つとして、渡辺幸子さんが前夜9時過ぎに我が家に電話をかけてきて、主人に「絵を返せ」と言ったと、書いていますね。その命令を、渡辺幸子さんに下したのは、栗田玲子さんだと、推察しています。その流れを丁寧に、書いていきましょう。

  その頃の私は、自宅では、ワードが、ほとんど使えない、毎日でした。アドビもダメだったのです。ものすごい妨害を受けていて、一晩に、50回以上、システム異常が起こされると、言った体たらくでした。それで、自分のパソコンを持って出て、レストランやカフェで、仕事をしたり、件の日みたいに、その前に、銀座の画廊巡りをする日には、パソコンは、持って出ないで、ネットカフェの貸しパソコンを使って、USBからデータを移して、仕事をしていました。

 当該の日の警察庁長官は、以下の二人のどちらかです。

20 漆間巌 1969年

 (昭和44年) 2004年8月13日

 (平成16年) 財団法人交通事故総合分析センター理事長

内閣官房副長官(事務担当)  

21 吉村博人 1971年

 (昭和46年) 2007年8月16日

 で、責任者は、この二人になるわけですが、警察もしくは、鎌倉エージェントは、『自分たちが頭がいいんだ、どうだ、参ったか』といいたいらしくて、新橋のネットカフェ【げらげら】に、その日10人ぐらいの刑事または、警官を待機させていたのでした。(?・・・・・私は、警察内部の、組織のことはよく知らない。だから、刑事と警察官の区別ができない)つまり、脅かして、仕事をさせないようにして、きたのです。

 どうして、それがわかったかというと、普段は、夜は、ほとんどお客がいないネットカフェなのです。私は、ネットカフェを使うにしても、選んで、使っています。つまり、客層のいいところしか使っていないのです。ここのネットカフェは、たぶんですが、ビルのオーナーが経営しています。で、画廊も同じですが、ビルのオーナーが経営している画廊は、もうけは二の次にして、文化の支援者という形を、協調しています。ネットカフェに戻りますが、ほかの階からのテナント料が、十分に入るので、ネットカフェで、儲けようと考えていません。昼間サラリーマンたちに、休憩と憩いの場所を提供すればいいのだと、考えています。だから、夜はほとんどお客がいません。それなのに、その日だけは、お客が10人程度いて、みんな汚れたズックの靴を履いていました。ちなみに、普段は、みんな革靴です。そして、ブースと、ブースの間に、ロープを張って、薄汚れたタオルを張って、干していました。本当に笑っちゃうほど、想定内パターンを踏襲していて、実情に沿ってはいないのです。

 でね。『また、また、実際の状況をまるで、知らない井上ひさしが、得意がって、こういう提案をしたのだろう。警察は、鎌倉エージェントの、手下ですからね』と、思い、いたった次第です。とても、いやな縁ですが、井上ひさしは、「お前の全行動を把握しているんだよ。膝下に下れよ」と、言い続けてきているのでした。それで、自分を誇示したいからこそ、ブースと、ブースの間に、汚れたタオルを、干しているのです。ストリップ劇場の、座付き作家として、泊まり込みで、働いていたころ、彼こそ、舞台裏にロープを張って、一枚しかないタオルを、干していたのではないですか?

 しかし、馬鹿みたいだなあと、内心で笑いながら、そこで、5時間は、仕事をつづけました。しかし、インターネットに接続をしていなくても、五時間も同じところで、仕事をし続けていると、また、持ち込みルーターなどを通して、支配を受けて、妨害をされます。だから、午前二時ごろ、かしをかえました。ところで、その頃に書いていた文章は、まったく問題がないのです。しかし、レベルが、高くて面白いのだと、思います。で、私がブレイクしたら、困ると、思っている連中が、こういういたずらを警察を使って、行ってくるのでした。

 編集の仕事とは、大きな神経を使うので、疲れ切って、帰宅をすると、渡辺幸子さんから、絵を返せという催促です。彼女は、2002年に、望月画廊で、私を、いじめたおかげで、その後、莫大なお金と名誉を得続けます。その一つが青木繁大賞展の、大賞受賞で、賞金は、100万円でした。その上、貸し画廊としての、ガレリアグラフィカ(栗田玲子さんが経営する画廊)で、ただで、個展ができるという副賞を得ました。この電話がかかってきたときは、すでに、ガレリアグラフィカでの、副賞の個展が終わっていたので、伊藤玄二郎が警察から、連絡を受けて、栗田玲子さんに、連絡を入れ、

 上で、言っている通り、2001年ごろ、湘南信金で、個展をして、100万円から、150万円のお金を稼ぎ得ました。それは、ただ、私と知遇があるというだけで、彼女がライバル設定を受けて、そのお陰で、入ったお金でした。その次に、私を、2002年に、望月画廊で、いじめたおかげで、2005年に、150万円が入ったのです。それは、65歳から、75歳までの、軍資金となったはずです。その後は、外資系会社の社長をしていた、ご主人の、退職金を使えば、なんとでも、活動ができるはずです。非常にラッキーな人生でした。

 その前だったと思いますが、鎌倉駅のトイレに、二人が、同時にいたのです。女子トイレに、玲子さん、男子トイレに、玄二郎がです。その時の栗田玲子さんの、ものの言い方で、彼女がすこぶるつきの悪女だと、言うことがわかりました。彼女は、葉山に住んでいるのですから、夜の10時半に、鎌倉駅に途中下車してはいけないのです。結婚をしているのですからね。しかし、夜の、7時15分から、銀座で、会食をはじめて、1時間半話し合っても、こと私への、加害策をどうするかの話が、終わらなかったのでしょう。それで、伊藤玄二郎が、「お宅へは、タクシーで送りますから、僕の会社の会議室で、続きを話しましょう」と誘ったのだと思います。

 これ以降、書き続ける予定のことは以下です。日本航空と、平野和子さんの話、スチュワーデス(すっちー)という語彙が消えた理由、2000年の私の個展は、平野さんの画廊で、行ったので、日本航空の、縁で幸子さんが来てくれたこと。ただし、ほかの画廊での個展には、来てくれていないこと。したがって、幸子さんは、私の油絵の大作を、かつて、見たことがなくて、望月画廊での、100号を初めて見て、驚嘆をして、私の作品が持つ、色使いの素晴らしさとか、上品さに、激しく嫉妬したこと。それは、今回問題にしている竹宮惠子と、萩尾望都の関係に似ているし、私が、即座に、グループICU展を抜け出して、やめてしまったことも、とても、よく似ている。

 ところで、渡辺幸子さんをめぐるお金の話は、秘密でも、ミステリーでもない。で、それを傍見し、きちんと分析すると、こちら、鎌倉雪ノ下でのご近所様へのお金の流入も、きちんと、正しく、分析できる。(ここは後で、詳述するが、平木家が、屋根の修復も、壁のペンキ塗りも、公費でしてもらって、かつ、お子様が、去年の秋のうちに、東大へ推薦入学が決まっていたと、言うことは、特記しないといけない。平木さんは、この10年間、見事なほどに、敵方に、協力して、私を苦しめている。そのご褒美が、かくして下っている。

 ところで、今週水曜日の、【サンドのお風呂いただきます】で豆腐屋うかいが、出てきたので、2014年の豆腐や、うかいでの、謀略について、触れないといけなくなった。栗田玲子は、教育大学西洋史学科卒で、宇都宮和代さんは、お茶大西洋史学科卒である。ここも、相当な時数を使って、下記進めないといけないところだ。

@@@@@@ここが第一の書きかけ中の最先端です。以下は、メモです。

 国画会内部で、不遇だったのは、むろんのこと政治が関係していて、大沼嘉津江(島田章三さんの実妹である)さんと、杉本正子さんと、杉本俊一氏と、瀬島龍三が絡んでいるCIAエージェントの、指図で、島田章三さんが、弾圧をしていたからでした。我が家の旧宅のすぐそばにあった、旧水道山の、ただでの私有化(地積変更届というものを利用した。で、書類上は、犯罪ではないが、実質的には、大詐欺事件である)を、遂行した一味は、美術界において、若江漢字と島田章三さんを、私の相手として、最初にライバル設定をして、その二人に名誉と、大金が流入する様に諮った(または、図った)のです。

 2002年ごろには、そんなことは、私は、外部には、語っていませんよ。だけど、わかっていました。だから、国展は、やめるしかないのです。しかし、国展をやめて、女流展にだけ出しますか? そんなことはできません。もし、そんなことをしたら、国画会に、けんかを売っていることとなります。

 それについて、国画会の大パーティで、誰かに説明をできますか? できませんよ。だから、私は黙って、身を引いて、日陰の立場に、身を置いたのです。しかし、文章については、自信があったので、そちらに出向くつもりでした。美術評論をしようと思っていたのです。しかし、そちらも、大原光孝さんが、中島千波さんの助けを得て、春季日展に、後輩の画題とそっくりな、ただし、マチエールはまるで違う荒いものを、出品して、三越で、展示をしたケースと、心の奥底で、深い友情で、結ばれていた山口みつ子さんが、自殺と喧伝をされて、実は、他殺と、言う形で、殺されたのと、みつ子さんの画廊の常連で、毎日展の、常連でもあった、そして、中学の動機でもあった、大久保忠治さんが、暴走老女に、ひき殺されたと後で、聞き(大学教授が、ひき殺されても、全国的ニュースにならなかったことや、大久保忠治さんを、よく知っているアズの、山口千里さんや、中学の同期生、100人の中心にいるはずの、高田ひろ子さんの、電話内での、態度のあれこれから、

 

@@@@@@ここが第二の、書きかけ中の最先端です。

 

その亀裂は、間に政治が挟まったので、より大きな亀裂と化し、ヤマザキマリさんが、養老先生病院へ行くという書物の中で、養老先生と、中川恵一氏と鼎談をするところにまで発展をしていく。(間の説明は、ここでは、繰り返さないが、伊藤玄二郎と、栗田玲子さんが、仲がいいことが、こういう点に結びついていく):::::::ここで、私のケースから離れて元へ戻ろう。

 

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