下記の文章の加筆が、26日の午前五時に終わりました。総タイトルには、加えていませんが、読売新聞の某記者(一人か、数人かはわからないが?)が、鎌倉エージェントの教唆のもとに、大きな動きを、対私弾圧の方向で、やっていることを、初めて、丁寧に語ります。このブログは、私個人のことを書いている様にみえるでしょうが、実は、日本全体を包む、大きな問題を内包しているのですよ。
例えばオリンピックです。佐野研二郎問題と、自由が丘駅での、私と、小学校時代の、友人の話の連携を書いています。その時、東京五輪は、失敗に終わると、心の中で、考えていました。ただ、呪いになるといけないので、外には出していません。しかし、その通りになっています。
また、新国立競技場の設計コンペで、隈研吾が勝ったときには、・・・・・・これで、東京五輪は、120%の大失敗となるでしょう・・・・・と、はっきり感じました。ただ、それも呪いになると、いけないので、口外をしていません。ただ、部分的には、問題点を指摘してあります。
隈研吾が、植物を競技場に持ち込んだこと(それは、手入れに多大な人件費が必要です)、また、図体の、大きすぎる施設を作ったことで、それ以降、有用性がないので、メインテナンス費用だけ莫大にかかる金食い虫であるという点。それで、彼の設計マンとしての、思想や、哲学を疑いました。国民の税金で作るもので、国民に将来にわたる大迷惑を与えるものを作る設計家って、何なのでしょう? 頭がいいのだろうか? 私は、典型的な東大卒頭脳だと、思っています。だから、国民にとって、大迷惑行為をなす設計家で、この新国立競技場は、日本が滅亡していく過程の、シンボルとなるでしょう。これも開発ちえさんが、残酷極まりないいじめを、2012年に、対・私に対して行い、その際、自分が上であることの証明として、「実家の料亭=開化亭の新館の設計は、隈研吾がやったのよ」と、威張りかえったこととセットになっている、ケースです。
この紫色のフォントの部分は、すでに、詳細に、委細や、因果関係を書いている部分ですが、そのリンク先を探すことは、今は、やらないで、先へ進みます。(以上は、25日の午後二時半に加筆)渡辺幸子さんに集中したいからです。
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副題1、『萩尾望都の著作には、大いに励まされた。そのどこに?』
萩尾望都の著作に励まされたと、前報(後注1)で言っています。萩尾望都は理不尽な、(=わけのわからぬ)絶縁状を、一緒に住んでいた竹宮恵子からもらって、激しく苦しみます。その現場である大泉を、相手方も離れ、萩尾も離れます。そして、新しい土地で、商売道具の、目がだめになるほどの、苦しいストレスを浴びるのですが、なんとか、50年近く、耐え抜くのです。しかし、相手方が、ある書物【自伝風のもの】を出して、それ以来、・・・・・二人の間に、本当は、何があったのか?を・・・・・、探りたい人々が、大勢出現しました。それで萩尾の、助手にして、支援者である城章子が、「一度本音を語った方がいい」と、提案します。それは、「自分から語るという形ではなくて、他者から質問を受けるインタビューという形がよい」と、城章子は提案します。萩尾は、神経質な人間なので、インタビューを受ける前にメモを準備します。その準備中に、さまざまな思い出が浮かんできて、萩尾自身が、膨大な文章を書く結果となり、大部な本ができるし、相手側(竹宮恵子+増山法恵)と、自分との間にあった、本当の問題にも、気が付いていきます。
ネタバレになると、いけないので、その本当の問題の、一つの方だけを、城章子の後がきから、掘り出すと、竹宮恵子+増山法恵側から見たら、思いがけないほど、萩尾の実力が、高く、人気も高くなったので、追いつかれそうな、追い抜かれそうな、危機感を抱いたことがあったのではないか?と、言っています。つまり、後から来たものが、人気を得ることに対する恐怖です。これは、(私の言葉と解釈ですが)、頼朝と、義経の間の争いの発端でもあります。
しかし、本日は、渡辺幸子さんと、自分との間柄に起きた問題を語りたいので、恐れ入りますが、ネタバレになることを恐れず書いていくと
、争いが起きた一番の問題は、ボーイズラブにあったと、萩尾は、解釈していきます。私は、全く漫画を読まないのでボーイズラブ(少年同士の同性愛らしい)が、腐女子という言葉を後日、産んだと、言うぐらいの知識しかないのですが、
萩尾は、少年が登場する漫画を、三つぐらい書いたらしいのです。それが、竹宮・増山連合軍の逆鱗に触れたらしいのでした。竹宮・増山は、自分たちこそ、ボーイズラブの世界を、最初に、描くはずの人間だと、思い込んでいた模様です。そして、たまたま、萩尾が、似た世界を書いたことを盗作であると、誤解をしたのでした。その誤解が生まれた、心理的・機序を、萩尾は、排他的独占愛と、呼んでいます。それは、竹宮に対して、遠慮がある語彙で、排他的独占欲と、語彙を変化させると、一般の人の頭にとっては、より、わかりやすい概念になると、私は思います。しかし、萩尾にしてみれば、・・・・・自分は、竹宮たちが、考えている事(自分たちの大切な宝物を奪ったという感想を二人は抱いたらしいが)とは、全く違って、ただ、偶発的、内在的に、浮かんだイメージを作品にしているので、盗作と言われるのは、理不尽極まりない・・・・・と、萩尾は、書いています。
私は、竹宮の自伝を読んでいませんが、誤解によって、切り捨てた方が、竹宮で、切り捨てられた方が、萩尾だと、言うのは間違いがないと、思います。それが、渡辺幸子さんの、誤解によって、大損失を与えられた私の深い共感を呼んだのです。
なお、竹宮恵子の後ろには、1970年代には、CIAは、引っ付いていません。ただ、これから先は、私が萩尾望都を、称揚したのでわかりませんが。しかし、渡辺幸子さんの後ろには、CIAエージェントが引っ付いています。で、私の被害たるや、萩尾望都とは、比較にならないほど、大きいです。今まで、いつもカモフラージュして、真実に迫らないで、来ています。それは、幸子さんが、五歳年上だと、言う事もあるし、大学同窓の先輩だからと、言う面もありました。鎌倉在住だし。
しかし、本当のことを言うと、幸子さんは、中退して、JALのスチュワーデスになったのですよ。父君が破産をしたから、一家を経済的に支えたのです。で、私が、これを以前ブログで書いたので、「スチュワーデス」という語彙が、消えました。キャビンアテンダント、という語彙になったのです。その変更は、ひとえに、幸子さんが、私をいじめたので、始まった変更でした。
その上、ICU同窓会のサイトで、幸子さんは、長文のインタビューを受けています。インタビューワーは、渡辺真理さん(元、TBSアナで、その後独立している。最近、横浜市長選に出馬とか、言う情報が流れたが、現在のところ、未発表)です。写真入りの、きれいな頁で、ソニー社長とか、平田オリザさんとかと、同じサイトで、同格の扱いを受けて、幸子さんは、大活躍でした。(この部分は、25日の2時半に加筆をした)
しかし、6月22日にチェックしたところ、今は、引っ込めてある模様です。私のブログの力がどれほど、大きいかがわかります。渡辺幸子さんについて、触れられると大変だから、全員、50人分以上のインタビューを、見えない形に伏せたのでした。しかし、いずれ復活するはずですし、私のパソコン以外なら、今でも、見ることができるのかもしれません。ただし、渡辺幸子さんの頁だけは、復活したサイトの中で、相変わらず、引っ込められているかもしれません。そのインタビューを受けると言う事は、中退を、卒業と、変更してもらったから可能なことでしょう。だから、CIAエージェントたちの特権を証明する頁となるからです。で、引っ込める可能性は、大いにある。
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副題2、『漫画は、雑誌に連載すると、言う形で、初出があり、その後、単行本になる。だから、サイズが決まっている。で、竹宮と、萩尾の争いは、サイズではなくて、テーマだった。テーマを盗んだと、竹宮が誤解をした点が、手ひどい、別離策を萩尾に対して、とることへつながった。
しかし、油絵の方は、サイズは、大小、種々であり、私と、渡辺幸子さんとの間の誤解は、すべて、油絵のサイズから起きたものだった。それから、テーマにおいても、油絵の世界では、特に具象画の世界ではルーズである。日展など、同じ先生についていると思しき生徒さんが、全く同じ対象(生物画)を描いている絵が、6点ぐらい混ざっているものだ。これは、六本木に移ってからも同じである。
油絵は、自分で、木枠を作れば、サイズの種類は、無限大になる。同じ長方形でも、長辺と短辺の差によって、S型、M型、F型と三種類あるし。ただし、一般的には、ゼロ号から、150号までを使うケースが多い。
いわゆる素人さん(市町村設立の公民館で開かれる、かるちゅあースクールなどで、友達と一緒に油絵を描いている人たち)は、6号を中心としたサイズの作品を描く。
しかし、上野、または、六本木の公募展に、入選させようとすると、特に、今、現在、勢いと人気のある、団体の展覧会の場合、たいていは、上限が、100号なので、ほとんどの人は、100号を描く。それが、いっぱしの画家と、認められる、道の一つだと、言う暗黙の了解事項もある。(ただし、私の公募団体展の知識は、2003年までであり、今は、変わっているかもしれない)
ただし、公募団体展に、かかわらないで、生きる生き方もあって、そちらの作家たちは、小さなサイズで、主に画廊の個展で、発表活動を行って、名前を挙げていく。保坂涼子さんは、立体と言って、昔でいう彫刻の世界の人だが、小さいサイズ(一メートルで収まるサイズ)で、画廊の個展で、勝負しようとしていた作家だが、最近、新制作に出品の模様。
こちらの側の作家は、主に美大を出ている人が多い。で、先輩の生き方を見ているので、出世する方法を、知っている。特に、公募団体展以外で、さがそうとしている、人種だ。海外へ、留学する手が、使われるケースが多い。だから、これらの人々は、プロなんだけれど、小さなサイズの絵を描く。
渡辺幸子さんは、その両方に、出品をしていて6号程度の小さな絵(鎌倉芸術館で展示をする)から、120号(新制作展用)、150号(各地の、コンクール用)までの、作品を常時制作していた。
私は、1990年上野の公募団体展に、入選し始めると、それ以降は、100号から、120号の絵を描くことだけを始めて、そのサイズを、一年に、7枚は、制作していた。しかし、文化庁の在外研修生として、パリへ、行くことができた、1998年以降は、ひそかに、公募団体展から、足抜けをしようと、考え始めた。で、100号サイズの絵を制作したのは、2001年までである。
しかし、公募団体展に、いったんかかわってしまい、しかも誰かのサポートもなくて、なかなか、会員になれないで、一般入選者という資格で、生きている場合、脱出することが非常に難しい。この間、国画会のサイトに入ったら、山口千里さんが、まだ、会員になっておらず、会友にも入っていなかったので、脱退したのだろうと、推察した。山口千里さんの場合は、聖心女子大卒という形で、国画会の中で、先輩がいない。ただ、野見山さんの秘書に、すでになっている。私と親しい時期があったがゆえに、CIAえーじぇんとたちにリクルートをされて、野見山暁次さんの秘書になっている。で、テレビで、野見山さんが取材を受けるときは画面に彼女が映るし、雑誌【美術の窓】の野見山さんの連載エッセーの中では、「千里が、千里が」という表現が、頻繁に出てくるほどなので、国画会の、会員であると、言う冠がもう不要なのだと、推察している。国画会に出品しているときから、すでに、三越で、個展をしていたほどなので、嫉妬の対象にもなっていて、なかなか、出世できないと、言う形にもなっていたと、私は推察している。
ともかく、いったんかかわりができた国画会への出品をやめることさえ、女郎が廓を足抜けをする程に難しいので、私は誰にも言わなかった。その縛りのきつさへの恐れは、幸子さんも同じ様に抱いていて、例のCIAエージェント、たちのご援助で、湘南信金、鎌倉支店の三階の広いホールで、薔薇の油絵(具象画)を展示して、150万円以上300万円近くの売り上げがあったと、思われるのだけれど、それを、新制作の会員である田沢茂塾の人たちに知られることをひどく恐れていた。同塾の筆頭格、武蔵野美大卒の、桜井陽子さんは、江ノ電を使うのだけれど、湘南信金のそばを通って市役所や、紀ノ国屋へ行くかもしれない。それで、湘南信金の、一階の、ホールへの入り口に、通例は、置いてある、渡辺幸子展という看板が置いてなかったほどである。本当に、ばれることを恐れていた。そんな些細なことでも、売上高が、大きいので、ほかの女流画家たちの嫉妬を浴びて、新制作の会員になれないのではないかと、恐れていた。田沢茂先生自身の絵だって、彼女の薔薇の絵ほどの売上高は、あげられなかっただろうから、田沢先生自身が、嫉妬するかもしれなかった。
まあ、この話は、20年以上前の話だ。その後、渡辺幸子さんは、・・・・・CIAえ-じぇんとの援助で、賞金を得たり、ご主人(外資系会社の社長)の定年があったりして、金銭的には、富裕になり、お金の出し入れに、気を遣うことはなくなった・・・・・・と、私は、推察している。
彼女は、私より、五歳も年上なのに、気弱なところとか、子供っぽいところがあって、いろいろ内面的な苦しみを打ち明けられていたが、この個展には、お招きを受けていたので、その当時は、私は、彼女から、信頼をされていたと、思う。彼女のシロタ画廊での、初個展でも「気を付けた方がいいことは、何?」と聞かれたので、「一応、オープニングパーティの手配をしておいた方がいい。お料理は、どこで、いくらぐらい買うか、誰かが作ってくれるか? ワインはどこで買うか?とか、事前に、決めておいた方がいい。そのお手伝いを頼む相手だけど、画家仲間には、頼まない方がいい。あなたが、昔から付き合っている、学友がいい」と、言っておいた。個展をシロタで、開くことすら嫉妬の対象になる可能性があるからだった。
ところが2002年の、二月に望月画廊で開かれた大学同窓会展の、直前に、彼女が、「鎌倉で、展示したものを銀座へ回すわ。だって。望月画廊の会は、社交的なものですものね」と事前に電話で打ち明けてくれていた。それなのに、私は、その時は、自分の考えを漏らさず、ただ、展覧会が始める、その日に、100号をポーンと出した。国画会用だった。それを回しただけだったのだが、それが、大いなる誤解を招いた。鎌倉芸術館で、展示をするものと上野の都美館で、展示をするものは、彼女の場合は、レベルが、違う絵なのだろう。私は、鎌倉芸術館では、展示をしないので、一年に制作するのは、すべて、100号サイズで、まあ、プロ向けの真剣なものだった。しかも、その時転用したのは、国画を去ろうとしているし、パリや、ニューヨークから帰ってきた直後だったから、ある意味で、気張っていたし。だから、とても上等なできの絵だった。彼女も無論、それが、わかる人だ。
それで、「川崎千恵子は、私を、出し抜いて、自分だけが、良い目を見ようとしている」と誤解した、渡辺幸子さんは、その週、最大級のいじめを行った。彼女は、職業として、日本航空のスチュワーデスだったので、女性固有の、いじめ問題に、練達していて、12人のお仲間全体から私は、手ひどくいじめられてしまった。特に、毎日は、画廊に、詰めていないので、全頁を見ていない芳名帳のコピーをもらえないのは、痛手だった。芳名帳は、グループ展でも、画廊の入り口に、一冊しか置いていない。このグループ展に参加するのは、この時で、三回目か四回目だったが、芳名帳のコピーがもらえないことになったのは、初めてだった。
で、芳名帳を持っている男性先輩(企業社会で、出世した紳士)に、「お宅の玄関をおたずねしますから、近所のコンビニで、コピーをとってくる間だけ、貸していただけますか?」と言ったら「だめだ」と、言われた。幸子さんのご主人が、この紳士と同学年の男性だから、幸子さんが根回しをしていて、同期のお仲間がいないという、私の弱みを突いてきたのだった。
望月画廊とは、今は閉店をしている。だけど、独立の会員や、会友が、主に、個展をする画廊だったので、上條陽子さんも、見に来ていただいていた。ほかの人で、女流展で、私を知っている人が来てくれているかもしれなかった。私は国画会でも、女流でも、まだ会員ではなかったから、すべての人に対して、下手に出る必要があった。たった、一点だけ(ただし、100号だが)を展示しているのに、見に来てくれたプロの画家たちに対して、礼状を出すのは、絶対に必要なことだったのだ。
その12人の中に、石塚雅彦さんがいるので、私と喧嘩をした人は盛大に、持ち上げるという対象に、渡辺幸子さんが、それ以降、成って行ったのだった。
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副題3、『ここで、読売新聞が登場する。Yさんという優秀な先輩が、読売新聞で、出世していたので、石塚さんが、そのルートでも使ったのか、読売新聞は、対・私いじめに、その後、散々使われることとなる。
2005年ごろ、渡辺幸子さんは、青木繁大賞展の大賞を得るのだが(審査委員には、酒井忠康氏が入っている。そして、賞金が100万円で、ガレリアグラフィカでの、個展の権利を得た。後者は、表向きは、50万円得するだけだが、そこで、個展をする作家は、プラスアルファ(一流であるという証明)が、つく。
そのニュースを、読売新聞が流した。
次に読売新聞が、大きな役割を 果たしたのが、山口みつ子さんが他殺なのに、自殺と喧伝をされた一件である。なんと、川島さん(村松画廊のオーナー)に取材をして、「画廊の中には、不況で、自殺をする人もある」と、言うキャプション付きの写真入りの、コラムを載せた。その写真が、ギャラリー山口の入り口ドアの写真だったのだ。一般の人には、自殺をした人の固有名詞はわからない。しかし、美術界の人間だったら、すぐわかる。ひどい形での、サブリミナル効果だった。
しかも、その新聞記事を、二月に入ってからだったと思うが、exhibit Live and Moris のオーナー、森さんが、切り抜きとして、私に渡した。
森さんは、そのころ、画廊で、個展を開催していなくて、画廊の真ん中に大きな机を置いて、新聞を大量に整理していた。森さんというのは、額に傷があり、それを質問をすると、若いころに受けたと、答えた。で、私は映画【パッチギ】の世界を想像して、『森さんは、大学を出ていないみたい』と、推察した。『高校時代不良だったんだから。そうでしょう』と、想像した。で、も、大変な勉強家ではある。だから、新聞を大量に整理して、たくさんの切り抜きを作っていても、不思議には、思わなかった。そうなのだけれど、後から思うと、それを含めて、謀略だった。何のための謀略かというと、読売新聞の切り抜きを私に読ませるためだった。
:::::::::::ここで、挿入になるが、私は、森さんの画廊以外では、立ち話をしないので、山口みつ子さんの死は、当然知らなかった。しかし、2010年1月17日着(ただし、パソコンが破壊され続けているので、実物は残っていないが)の、近藤実・奇魔々美術館館長からの、個人メールでそれを知った。
近藤さんは、一時期大変好意的だったのだが、中沢たい子さんが、経営する画廊の事務室で、一時間以上の長さにわたって、個人的な話を交わしたのが、敵さんの把握するところとなって、近藤さんは、裏切ってくる人となった。きっと中沢たい子さんの画廊で聞いた、かれからの打ち明け話を先に私が、外へ漏らしたと、言う形にして、彼が私を、恨む様に手配をされたのだった。
それで、近藤さんから、「毎日新聞の下の方に、それが載っているが、ギャラリー山口のオーナーが、飛び降り自殺をしたんだって」という個人めーるをもらった。が、それをくれること自体が、私への、いじめではないかと、疑った。
が、その瞬間もそれ以降も、みつ子さんの死は、自殺だとは、全く思っていない。近藤さんから、お知らせが来たからこそ、それも傍証の一つとして、山口みつ子さんは他殺であると、確信をしている。ほかにもいろいろあって、他殺であると、確信をしている。
ところが、私は、「山口みつ子さんは、自殺ではない」というメルマガを、読者、特に、美術関係者には、送ったものの、どうして、そういえるのかは、その2010年の一月から二月には、発表をしていない。
2017年に入って、ギャルリーユマニテが、引っ越しの予定を教えてくれないでいて、大変な恥をかかされたので、とうとう真相を語ることにしたのだった。保坂涼子さんが真実の原因だった。
ギャルリーユマニテが、2016年度中に、二回も個展を開かせてあげ、引っ越し後の第一回目のチャンスも与えていた、保坂涼子(今は、航子と名前を変えている)と、秋山祐徳太子が、山口みつ子さん殺しの、本当の引き金を引いたのだった。ここは、すでに書いている。しかし、今は、リンク先を探すことに時間を費やすよりも、先へ、急ぎたい。このいきさつは、大変長い文章となるので、繰り返しての詳細は語らないが、ともかく、みつ子さんは他殺である。
殺した目的は何かというと、彼女が、画廊を閉鎖すると、当然、私と付き合いを始める筈で、そうなると、私の力が強大になるからだった。そして、もう一つ、私を脅かす目的もあった。「お前の味方は、警察の特殊部隊が、殺していくんだ。だから、味方を作るな?」という脅かしだった。
これは、妹の死にも当てはまる。山口みつ子さんの、死の七年後の、2017年の7月10日妹が殺されたのだけれど、全く同じ目的で殺された。二人とも、私のために殺された。
これは、書けない。特に、2010年当時は、まだ書けなかった。今、なぜ、書けるのかというと、相当に、彼ら、鎌倉エージェント(=CIA)について、書き続けてきて、事実を積み上げている事があって、それがひとつ。
それと、私自身が腹をくくった。このブログは、神様への捧げものとして、書いている。だから、自分が不利になることをも書く、自分が損をすることをも書くと、言う姿勢に変化してきているからだ。だから、妹が殺され、しかも自殺として、喧伝をされていることも書く。それも、私を脅かす為であると書いていく。::::::::という挿入を入れて、元へ戻る。読売新聞の動きについて述べる。その中の一エピソードとして、森さんが、登場する。
森さんというのは、ひどく上等な女性と結婚をしたらしくて、それで、人生が輝き、発展をした人だった。昔は、ギャラリーMorisという小さいが路面店である画廊を経営していて、コンクールなども運営して、若手作家を支援する、大オーナーだったのだ。で、額の傷の由来を聞く前は、彼を尊敬していて、その画廊では、五分程度、よもやま話をしていたものだった。特に北から見回りを始めると、最後の画廊だったので、長居をした。また、森さんは、奥さんをなくしてから、画廊で、夕飯をとることが多かった。一種のパーティ。立食パーティ。若手の男性画家を招いて、ワインを飲みながら、談笑する。それを知っているので、私は、近所のハナマサで、ワインを買って差し入れたりしていた。
画廊のほとんどに盗聴機能が仕掛けられていたので、森さんと、私が打ち解けていると、みなされて、「じゃあ、森を使えばいいんだ」と考えた誰かがいて、森さんが私に読売新聞の切り抜きを、手渡しする様に、手配をしたのだった。で、みつ子さんが自殺したとは、全く信じていない私に、その記事を読ませて、考えを変えようと、謀議を尽くしたのだった。
で、森さんは敵方に、教唆をされて、2010年の、三月に、個展を開けというのだった。私は、彼の額の傷の由来をきいてしまったが故に逆らえなかった。急に豹変して暴力を振るわれることを恐れたからだ。
その時の個展が、2010年4月5日から、10日までのもので、その間の、9日(金)に井上ひさしは、NHKを大々的に、画面ジャックをして、自分を公的(?)に死んだ事にしたのだった。だけど、それは、嘘で、今、書いている様なことを、10年前のそのころ私が、ポンと書くことを恐れて、死人を、けなすのは、良くないという日本文化を利用して、死んだことしたのだった。
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読売新聞は、もう一回、恐ろしいことに利用をされるのだけれど、それは、次の章、または、別の章で、書くことにして、ここでは、バターの話に入っていきたい。
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皆さんは、バターが払底して、スーパーにおいていなかった時期を覚えておられますか? そして、NHKニュース内で、偉い人が、生乳が、どうのこうのとか、発表をしたことを覚えておられますか? だから、あれは、食料品の問題だと、お考えではないですか? 農林水産省関連のニュースだと。
全く違うのですよ。あれも、また、渡辺幸子さんが、関連しているニュースだったのです。
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副題4、『熊本県在住の、有名な版画家、【初年兵哀歌】の作家・浜田知明が、月刊ギャラリーの編集長のインタビューを、引き受けて居ながら、ドタキャンをした。2006年の9月ごろの事だった。まあ、シベリア抑留経験者だから、その時すでに高齢で、急に、健康を害することもあるが、これは、ひとえに政治的な問題だった。本多さんを熊本まで、呼びつけて置いて、ドタキャンをしたのは、裏に、鎌倉エージェントの差し金があったからだった。
私には、当時から、浜田知明と、宮崎進(多摩美教授で、鎌倉在住、ギャルリーユマニテが、専売画廊である)には連絡があることをわかっており、(両者は、ともにシベリア抑留経験者だ)、その宮崎進に、北久里浜の大詐欺事件の、主役である益山重夫元海軍参謀と、親友である、元陸軍参謀である瀬島龍三(これまた、シベリア抑留者だ)が、あれこれの命令を、入れていることもわかっていた。ニューヨークで、Caelum gallery を経営している竹本みすずさんの態度の急変(普通に親切だったのに、急に不親切になった)などから、それがわかっていた。竹本さんと、宮崎進は、ともに周南市(旧徳山)の出身だ。
だから、本多さんが、気の毒だし、その裏に、私に対する、CIAエージェント(鎌倉エージェントと私が呼ぶ人たち)が、隠れていて、本多さんが、代理の人として、いじめられている事もわかっていて、彼が、気の毒でならなかった。
編集長、本多隆彦さんは、忙しいうえに、現代アート系の情報誌なんて、それほど、儲かる会社でもないのに、飛行機代が、無駄になった。ので、夜11時ごろ着信の、個人メールで、私に、その悔しさや、やるせなさを訴えてきた。
しかし、私が、上の緑色のフォントの、部分を彼に開示して解説したかというと、それは、まだ、できない時期だったのだ。私は、ただひたすらに、彼を慰めて、「どうか、元気で、帰京してください」とメールを結んだ。
ここらあたりは、もし、シロタ画廊のオーナーが生きていたら、必ず、このブログを読んでいたはずで、本夛さんに、向かって「大変だったね。悔しかっただろうね」と、今、慰めて、あげてくれるだろう。シロタさんは、別に私の見方ではなかった。でも、ものすごく頭のいい人ではあり、かつ、人情の機微もわかっていて、しかも、私のメルマガや、ブログを読んでくれているのが、はっきりとわかっていたので、それが、どれほどの、私の心の支えになっていたであろうか。亡くなったことは、非常に残念だ。よって、瞑目。
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副題5,『本夛さんは、美術界の既成勢力ではなかった。今の言葉でいう起業家だった。または、新興勢力だった。そこが、私が、買っていたところで、それなりのエネルギーレベルの高さと、一生懸命さがあった。私も美大を出ていないので、本夛さんと、同じ立場であり、自分のエネルギーレベルの高さと、一生懸命さで、道を開いてきた人間なので、そこが、共通する土台だった。私は本夛さんにおべんちゃらとか、甘い言葉をかけた記憶はない。でも、そこが、心底で、通じ合っていたので、上にあげた様な苦しみを打ち明けるメールをもらったと、考えている』
どうして、そういうこと(12歳ぐらい年上の私を、お姉さん、または、お母さんとして、甘えてきた事)を、彼が、したかというと、私は、2004年ごろから、非常に積極的に、メルマガを配信しており、それが、好評なので、世間に打って出るつもりであって、広く大衆社会に、名前の通じたライターになるつもりだった。その第一歩を月刊ギャラリーの連載に、置いていて、その後、婦人公論などに、発展をしていくはずであって、非常に積極的に、編集長・兼・社長の、本多さんに接していたからだった。メルマガは時には毎日、時には、二、三日おきに配信をしていた。本夛さんが、ホテルで、悔しさに、心理的に涙を流しているときに、私のエッセイを読んで、それに返事として、自分の悔しさを、ぶつけてきたのだろう・・・・・
どうして、そういうことをしたかというと、2004年当時、10を超える美術情報誌のうち、大衆と作家を結ぶ雑誌として、最適なものとして、月刊ギャラリーをとらえていて、会社を訪問をしたり(会社では本夛さんには会えなかったが)、周囲の評判を聞いて、本夛さんが、今の言葉でいう、起業家、または、古い言葉でいう成り上がりの、ひとであることを知ったからだった。
美術界にも、文化界にも既成勢力というのがあり、既成権威とか、既成特権というのがある。特にサントリー学芸賞を見ていると、その既成勢力の存在が、明瞭に見えてくる。私は自分の頭脳のは、多大な自信を持っていたが、美大卒ではない。したがって、既成勢力には、コネがなかった。実家がご近所と言う事で、水沢勉先生には、慕いよっていて、メルマガも読んでもらっていたが、まだ、館長になっていない時代の、水沢さんとの、関係は、外には一切出さなかった。その水沢さんは、私が鍜治橋交差点そばで、顔に眼鏡が突き刺さる大けがをして、慈恵医大に運ばれた後で、即座に、メルマガを配信したことに対して、転んでもただでは起きないとはこのことですね」というご返事メールをくれたと言う事は、本当に励まされる現象だった。
しかし、ゾフルーザ問題やら、カリタス小通学バス襲撃事件が起きてみると、それは、日吉における、私の地盤を失わせることを目的とした謀略事件なので、水沢さんが、姉の悦ちゃん(妹と、小学時代の同期生)に、妹が他殺なのにもかかわらず、自殺であると、伝えた可能性を感じ取っている。私にとっては、大変な悲劇だけれど、水沢さんが、付き合っているのが、宮崎進やら、酒井忠康氏なので、仕方がないのだ。
一方、本夛さんは、音大出身だとか、聞いた。体格を見ると、如何にも、声楽でも、専攻して居そうな体格で、きっと、この噂は、本当ですねと、思い至った。別れてから、15年は経つので、最近の彼の様子を知らないが、今でも元気だろうか?
彼との、交流は、2004年までは、主に電話だった。で、月刊ギャラリーが、公募していた、美術評論コンクールにも応募しようとしていた。その際に、草間彌生と、リアルに、そして、実際に、長時間、電話で、話し合っている。その電話番号は、有名新聞社の学芸部の人が教えてくれた。
ともかく、私は、西麻布を夜歩けば、素敵なコートの若い女性から「あなた外人?」と聞かれたし、電車の中では、別の若い女性にから、「あなたはフランス人ですか?」と、言われたほど、軽々として、妖精のように機敏で、明るかった。どうしてそうなっていたかというと、
私には、外国の方があっていたからだ。1998年の、パリ三か月滞在も、もさることながら、英語が自由に使えるニューヨークでは、まるで、水を得た魚のように活発であって、ただ、小さな油絵と版画の両方を数点見せるだけで、入学許可を得た、Pratt Institute <<<<<アメリカ東部の大学、第20位に位置している、美術(ブルックリンで)と、オフィス業務(いわゆる商学部に近いか。マンハッタンで)を教える大学>>>>>>での大学院への入学許可とそこでの体験、また、次の年(=2000年)のニューヨーク一古い版画工房での体験などから、自分のうんちくの深さとか、教養の高さには、一方ならぬ自信を持っていたので、本夛さんに対しても、本当に積極的に出て行ったのだった。
しかし、その本夛さんと、残酷極まりない形で、別離させられるのだが、もう少し、仲が良かった時代の話をさせてもらいたい。でないと、バター払底の、秘密が解けないからだ。本夛さんと仲が良かったからこそ、奥さんの睦美さんとも仲が良くなり、それが、お菓子作りの話に繋がっていき、次に、バター不足の話に繋がっていくからだ。しかも、そこに渡辺幸子さんが絡んでくるので、話は、非常に複雑になる。しかし、まだ、エデンの園にいたころの話をさせていただきたい。
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副題6,『本夛隆彦さんとは、二度、実際にあって、面談をしている。一回目は、この鎌倉雪の下の我が家で。二度目は、銀座7丁目のカフェパウリスタで。この節では、一度目の面談の時の、話をしたい』
本夛さんが、どうして我が家を訪問をしてくれたのかの、なぞが、今は、解けません。実は、何かがあったのです。でも、本夛さんは、ひどいやり方で、私を傷つけたとは思うものの、一時的には、私を世の中に出してくれたわけなので、感謝しなくてはならないと思うので、あれは、伏せなくてはいけない。これも伏せなくてはいけないと、思う事項が多くて、伏せているうちに忘れてしまいました。
ともかく、本夛さんの方に何らかの弱みがあったのではないかなあ。それで、来てくれて月刊ギャラリーでの連載の話がまとまりました。
一時間前に、急に来訪しますと、言う電話があったので、大急ぎで、居間の掃除をして、そして、八宝菜を作りました。高級な和菓子とか、ケーキの買い置きがなかったからです。八宝菜を、【たちきち】製の青磁のお皿にのせると、とても美しく見えるのでした。八宝菜なんて、お惣菜ですが、美的人間にとっては、接待側も、お客側も、その美に満足できる様に、私は、作り上げて、提供できるのでした。本夛さんは、手を付けませんでした。しかし、帰宅後、誰かに、「川崎さんは、豪邸に住んでいる」と、話してくれたそうです。
もう、大満足をしました。というのも、我が家って、別に富裕層、仕様ではありません。本夛さんが、豪邸といったのは、ひとえに、内部の、落ち着きと、それがもたらす、心理的な美を評価をしてくれたからだと、思っているからです。居間は、7.5畳しかなくて。そこには、胡蝶蘭も置いていないし、ビスク人形も置いていないし、博多人形やら、鎧や、日本刀等も置いてありません。
赤い矢印のついているところが我が家です。これはだいぶ前の写真で、最近屋根をふき替えました。で、屋根はピカピカになっていますが、33坪のごく普通の家です。
出窓に置いてあるのはワインの空き箱に小型の布団を敷いた猫ベッドぐらいです。しかし、台所は別室で、台所が見える設計とは、なっていません。建具と家具と床は、こげ茶で、カーテンは、ベージュ、壁は白。昔、田中貴金属性の飾り物(一つが、200万円から、300万円はする五重塔など)を、5個か、6個部屋に置いてある人の家を訪問をしたことがありますが、そういう精神とは、全く別の世界を形成しています。
誇示的ではない。ごく普通の精神を涵養する部屋。だけど、のちに、アメリカ映画【イカとクジラ】を見ていて、インテリが好む、ブルックリンハイツの高級アパート(連棟住宅)の内部と、我が家の方の白い壁を除けば、にていたので、洋間を作るにあたっては、その精神は、しっかりと理解をしているわけです。ほかのお宅を訪問しても、これほど、飾り物を置いていない家など、早々はありません。
それから、建築そのものが、堅牢なことです。私の父があの人は、宮大工級の実力を持っていたねと、言う棟梁でした。その人を見つけたのは私です。ヨコハマ南部の、丘陵地帯が、開発中で、新築中の家が、15軒程度、ある中で、もっとも素敵な家を作っている工務店に頼みに行ったのです。すると、その人が、私はね、日立勤務の人に次から次へと頼まれているので、飛び込みの人は、引き受けたくないと、言うので「戦前は、日立も日産自動車も同じ安田財閥だったのですよ」などと言って、北久里浜の家を作ってもらったのです。
10年ぐらい前だったかな。北久里浜の大詐欺事件の、首謀者の一人、杉本俊一、元横須賀市副市長の奥様、正子夫人が、稲田恭子夫人を使って、嫌がらせをしてきました。稲田夫人は、通りがかりの家ではない我が家(=北久里浜の家)を、まるで、昨日見てきた様に、して、「川崎さん、あなたの家、ごみ屋敷になっているわよ」というので、びっくりして見に行きました。が、そうでもなかったです。当時、家を貸していた高尾さんという男性は、白物家電とか、を直して、中古で、海外に売る仕事をしていたのですが、ちゃんと、三つぐらいの、小屋を作って、物を収納していました。稲田恭子さんというのは育ちが良くて、美的才覚が高いのです。それで、北久里浜時代の、友人の中では、トップに置いていて、いろいろな話をしました。ただね。彼女は、自宅を庭も含めて、美麗に保っていますが、プレハブなので、歩くと、なんとなく、ふわふわしていて建築物としての弱さを感じます。
稲田恭子さんは、これ以外にもいろいろな嫌がらせに使役をされてきた人ですが、実名を出したら、ぴたっと止まりました。ともかく、彼女を動かしている杉本正子夫人の方が悪女・中の悪女で、恭子さんを使役しているのにすぎないです。
本夛さんに戻ります。2007年の四月以降、本夛さんには、数々、裏切られてくるのですが、でも、この、間接的に聞いた、「川崎さんは、豪邸に住んでいる」という一言で、すっかり許してしまっています。は、は、は。特に大勢の画家の家を訪問をしているわけで、その中には、鎌倉に住んでいて、それこそ、豪邸に住んでいる人も含まれているでしょうから(渡辺幸子さんとか、岸田淳平とか)、私は、すっかり満足したというわけです。抑制の美を、理解する本夛さんの鑑識眼にも敬服の思いを持っていますし。
さてその次にカフェパウリスタで、会いました。それは、原稿の長さとか、稿料を決める会だったと、思いますが、その時に、私は、【敷石を磨く男】というエッセイを見本の文章として持っていきました。これが、小町通りの、御影石の舗装が撤去され、アスファルトのものへとなってしまって、かつ、瓜南尚子さんの、急激なる、召命へとつながってしまうのですが、今思うと、本夛さんとの会話は、すべて、盗聴をされれていたのです。パウリスタでの会話は、本夛さんが持っているスマホを通じて。我が家の方は、元から盗聴をされていますので、仕方がないことだったのですが、カフェパウリスタでの会話も、すべて盗聴をされていたのでした。
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副題7,『さて、隆彦さんと仲良くなると、その細君の、睦美さんとも仲良くなった。で、当時の私は、二日に一回、夜クッキーを焼いている時代だったので、月刊ギャラリーの編集部にもそれを送った。すると睦美さんから、「レシピを教えてください」というメールが来た。で、返信メールで、ごく覚えやすい分量配分を書き送った。すると睦美さんから、割と長いメールが来た。
「私は、本当は、川崎さんみたいに、専業主婦をして、クッキーを焼いている生活を送りたいです。今、一番下の子が、小学一年生です。この前、その子が風邪をひいたので、一緒にクッキーを焼きました。家じゅうにバニラと、バターの香りが漂いました。幸せって、こういうことを指すのだと、思いますした。
どうも、ありがとうございました」
私は、今、この思い出を書きながら、ふと、涙をしてしまう。というのも、本夛夫人睦美さんて、とても華奢な人だったからだ。
実は本多隆彦さんと別れたのちに何らかの用事があって、月刊ギャラリーの社屋を訪ねた。その時、初めて実物の、睦美さんと出会った。雑誌を定期購読をしていたので、その領収書をもらいに行ったのかもしれない。
しかし、すでに、打ち解けて、長話をする段階でもなかったので、目礼程度で、帰ってきた。ただ、美しくて華奢な人だと、言う印象を強く受けた。貴景勝が、初優勝した時、両親という姿がテレビに映った。その時、お母さんを見て、ああ、この女性は、本夛睦美さんを思い起こさせるなあと、思った。
ところで、仲が良かった時代に、隆彦さんから、聞いたのだけれど、隣り合わせの、おうち二軒を同時に買ったそうだ。そして、一方のおうちに自分の両親を住まわせ、もう一方に、睦美さんの両親を住まわせる。そのじいじ、ばあば、4人に、六人の孫を育ててもらう。
というのも睦美さんは、会社の重要な戦力だからだ。小規模な会社、特に起業した一代目が経営して居る場合、奥さんは、大変重要だ。渡辺幸子さんのお父さんが破産をしたのも、お母さんは、専業主婦であって、お澄ましした、鎌倉マダムであって、夫の会社を、手伝っていなかったからだと、私は、考えている。
ここで、渡辺幸子さんへ、また戻ってきた。そして、因果関係が完結する。
2007年の、一月か、二月には、本夛さんは、私を切ることを決めていたみたいだった。これは、私が文筆家として、大きくなると、困ると、考えているCIAエージェントたちがいると言う事と、
売文的、美術評論家の生活が成り立たなくなると、言う点で、私は弾圧される様になった。その一つが、月刊ギャラリーでの連載をやめさせることであって、それは、井上ひさし 👉 伊藤玄二郎 👉 酒井忠康氏 👉 ガレリアグラフィカ 👉 本夛隆彦
または、酒井忠康氏以降が、別ラインで、👉 柄沢斉 👉 シロタ画廊 👉 本夛隆彦と、言うラインだったでしょう。
しかし、私がひどく驚いたのは、本夛さんが、渡辺幸子さんを画家としてインタビューをしたことでした。本夛さんは、私が渡辺さんに、大きな意地悪をされて、それ以来、渡辺さんが、持ち上げられ切っているという裏側を知りません。ただ、栗田玲子さんに、頼まれたというか、推薦を受けて、訪問をしたのだと、思います。
私としては、心をえぐられるほどにつらいことでした。これを文章化したかどうかを知りません。覚えていません。メールマガジンの方は、AOLを利用していたので、当時のそれは、パソコンが壊れると、同時に、消えるのでした。
しかし、こういう計画を立てた連中は、当然のごとく、私が本多隆彦さん、もしくは睦美さんに連絡を取ると、考えたのです。
電話や個人メールを送って、抗議をする?
反対に、隆彦さんか、睦さんに媚びる。甘えて、慕い寄って、関係の修復を目指す? そのどちらをしてもだめなんだよと、言うサインだったのです。それが、バター不足のニュースでした。
2015年にも同じニュースが発生した模様です。この時も渡辺幸子さんと何かがあったはずです。
今、急に思い出しました。なぜ、関係が切れたのに、月刊ギャラリーの社屋を、訪問をしたかの理由です。隆彦さんはあるとき、こういっていました。「近々、新ビルに引っ越すのです」と。
私は、それを聞いた時に、「ああ、そういう事ですか。私を切ることで、ご褒美として、それが、与えられるのですね」と。で、ビルを引っ越しているかどうかを確かめに行ったのです。
すると、まだ引っ越していませんでした。『ああ、本夛さん早まったわね。私を切るのが早すぎたので、ご褒美が、キャンセルになったのですよ。もっと、連載を続けさせていたら、確実に、社屋の移転が、成功していたでしょう』と。むろんの事ほかの理由だった可能性も語っておきます。バブルがはじけて、そういう資金を出してくれる予定のところが出さなかったという可能性も。
ともかく、バター不足のニュースが出る度に、私は渡辺幸子さんと、その激しいいじめ方を思い出すのでした。
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副題8、『渡辺幸子さんのサイトが、復活していました。』
人柄については、同窓会のサイトが、
https://www.icualumni.com/interview/guest029
絵画そのものについては、画廊のサイトがありました。
http://www.gaden.jp/shirota/2007/0409/index.htm
2021-6-25~26にかけて、これを書く。 雨宮舜(本名 川崎千恵子)