銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

前報で言ったドイツ人とは大学同期の女性の夫である。彼は榊原節子さんの出版記念会に出席をしていたのだが

2023-01-15 21:59:13 | 政治

副題1、『本日、7年前に、軽井沢スキーバスツァー事故で、お子様をなくした御父上が、NHK画面に出てきた。優秀なお子さんを、育てた親として、取り乱すことが無い姿勢だったが・・・・・それを見ている私は、むろんの事、その方ほかの親御さんの心を、えぐるつもりはない。しかし、真実を語ることが私の使命だと、考えている。私は、自分が大変な苦労をしながらも、この現代日本に、真実は、こうですよと、伝え歩く、トリックスターだからだ。トリックスターとは、自分を犠牲にして、ひとを救う、そういう存在である』

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副題2、『私が前報を長らく、更新しないで、そのままにしておいたのは、大きな自信があったからだった。・・・・・そこで、ルビッツ副操縦士の自殺願望説が、唱えられたドイツ格安航空機の、アルプス激突事故は、計器を狂わさせられたために起きた・・・・・と、話している。軽井沢バス事故も同じだと考えている。

 ドイツ格安航空機に戻ると、そのジェット機は、離陸後、たった、8分で、アルプスに激突している。それは、NHKが報道をしている(世界中の大メディアが同じことを報道していると仮定してもだが)

 離陸後、8分以内に機長がトイレに行き、そのすきに副機長のルビッツ君が操縦室のドアを内側からっ鍵をかけて、操縦かんを自分だけで、握り、自殺願望を遂げた・・・・・などと言う事は、機長の行動様式としてあり得ないのだ。

 それを、私がブログで、書いて居るからこそ、今度は、日本の格安航空機が、たねとして使われた。私が昔書いたことを、日本国民の方が、誤解をされるために作られたニュースだった。何も被害が起こらなかったので、真犯人が、重罪に問われることが無いと、数日たっている、こんにちは、考えて、それをあえて、言ってしまうが、私のICU時代の友人のご主人がドイツにいて、その人が、あの爆破予告の電話をかけたのではないかと、私は考えている。

 どうしてかというと、ICU1962年入学組の、クラス会が、2009年1月19日に、有楽町傍の吉乃翔という、宴会専門の居酒屋で開かれ、

 私が紙袋に入れていった、新著を汚すべく、モズクの酢の物が、入れられていたのだった。その日は、私だけには秘密にされていて、榊原節子さんの、新著の出版記念会だった。【凛として生きる(PHP刊)】

 私は、同窓会では、歌を歌う事を定番としていたし、新著を出すと、すぐ、それを持って行って、ひとに、ただで配る習性があった。それを狙って、恥をかかせるという日だったのだ。私は凄く勘が鋭いので、その日、何らかの罠が貼られていることは事前にわかっていた。

 というのも幹事役の古村浩三君は、必ず、新宿で、クラス会を開くことにしていたのだった。西東京市の住民なので新宿に地の利があったらしい。だから、彼が、有楽町で、開くと言う事は、銀座の画廊巡りを、必ずやっていた、私を出席させるためだと、判っていて、そこまで、狙われるのだったら、何らかの、弾圧用罠がはられているだろうとは、推察+承知の上だった。

 でも、「敵さんが何を考えているかは、知っていた方がいい」と判断をして、渋々、出かけて行った。その日は、南側の新橋から、画廊巡りを始めて、北の京橋まで行き、当時は、一丁目にあったギャルリーユマニテを見て、そののち、有楽町まで歩いたので、私が吉ノ翔に到着したのは、7時半だった。

 その日は、出席者が多くて(というのは、電話やメールで、根回しが進んでいたとみなされ)、ぎっちぎちの椅子の間を縫って、私は、奥の奥に設置されていた椅子に着席をした。

 6時から、宴会が始まっており、なんと、7時半とは、一時間半が過ぎているので、私が最後の話し手だった。ただし、主役の、榊原節子さんを徐いてだが。

 こういうことを言うと、誤解を招きそうだが、1960年代のICUとは、輝いていた大学で、特にクラス会に出てくる人は、成功した、人物が多くて、中には、中央大学の教授になっている人物もいて、したがって、理工学部の助教授殺しの話題が出たのだった。

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副題3、『ここで、榊原節子さんのバックグラウンドを語りたい。上皇后美智子様の、従姉妹であり、父は、水島三一郎東大名誉教授にして、八幡製鉄研究所所長であり、義父は、東京女子医大学長、榊原什氏である。

 また、古村浩三君は、日本ユニシスの社員だったが、1966年からアメリカ留学をしている、日本のシステムエンジニアの、さきがけと言ってよい人物で、なりすまし疑惑で、有罪となった、片山ゆうすけ君の父親(日本IBM勤務だと、聞いている)などとも、知り合いであると、感じている。

 この様にして、私のブログに登場する、人物たちは、現在、79歳か、80歳の筈だが、日本の上流階級そのものと言ってもよい、人物たちなのだ。自分が優秀だと、言うために、そういう話をしているのではない。

 私は、23歳の時に、アメリカの名門、イェール大学から、来たベイカーさんという、アメリカ人大学生に、眉をひそめただけで「頭が非常に良い」と、見つけられてしまって、その後、自分がスパイであることを見破られたと、考えたベイカーさんに、キャンパス内で、後ろから、首を絞められて、殺されそうになった。

 私は、その時も、神様のお助けのよって、助かったのだが、その後執拗に、私の命を狙っているのが、ベイカーさんが所属をしている、CIA本部なのだ。だって、彼が「僕は、三鷹警察署の署長と親しいのでね」と、日本語で言うので、その日初対面だった、私は、アメリカのエリート大学(日本でいう六大学みたいな物)の在学生である彼が、どうして、日本人であり、かつ安保闘争で、大学生などには、嫌われぬいていた、警察の、しかも、地元の署長と親しいのだろうと、思ったのだ。ここで、そういう疑問を持つのは当たり前だと、思う。

 そして、私は、おしゃべりではないが、表現力は抜群に高いのだ。眉を顰めるだけで、考えていることが、ベイカーさんには、過剰に伝わるのだった。私は名門大学の学生がまさか、人を殺そうとするなんて、夢にも多いいたらず、犯人が、ベイカーさんだと、は、誰にも言わなかった。寮に帰って「痴漢に襲われました」と寮母さんに報告したが、内心で、どうして、三鷹の、ICUキャンパス内に痴漢が現れるのだろうと、不思議極まりなかった。

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副題4、『ただ、頭が良いだけでは弾圧されないのだが、1999年から、メルマガを始めて、一種の主張者になったし、2004年から、紙の本を自分で、出版できる様になったので、それが、彼らCIA陣営にとって、大変恐ろしいことだったらしくて、私にものを書かせない様にさせようとか、出版をさせない様にさせようという仕組みが繰り返し、行われてきているところだ。

 この日は、2008年に、800冊ほど、出版した、【黄色いさくらんぼ】を、15冊ぐらい、二つの紙袋に入れて持って行っていた。それは、アマゾンで、長らく、10800円で、流通していたほど、面白いと言われている。ニューヨークの版画工房の話で、なぜ、アマゾンで、流通しているかというと、銀座の画廊街で、只で、ひとに差し上げたのが、美術界の特に若い人を中心に、「面白いよ」という口コミで、流通する様になったと、推察している。榊原節子さんの、【凛として生きる】とは、まったく毛色の違った書物だった。

 榊原節子さんの書物の方は、老年期の過ごし方、特に金銭面での、大切なことを説いた本だった。彼女は、実父が、理系、義父が、医者なのに、彼女自身は、財務専門のコンサルタント業なのだった。

 この日、節子さんを助けるために、何人か(*1)が、集金業務を担当して、ほぼすべての出席者が、彼女の本を買った。そういう裏側を全く知らないで、スピーチをしたのだが、本当に幸いなことに、自分の新著【黄色いさくらんぼ】の宣伝もしなかったし、お歌を歌う事もなかった。何らかの罠が貼られているのだから、控えめにした方がいいと、言う直感があったのだ。

 (*1・・・・・を解説、その日集金業務を担当していた人の中に、テレビに登場する有名人もいたのだった。それは、食野雅子<めしのまさこ>さんといい、日本にターシャチューダーを紹介した、人間で、プレミアムカフェなどで、ターシャの解説をする美女である。ああ、美女と言えば、榊原節子さんも絶世の美女である。美智子様よりも、美人度が高いと、私は思っている。ちなみに同期、290人ぐらいの内で、80人は、美女というたぐいの範疇に入り、そのうちの、50人は、これまた、絶世のという冠言葉が付くのだった。尚、日本財団で、古楽器の名器を貸し出している、塩見和子さんも、同期の一人だ。彼女は整形したかな? 学生時代のスポーティな顔の方が私は好きなんだけれどなあ。今は、和風テイストを入れているでしょう?)

 私の卒業した、学校とは、中学、高校、大学とも、少人数制の、当時としては、人気の高いエリート校であり、クラス会では、必ず、全員がスピーチをするのだった。単に飲み食いと、社交、を満足するための、会ではなくて、今、自分が社会の中で、どういう位置を占めており、どういう役割を果たしているかを語るのが普通だった。

 さて、自分が抑えた、スピーチをしたところ、テーブル上、対面に座っていた節子さんが、たって、主役として、閉めのスピーチをした。それで、初めて、私は、自分がはめられている罠の内容を正しく、知った。良かった歌を歌わないで、と思った。実は、歌を歌うと、私が、一種の主役を取ってしまう。それほど、表現力が高いのだ。だけど、この日は節子さんが、主役中の主役だったから、他の人は、控えめにするのが礼儀上必要だった。それを、事前に知らなかったのに、控えめにして置いた・・・・・ 私は、この日の事を、『やはり、神様に見守られている』と、ひそかに感謝したのだった。

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副題5、『実は榊原節子さんとは、非常にざっくばらんで、親切な人なのだ。十分に与えられ、十分に、ほめそやされてきた女性なので、上昇気流というものは、無くて、したがって、他者を軽蔑することもないのだった。だが、その、2009年1月19日に限り、「無論、お金など、頂かなくてもいいから、受け取ってください」と言った私の【黄色いさくらんぼ】を彼女は、拒否したのだった。

 高校(お茶大付属)も同窓であり、心臓病に関して、女子医大を紹介してもらったこともあるほどに、普通だったら、親切な彼女が、この日、邪険だったので、それも、私の書物出版事業を、CIAがどれほど、恐怖に感じているかを、認識するのに役立った。

 しかし、全員のスピーチが終わって、自由歓談になった時に、私は、むろん、「買ってください」などとは、最初から言うつもりもなかったけれど、それでも、女性陣からは、ほとんど、受け取りを拒否されてしまって、事前にもっていった、15冊を全部手渡すことが出来なかった。ただ、昔からそれを知っているのだが、男性というのは、女性より、純真であり、何人かが受け取ってくれた。

 その日、一人だけ、同級生ではない男性が同席していた。【ようこさん】と、言う女性の夫だと、言う話だった。【ようこ】さんは、大学卒業とほぼ同時に、ドイツに渡った女性で、同窓会には、ほとんど、出席したことのない人だった。

 また、1962年から、1966年までの、四年間、私は、100人程度の教室の講義では、彼女とは一回も、一緒になったことが無かった。同期全員が参加する講義(200人規模)では、一緒になることがあっても、それだけでは、ほぼ、未知の間柄と言ってよい人物だった。

 だけど、ひそかに、【ようこ】さんを好きになる理由があった。したがって、かえって、その日も、彼女に声をかけなかったし、夫たるドイツ人にも声をかけなかった。が、内心では、「ああ、ようこさんも、この会に出席しているのね。珍しい事なのね。ほぼ、50年ぶりの日本でしょう」と、気が付いていたのだった。

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副題6、『なぜ、公の場で、ようこさんに声をかけなかったかというと、画廊【21+葉】の、スタッフ(お人形さんのようにかわいい若い女性)から、手ひどい措置を受けて居たり、ギャルリーユマニテの、金成悠子さんからも、手ひどい措置を受けていて、時には、シロタ画廊の若い(現画廊主ではない方の)スタッフからも、恐ろしい態度を見せられていて、何らかの悪の手配が背後から迫っていることを、自覚していて、

 したがって、私は、自分がだれを好きなのかとか、自分が誰と、親しいのかと言う事を、秘密にする様になっていたのだった。

 【ようこ】さんを、どうして、好きになっていたかというと、彼女は大変まじめな、私のメルマガの読者だったからだ。

 これは、日本にいると、社会のトレンドという形で、迫られる悪しき影響力のせいで、どんどん、人格が変わって劣化してしまう友人がいるのと比較すると、海外に、居る人の方が、純粋な、日本人らしさをキープしているケースがある。そういう例の一人だったが、或る時に彼女が、私がメルマガの中に使った、

 ・・・・・・「強者の恣意」という言葉が判らないわ、教えて・・・・・と、言って来た。ドイツから、個人メールで。この強者の恣意とは、私が、ほぼ、毎日、接触している、嫌な現象の一つで、良くメルマガに使っていた。もともと、在学中から英語が得意で、いささか、日本語を軽蔑していたかもしれない、ようこさんだったから、この語彙【恣意】を知らなかったとも、考えられ、私は、素直に問い合わせて来てくれた彼女に感激してしまった。

 それで、丁寧に、「立場上、優位にあるものが、立場上、下にあると、考えるものを、自分の思い通りに、または、勝手に、動かして、不利にさせることです」などと、解説したのだった。

 すると、ドイツから、彼女は手製のCDを、送ってくれた。私は、それをもらったときに、まだ、音楽曲を、編集してCDに落とす技術を持って居なかった。ただ、ワードファイルと画像ファイルだけは、CDに落とす技術はあったが、曲を自分で選んで、選んだ順番通りに、一枚のCDに落とす技術はなかった。

 しかも、私は、自分の心覚えの為の、バックアップ用CDだから、表紙をつけるなどという技術はなかった。しかし、ようこさんが、送ってくれたCDには、市販のものと、見まごうほどの美しい表紙が付いていた。

 お金で買ったものを送ってもらうよりも、こういう風に手ずからの、工夫と、エネルギーが、くわえられたものを、もらうのは、本当にありがたかった。

 私、川崎千恵子は、それ以来【浦田曜子】を大好きになっていたのだった。278人程度の同期生の内に、何人も好きだなあと、思う人間は、出来して来ていたが、誰にも、それを言わないで、かつ、誰にも見せない形で、好きになっていたのは、浦田曜子なのだった。

 だって、私のメルマガを丁寧に、読むと、私が如何に、音楽好きなのかが、判る筈だ。したがって、私が、好みそうな、曲を選んで、一枚のCDに入れてくれるとは、本当にありがたい、感想文でもあった。だから、余計、浦田曜子を好きになっていたのだった。

 しかしメルマガを、ハッキングしている、または、メールをハッキングしている、CIAエージェントには、私が、浦田曜子さんを好きだと、言う事は、判っていて、それで、その日、浦田曜子さんを、ドイツから、呼び寄せて、出席をさせて置き、もし、私の方から、声をかけたら、邪険にする様に、彼女に命令をしておいたのかもしれない。

 そこまでは、想像していなかったが、この時に、すでに、角野栄子さんと、福島瑞穂さんから、恐ろしい扱いを受けていたので、CIAエージェントは、榊原節子さんだけではなくて、この日、浦田曜子さんにも、縛りをかけていたかもしれなかった。

 で、彼女を守る為に、声をかけなかったのだが、それは、私をも守った。私の記憶の中では、浦田曜子とは、古い日本の道徳観=恩愛の情を失っていない、素敵な女性として、記憶されている。「がんばれ、浦田曜子。あなたなら、日本とドイツの良い懸け橋になれる。仕事、頑張ってね」と、遠くから、ひそかに祈っている。

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副題7、『何か、悪い予感がする。行きたくない、行きたくないと、考えていた私は、銀座の画廊街で、わざとぐずぐずして、宴会開始予定時刻に、1時間半も、遅刻をしてしまって、お料理は、ほとんど食べないまま、佳乃翔の、散会予定時刻が来てしまった。

 この日の私は、事前に根回しもあったはずで、全くの負け犬であって、帰りがけも、誰からも、声をかけてもらえず、自分の方も、誰にも「一緒に帰らない?」という声をかけることもできず、有楽町から電車に乗って、新橋で、横須賀線に乗り換えて、帰途についた。さて、一時間の車中、何をして過ごそうかと考えた。携帯は、持って居るが、それを持って出ると、嫌な目に数多く合うので、傾向しない主義だった。

 そのGPS機能を利用して、行く先々で、嫌な目に出会うからだった。で、何もすることが無いので、ふと、自分の本を読もうと考えた。

 【黄色いさくらんぼ】は二人のカラードの版画家の死を主要なテーマとしている。ロバートブラックバーン氏は、誰からも、尊敬される、良い人だった。ニューヨーク一古い版画工房を経営していて、独身見込んで、ホテルチェルシー住まいで、かつ、パーキンソン氏病にかかっていたが、最後は、立派なお葬式を上げてもらったと、聞いている。しかし、私は、最後にあった日に、彼のパンツに、排尿用の穴があけられているのを、見てしまい。そういう姿で、お客と合わないといけない、立場(つまり、お金で雇われた看護師は、心が、行き届かないと言う事)を、悲しんで、なきながら、チャイナタウンを歩いていたし、

 もう一人、誰からも、嫌われていて、餓死に近い孤独死をした、ホアレス(ペルー出身、褐色の肌の、版画家。たぶん、不法滞在だと、思われる)が、毎日、元、結婚をしていた、日本人女性から、教わったらしい、サツマイモ入り蒸しパンだけを、食べていたと、気が付いて、ひどく、せつなく、申し訳なく思ったと、

 言う事を書いて居る。そして、善人100%として、生涯を終えた、ボブにもそれなりの悲しみや、喜びがあり、悪人100%として、孤独で、みじめな生涯を終えた、ホアレスを悼む人たちもいることを知り、自分が、理解付属だったことを申し訳なく思うのだった。

 二人は私に、限界に追い詰められたときに、如何に生きたらよいかを教えてくれた。どんなにみじめな死でも、ちゃんと、理解して、悼む人はいるのだ。大丈夫、ひとは、必ず、神様に見守られている。

 そうだ。こういう文章を書いて居る限り、もう、ボブみたいな、尊敬をもって、見送られることはないだろう。だけど、軽蔑され切っていた筈のホアレスを、かわいそうにと、悼む人間もいるのだった。そういう人が、ホアレスの死の情報を教えてくれた。

 ニューヨークで、三か月、二回ほど、版画修業をすると言う事は、こういう事を学ぶことでもあった。日本にいると、限界まで、追い詰められる自分や他人を、見ることは少ない。しかも、猫以外、その死のぎりぎりの場面に立ち会う事もなかなか、無い。ニューヨークという時間的に限界がある場所で、感性を、全開に、したからこそ、見えて来たものがある。

 この二人の事を思い出すと、こころの中は、ありとあらゆるほかの思い出も、加わった、刺激的な想念に満たされる。で、私は、そうだ。黄色いさくらんぼでも、読んで、鎌倉までの、一時間を過ごそうと、考えた。

 先程までの、屈辱を考えると、なにかに、打ち込んでいた方がいいのだ。ぼんやりと車内広告でも眺めていたら、悲しみに打ちひしがれるだろう。

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副題8、『で、私は、紙袋に入れた、自分の新刊本を一冊ほど取り出そうとした。すると手に何らかのぐにゃっとしたものが触った。冷たく、ぬるっとした感じのものだった。

 指を慌てて、引き揚げると、指の腹にモズクが、2,3本、くっついて上がってきた。あっと、思った。紙の本の中に、誰かが、モズクの酢の物を注ぎ込んでいたのだった。そういえば、モズクは、あったと思い当たる。小さなプラスチック容器の中に、50グラムぐらいの、モズクの酢の物が入っている、ヒトしな、が。

 なんという深い悪意だろう。本日は、宴会全体が、私を貶めるものだった。徹頭徹尾、「あんたは、榊原節子より下なんだよ」と、思い知らせるためのものだった。精神的に、推察していた事前の時間(=二週間ぐらい)を含めて、どれほどに、痛めつけられた事だろう。

 この「お前は下なんだよ」と、思い知らせ様とするというコンセプトには、デジャブーがある。西隣の、白井夫妻は、二人とも東大卒で、「こちらが、上でございますよ」と、いう感じで、2009年には、すでに、痛めつけられていた。そして、2023年の今は、完成すれば、横浜一高いビルとなる、鶴屋町の、THE YOKOHAMA FRONT TOWERを設計した人物だ。

 しかも、その後、北隣に、引っ越してきた、石井秀樹氏は、これまた、(独立した、建築家としてだが)、いろいろな賞を独り占めする、人気者である。

 はい、はい、上皇后美智子様のいとこで、しかも、榊原什氏のお嫁さんで、かつ、実父が、東大名誉教授、水島三一郎博士です。わかっているって。だけど、精神的に打ちのめしただけではなくて、具体例として、ここまで、いじめてくる悪意の、鋭さと、深さには、何とも、深い悲しみを覚えた。

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副題9、『しかし、五分後、私は、元気を回復していた。なんと、新刊書は、一冊も汚れていなかったのだ。天のお助けだと思った。だが、種明かしをすると、本が重いので、私が、ビニールコーティングをしてある紙袋を使用していたからだった。それでも、15冊一緒に一つの紙袋に入れると、重みに耐えられないと、思って、8冊ずつ、二つの紙袋に分けて入れていたのだった。受け取ってくれる優しい男性陣に手渡したが、まだ、残っていたので、紙袋を一つにまとめた。なんと、モズクは、一つ目の袋と、その外側にある、二つ目の袋の間に落ちていたのだった。

 紙袋が、普通のものでは、無くて、ビニールコーティングをしてある丈夫なものだったので、外側においてある、袋は、破けなかった。モズクの酢の物の水分に負けなかった。かつ、その水分は、中の袋のビニールコーティングを突破できなかった。したがって、中の袋に入っている新刊の、【黄色いさくらんぼ】は、一冊も汚れていなかった。

 その時に、私は、ニューヨークのボブに学んだ、生き方を全開させて、喜んだ。すでに、パーキンソン氏病で歩けないボブは、他人の助けで、生きているわけで、そういうサポーターへの感謝を忘れなかった。2012年8月10日ホテルチェルシーに宿泊していた私は、残りのたった、一日をボブとの交流に充てていた。それ以前に接触をすると寂しいボブに毎日来てと頼まれる恐れがあったからだ。個展を開くという形で、訪問をしていた私は、超忙しかったからだ。午前中に訪問をし他時のお土産は、なんと、この鎌倉雪の下二丁目の、賢いご婦人花輪夫人のお嬢様(*2)が、2012年当時ニューヨークで、プレゼントしてくれた、上等なクッキーだった。しかし、日本のものと比較をすると、箱がとても小さくて、8枚ていどしか入っていなかった。一枚食べたボブは、あ、キャシーにあげようと言った。キャシーとは、私が、その三年前、ボブの部屋であったお手伝いさんで、その日、チコリのお漬物(発酵食品)を、大きめのタッパーウエア一杯、持ってきていた。それは、売っているものではなくて、彼女が作ったものだった。ボブのために、そういうオプションの仕事をしてくれる、かいがいしいご婦人だった。

 しかし、夜は、私は、時間が無くて、彼に頼まれた全粒小麦パンを買うことが出来ず、自分用に買っておいた、たった8粒の黄色いさくらんぼを持って行ったのだった。すると、今度も、一粒食べて、ああ、きゃっしーにあげようと言った。午前の物も、夜の物も、超上等だったが、いかんせん、量が少なかった。それを分けるなんて、やめなさいと、言いたかった。ボブこそ歩けないのだから、そういうものを食べてもらいたいと思っているのに、上等なものだから、お手伝いさんにあげようと、言うボブは、その思い付きに、顔が、満面の笑顔になっていた。

 黒人である。お手伝いさんも黒人である。ニューヨークの知識人として、いろいろ、苦しいことも過去には、あったであろう。でも、自分のできる範囲で、最上の選択をしようとしているボブを見ていると、私は、涙があふれそうになって、午前も、夜も早々に辞去したのだった。

 私は、2009年1月19日の夜の、横須賀線車中で、ボブに憑依された気分となった。小さな小さなことでも、喜びを全開させていたボブ。その姿を思い出し、自分も、この小さな一事(新刊書が汚れていなかった)に感謝しようと思った。そして、ボブのように自然に笑みが浮かんできた。その日、級友たち50人から浴びせられた、「あなたは、榊原節子より下なんですよ」と、言う侮蔑の、顔つきがもたらした、悲しみも、すっかり、氷解していた。

  ああ、良かった。私は、宴会中自らは、破綻を、級友たちには、示さなかったのよ。イライラして、途中で帰ったりはしなかったのよ。無論、ひがんだ顔もしなかったのよ。ずっと普通の態度を保持していたの。そして、モズクの、酢の物は、実際には、新刊書を汚していなかったし。

 ああ、良かった。ああ、良かった。このこと一つで、今日は万々歳ですねと、思い至った。

(*2・・・・・・その10年後の今、花輪家のお嬢さんは、鶴田伸子と言って、糸、及び織物作家として、世界的レベルになっている)

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