銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

河野多恵子は富岡多恵子が伸してくるのを密かに嫌っていた。それが判るのは私が美術界で、嫉妬され続けて来たからだった。渡辺幸子、栗田玲子、平野和子、酒井忠康

2023-09-21 22:42:59 | 心理学

 下の文章の、3日目の、推敲をしました。すると、気が付かなかった点を、20か所ぐらい発見をしたので、そこを直しました。それを、25日の午後四時半に終わりました。特に最後の方で、大量に加筆をしてあります。実は次の章を書き始めています。が、それも未完なので、これを完成させることへ時間を使いました。相当長いですが、完成度は高いと、ひそかに自負しています。

 わたくしが、国画会の主催する国展に出品していたころ、新制作に出品していた大学の先輩、渡辺幸子さんから、強烈ないじめを受けたことがあり、それが、渡辺幸子さんが、河野多恵子の立場であり、わたくしが富岡多恵子の立場であると仮定すると、河野多恵子が、なぜ、ウィリアムモリスの、原画を、自分の自慢作に使ったかが、読み解けるのです。アイデアの剽窃です。が、なぜ、そんな下品なことをしたか? それが、読み解けるのでした。下克上を嫌う河野多恵子の狭量が原因です。

 私はね。河野多恵子の全作品を読んでいるわけではないし、富岡多恵子の全作品を読んでいるわけではありません。しかし、二人の関係の本当のところをズバッと分析できる。それはね大体作家というものは、パイを奪い合う関係だから、嫉妬深いのです。まだ、文筆業の方が、お金が回る量が多いので、真実が、抑えられている方です。だが、河野多恵子の内心には、富岡多恵子に対する、ふつふつとした嫉妬心がわいていたと思います。

 という添え書きを二日目において、原文の頭に入ります。それが、連続しているテーマから離れていることをまず、お断りをしています。

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 しかし、21日は、新しい発想が浮かんでしまいました。以前、他のサイトのブログを持って居た頃は、傾向の違うものは、そこで、書いて居たのですが、毎日、寄らないと、いつの間にか、消えています。サイトが、「ブログをやめました」とか言ってね。AOLとかヤフーとか、Livedoorなどで、経験してきたことです。仕方がないので、ここで、他のテーマのも事も、語ります。

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*1)、この一か月以内に、「中勘助の、【提婆達多】が、自分としては、日本のものとしては、最上の小説だと思っている」と書きました。で、その時ですが、中勘助のもっとも有名な小説は【銀の匙】です。で、その好評または、高評のよって来たる、理由を探したいと考えました。【提婆達多】は構想が、大きな、しかも、純粋な小説ですが、銀の匙は、一種の私小説ですよね。私に言わせれば、スケールが小さい。だけど、大勢の人が、そちらが上だというのは、それは、勘助の実体験に根差しているから、エピソードが生き生きしているからでしょう。と思って、中勘助の、人生の有様を知りたいと願って、wikipedia 等を丁寧に検索しました。

 すると兄(いわゆる長男)が、中勘助に、異様なほどに強烈な支配をしていたと、わかりました。しかも兄は、病気を患って、体が動かなくなります。なのに、どうも威張り続けたらしい。とはいっても、それは、大体の事です。もっと、詳しく知りたいなあと、思って、珍しく、グーグル検索を丁寧に、丁寧に、やっていくと、評伝代わりの書物があるらしいと、気が付きました。

 【中勘助の恋】という書物で、一見すると、評伝ではないみたいです。が、これが、中勘助の、実像に迫るには、一番、適切みたいなのです。で、本日、鎌倉の図書館から借りてきました。もちろん、本日借りて来たばかりなので、まだ、一行も読んでいません。しかし、私が今書きたいことは、内容の感想ではないのです。表紙について、あれっと、思い、そこから、さらにいろいろを、考えたと、そういう話です。この書物ですが、30年間、鎌倉市立中央図書館に保存されていたのです。よかった。初版本を読むことができて。今は、平凡社ライブラリーで、表紙(または、カバー)が、まったく異なるものが出版されています。人気が高い名著なのでしょう。

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副題2,著者は、富岡多恵子で、彼女の夫君は菅木志雄です。菅木志雄とは、前衛系のアーティストです。美術界では、とても有名な人です。しかし、一般社会における著名度の高さとして言えば、妻の富岡多恵子の方が、有名でしょう。それは、活字で、印刷する‥・・・つまり、オリジナルが、一つだとしても、そのコピーの大量生産が可能なので、文筆家の方が、有名になるのです。

 しかし、本日は、二人の間には、世間にさらさないで置く、秘めたる、深い夫婦間の敬愛があったのではないかと、気が付いたこと・・・・・それを語りたいのです。

*2)、良妻とは何だ?

 あさどら【らんまん】の【すえ子さん】が、朝ドラ、三大【賢夫人】のひとりだとする説を読みました。そうだろうと思います。が、すえ子さんを見ていて思うのは、自分の母です。私の母は、父が、不遇の時には、献身的に働きました。だが、家の中が、富裕になってくると、自分の方が上だと、いう感じを出していたと思います。それも父は認めていました。まあ、母が、堅実で着実な人なので、家が富裕になって来たから、それで、いいのですが、しかし、父がパーキンソン氏病と、脳挫傷を重複して、患って、寝たきりになってからは、母は献身的に父を介護しました。お金もかけました。当時は、すべて私費だった、元看護婦さんの専門的介護、お風呂サービスの利用。そして、お医者さんへの付け届け等。そして、自分の肋骨には、微細な骨折が入ってしまったそうです。明治生まれの男としては、父は体格が大きかったので、寝たきりになったら、反転させるだけで、大仕事だったのでした。その母ですが、父が死んだ後では、父の良いところだけを思い出すらしく、父をほめています。「お父さんに、先見の明があったから、不動産をたくさん買っていて、それが、値上がりしたから、うちが、富裕になったのよ。株なんかは、とんとんで、配当金を使えるぐらいのものよ」母の父は、明治時代の高商卒で、そこから株式投資熱は、始まっています。母は、実家からの遺産相続から小さく始めて、自分が、父の会社の経理を担当する結果もらうお給料はすべてを株に注ぎ込んで、大正生まれの女性としては、多額の資金を注ぎ込んでいました。だが、「資産形成に役立ったのは、やはり土地よ」と、言っていました。つまり、芸術家気質で、毎日、しんどい、かつ、つまらないことを繰り返すのは嫌だなあと、言うタイプの父のが、アイデアだけは、豊富で、それに基づいて調査をしては、熟考をして土地を買っていたから、富裕になれたというのです。父には、欠点もありました。母は、それも含めて受容し、敬愛の念を示す様になっていたのです。夫婦間の愛情という意味では、そういう実例を見て、私は過ごしてきたわけですが、

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*3)、1993年刊の【中勘助】の、カバー裏には、装丁家の名前が無かった。

 本日は富岡多恵子の【中勘助の恋】の装丁を、見ているうちに、その存在に気が付いた、多恵子・木志雄間の、夫婦愛について、語りたいです。

 上の写真は、私が手間を惜しんで、パソコンのキーボードの上に置いて、スマホで、撮ったものなので天井灯は、映り込んでいますし、色合いも本物とは違います。

 だけど、わざとこれをここに置いたのは、アマゾンなどの、古本紹介頁には、2000年に、再発刊された、平凡社ライブラリーの方が最初に出てきます。それは、利用してある図柄が、まったく違います。ので、私の主意を説明するために、1993年創元社刊の図書館の本の方の表紙の簡便な写真をここに置きます。

 なお、図書館の本とは、丈夫にするために、がっち、がっちに、セロテープで、巻かれています。だから、表紙と言っても、売り出し時には、カバーだったものです。

 だけど、全体から与えられる印象が、非常に品がいいです。30年前に、出版された書物なのに、新鮮味を感じます。

 絵、その物は(原画は、という意味ですが)、ウィリアムモリスのデザインです。

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 後半で、述べる河野多恵子の、【小説の秘密をめぐる十二章】(2002年文芸春秋社)という別の本にも、ウィリアムモリスの、原画が、デザインが使われていて、そこには、

 装丁  大久保明子

    装画 ウィリアム・モリス

       (壁紙用デザイン 「ジャスミン」)

      写真 ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館

 という四行の説明があります。

 これが、文庫化されているのですが、文庫にはさらに派手なモリスデザインの、一種類が使われています。でもね。私は、富岡多恵子の1993年創元社刊の、【中勘助の恋】の、装丁のアイデアの盗みだと思うのですよ。

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 どうしてそう思うかというと、私が本日借りて来た図書館の書物の方には、

 カバー ウィリアム・モリス「リンゴ」とあるだけで、装丁家の名前がありません。

 私は常になぞ解きを行っているわけですが、装丁家の名前がないからこそ、

  ここで、睡魔に襲われ、書けなくなりました。これから先、書く予定だったことは、河野多恵子批判です。

でも、二階から、一階に降りているうちにかろうじて、眠気が覚めたので、ベッドで、スマホを使って、音声入力をしました。短いので、推敲し誤変換を直して、スマホから、こちらへペーストします。前報では、スマホで音声入力した部分は、長いので、まだ、誤変換直しをしておりません。まったく意味不明になっているでしょう(苦笑)お待ちいただきたく。

 そのカバーデザインですが、富岡と菅の、夫婦の共作としてできていると思います。1993年創元社刊の、方の話です。

 だけどその時、菅木志雄はすでに前衛アーティストとして、有名だったから、装丁家として自分を名乗る必要がなかったのです。しかも、原画にウィリアムモリスを使う事は、彼にとってはまぁ恥であるっていうか何とか・・・・(つまり、自分の作品を使わないのに、装丁家として名前が出るのは、まずいと判断をしたと考えられます)・・・・で、名前を出したくなかったのでしょう。でも、短冊形・白抜きのタイトルをどこに配置するか? その短冊の大きさをどうするかなどについて彼は意見を述べていると思います。ウィリアムモリスの原画を使う事は、富岡多恵子の希望だったでしょう。

 一方河野多恵子は富岡多恵子よりも年上です。私も時々勘違いをして、二人を混同してしまうのだけれど、一般の方も、特にファンではない限り、二人を混同してしまうのではないかなあ。二人は経歴上、似たところがあります。大阪で、育ったらしいということ。しかも卒業した大学が同じです。

 それは、現在の名前は大阪府立大学ですが、その前身の大阪女子大が、二人の母校です。それと、多恵子という名前が同じ。で、とても似ているのですが、河野多恵子の方が、年上で、先輩です。で、先に有名人となっています。特に芥川賞をとっています。

 何の分野にしろ、階級的に、上に存在している人は、後輩が、伸してくるのを嫌います。ひどく怒るのです。織田信長の時代から、いまにいたるまで人は下剋上を嫌うのです。私自身、この件については、2002年ごろに、大学が、同窓で、6期先輩にあたる、渡辺幸子さんに、望月画廊内で、徹底的にいじめられてしまいました。当時、渡辺幸子さんは、新制作(展)に一般出品者として、出品し、わたくしの方は、国展(国画会)に一般出品者として、出品していました。その彼女が激高して、ひどいいじめを行ってきた望月画廊での、展覧会でしたが、それが2002年の二月のことで、それより前は、幸子さんの方が、わたくしに甘えてきていたのです。

 私は、パソコンへの攻撃がひどくて、自宅で、仕事ができない頃、錦糸町のジョナサンで、パソコンを打っていました。すると隣で、会社の労務管理役の課長が、あるカウンセラーと、労務管理の相談をしていました。これは、今思うと、100%CIAが隣に着席する様に送り込んできた、専門家でした。そのカウンセラーと顧客との会話を聞いているうちに、『あれ、是ってチャンスじゃあない? 私もやってもらおう』として、話しかけてみるとすぐさま、乗って来てくれました。

 この話を何年も後になって書くと、ネットの、私が、見ているサイトに、そのカウンセラーが、浮かびました。だから、100%CIAが派遣をしてきたカウンセラーでした。ただ、当時は、そのことには気が付かず、「私もついでに、見てもらえますか? 一万円のお礼をします」と、言いました。友達が、超有名カウンセラーに罹ったことがあり、その時、「謝礼は、1万円よ」と、教えてくれたので、そう、申し出でたのですが、「謝礼はいりません」と言って、その人は話を聞いてくれました。ところが、結論として、「そこから、引っ越しをしなさい」でした。

 つまり、雪の下二丁目では、すでに、いじめという弾圧が始まっている時期で、15年間、仲良しだった、大原光孝さんが、裏切ってきたころでした。安野智紗夫人と前田清子さんは、最初期からダメでした。だけど、大原光孝さんの裏切りには驚いて【ワインが割れて】というエッセイを実名を伏せて書き、メルマガで、発表しました。その筆力の高さに、伊藤玄二郎や、井上ひさしは、驚いたのだと思います。で、・・・・・この雪の下二丁目に置いておいてはだめだ・・・・・と、思ったのでしょう。だけど、私にしては、理不尽ないじめを受けて、逃げ出してどうなるのですか? だから、引っ越しません。それに、お話を交わしている最中から、心底で、「このカウンセラーは、敵方の回し者ではないかしら?」と思っていたのです。それは、当たっていたことが後日証明をされました。

 最近、登場している独立編集者、笠松敦子さん(大学ICUの同期生・・・・・新卒時、筑摩書房入社、のちにお子様が、障害があるので、独立編集者となってからも、豪華本、【失われた時を求めて】新訳本などを、多数編集)が、2008年、私がブログを始めた時、激しく「やめなさい」と、言ってきました。私はその時、何も返事をしないで、やめないという決断をしたのですが、彼女はこの時すでに敵方の人だったのです。

 この間、年賀欠礼を利用して、・・・・・R子さんの引きこもりのご長男が、25歳の時に自殺未遂をしたのだけれど、とうとう、53歳で、実際に、亡くなったのね・・・・・・と、言う間違った、ブログ文を書く様に引っ掛けてきたので、とうとう、はっきりと、てきがたの回し者であると、このブログ内で、書き始めています。

 そして、本日新たに、その事には、2008年から気が付いていたのだったと、かき始めています。文章を書くのをやめなさいと命令してきたのは、桜井万理子東大名誉教授もその一人で、2006年か、7年ごろだったかな?

 しかし、一番つらかったのは、時枝ひろ子さん(旧姓西大寺さん)が2003年ごろ『文章を書くのをやめなさいと、言ってきて、その裏に、井上ひさしが、いたらしくて、彼女が私から、はっきりと去って行ったことでした。そのつらさを思い出させてやろうとして、安倍晋三元総理大臣、奈良県西大寺で、山上徹也に殺されました。衆人環視の中でね。衆人環視の中での殺人という、それだけの、目的で、安倍晋三氏は、殺されたのです。

 どうしてかというと時枝ひろ子さんが去って行ったことが、他の誰が去るよりもつらいことだったからです。だから、西大寺という時枝さんの旧姓と、同じ、地名で、作戦が、実行をされました。私は、各種謀略事件は、実際は、警察の秘密部隊が行っていて裁判にかけられている保見も山田浩二も、植松聖もやっていないのだと、語っています。それを嘘にしていくという目的と、

 私を苦しめるという二重の目的がいまだ生きている井上ひさしの方にあったわけで、安倍晋三さんは、殺されました。

 さて、カウンセラーに戻ります。彼は、「引っ越しなさい」と、命令したわけで、その点は、「おお、やはり敵さんの回しものだなあと、今では、はっきりと言えるのですが、特にこのエピソードをこのブログの世界で書いたとたん、ネットの紹介ニュースとしてカウンセラー集団が何をどうしてこうしてとか、言っていたので、『おお、やはりそうだった』と、なっとくをしました。

 ただ、悪い事ばかり、やったわけでは、なくて、私自身が気が付いていない私が内包している、一面を教えてくれました。それは、心理学的に言うと、ひどく成熟していて、母を支えているのは、私だと、言う事です。一時期の愛子さまと雅子様の関係と同じです。

 私がこの雪の下の連中が企んでいる事、銀座の画廊ガレリアグラフィカのオーナー栗田玲子さんが企んでいる事、それから、高校同期の、宇都宮和代さんが企んでいる事、すべてを見通せてしまうのは、それらの、人物よりもはるかに心理学的な成熟が上だと言う事です。豆腐屋【うかい】における、2014年のたくらみが終わった後で、夜九時ごろ、宇都宮和代さんに電話をかけて、「あなたは、栗田玲子さんを知っていますか?」と言っただけで、パニックに陥った和代さんが、「知らない」って叫んで、電話を切ったのです。それなど、同い年にもかかわらず、彼女がどれほどに、幼い心理状態にあるかを示しています。尚、栗田玲子さんと宇都宮和代さんは、国立大学西洋史学科卒として、仲良しなのです。丸の内線茗荷谷駅を最寄りとして、旧制教育大学(現在の筑波大学)と、お茶の水女子大は、ご近所同士でした。教育大学の方が、栗田さんで、お茶大の方が、和代さんです。イタリア留学でも、親しいし、離婚経験者という意味でも、親しいのではないかなあ。和代さんは、非公開だけど、離婚を経験していると、推察していますよ。

 だって、クラス会の満座の中で、「最近、調子が悪いの。なぜなのかと考えると、恋愛をしていないからだと、気が付いた」と述懐をしたのですよ。ものすごく堂々と。そして、その日の彼女の美しかったこと、美しかったこと。新しい恋愛が始まっていたのでしょう。アレジの実質婚の、妻となった、後藤久美子とどっちがきれいだろうと、言うほどにきれいでした。

 栗田玲子さんは、自分の手元に、山本容子、ヤマザキマリなどのイタリア留学済みタレント(インテリ系)を擁していて、伊藤玄二郎のアイデアに応じて、提供しています。尚、池田理代子さんは、教育大学の縁で、長谷川智恵子さんは、美術の縁で、塩見和子さんは、富裕な女性同士の縁と、CIAエージェントたちの紹介で、グサッというほどに強い縁を結んでいるのです。そして、酒井忠康、渡辺幸子、平野和子、栗田玲子の、包囲網。それらを駆使して、激しい弾圧を加えてきた女性です。まだ、まだ、触れていないけれど、山脈の中の名峰と例えれば、穂高か槍ヶ岳に筆答するほどに、大きな存在としての、CIAエージェントです。

 さて、この青いフォントの部分は最後の行で、締めくくられます。つまり、渡辺幸子さんと、私の間には、年齢差が後妻あって、私の方が年下ですが、ありとあらゆる点で、彼女は子供であり、私は、はるかに高く成長した大人なのです。

 だから、2002年の二月、彼女が誤解に基づいて大きく裏切ってくる前までは、幸子さんに甘えられていた私は、幸子さんのことをよく知っていると、言うわけです。お父さんが破産をして、一家の経済力となるために、ICUを早期退学して、高卒の資格(?)で、JALのスチュワーデスとなり、実家を支えてきたと、言う事まで、知っています。そんなことまで、知っている、彼女が、なぜ、急に裏切って来てひどいことをやる様になったのかは、一種のミステリーで、私は、謎解きに挑みます。だって、2007年ごろには、命が脅かされるほどのことを彼女からやられるのですよ。そして、その分析の際・・・CIAの対私攻撃パターンを読み解くこととなります。平野和子さんが、画廊ボーをやめたくせに、銀座にひらひら表れて、嫌がらせ行為をするのなど、こちら、雪の下二丁目で、偉そうに何度も同じことを繰り返した渡辺賢司夫人のそれと全く同じです。だから、起こった私は、彼女を、 madame pig shaped head とよびました。嫌がらせの効果が表れた年汁彼女は挨拶もせず、後姿を見せて通り過ぎるから、後姿を、詳細にみていると、NHKの人形劇、ブーフーウーの子豚にそっくりな頭の形をしているのでした。そして、それは、この雪の下でも、平木伸明さん一家の政治的役割と、なぜ、ご長男が、推薦で、東大へ、入学することが出来たのかを読み解くのに非常に役立っています。

 その詳細は、別の章で語るとして、私は、そこで、学んだ、政治と心理学の融合の、観点から、河野多恵子の傲慢と嫉妬心を、知覚するのでした。

 特に、失礼ですが、河野多恵子の方が、富岡多恵子よりもお顔がまずい。しかし、作家としては、自分の方が上だと、言う意識はある。そこにアンビヴァーレンツが生じます。

 非常に複雑な感情が生じます。

そしてヘンリー市川生和ロールご主人は日本では素描しようほど有名ではありません00子曰く言い難い子嫉妬の感情があって、ウィリアムリスを自分のヒット作に使ったのでしょうね。小説家の秘密をめぐる十二章は雑誌【文学界】で連載していたそうですから、そこで既に好評だったのでしょう。だから単行本として出版すれば、絶対に話題作になると言う確信があって、つい富岡多恵子に対する嫉妬心が影響したアイデアの剽窃があったのだと思います。原画=ウィリアムモリスを使うと移転でです。しかしね、これが文春文庫に取り上げられて、文庫として、発刊される際にまたもやウィリアムモリスを使っています。しかもとても華やかな明るいカラーのものを使っています。ただ、それは、まだ買っておらず、自分のものではないので、ここに、画像のコピペは致しません。

 でも私の様に、一応前衛アートを専門にする人間から見ると、これはねオリジナリティーに対する尊敬のない態度であって、受容できない嫌な態度と言うことになります。画家としては、本当に恐ろしい行為です。。本人は気がつかない場合もあるでしょう。けれど、銀座の画廊街で、こういう作品を見つけると、まゆひそめるのが普通です。

 私はね図書館で借りてきた後の、22時ごろ、自宅にあった河野多恵子の方を、引っ張り出してきて2つを比べてみているわけです。

 創元社で、1993年に出版された富岡多恵子の、【中勘助の恋】から、文春で2002年に【出版された小説の秘密をめぐる十二章】の出版時間差は、19年です。二冊を目の前で、比較する私から見ると、(繰り返しになりますが)、アイデアの剽窃と言えます。

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 まだ、村松友視が、竹久夢二の、マッチのデザインを使った書物【幸田文のマッチ箱】のケースの方が、ずっと素敵です。竹久夢二のデザインを使うと、類似性を感じないのは、竹久夢二って、一応画家だからです。スタイルはあります。誰が見ても、夢二だと、わかるスタイルがあります。しかし、ウィリアムモリス程、各デザインが似ている作品ではないのです。ウィリアムモリスは、壁紙、または、木綿の生地へのプリント用に、模様を開発した人だから、取り上げる植物名は、違っても、印象がよく似ているのです。

 あ、ここで、大変嫌な挿入に入ります。その【幸田文のマッチ箱】も、すでに、無いです。これは、八重洲ブックセンターで、あまりに表紙が美しくて買いました。もちろん、カバーの事ですが。

 先程、この章を、評伝という方向で、まとめようとしていて、ドゥース昌代の【イサムノグチ】を探したら、無いのです。

村松友視は私が、この書物を、メルマガで、取り上げた後で、タウン誌【かまくら春秋】で、連載を始めました。そのころ、こちらが盗まれたのだと、思います。したがって、他の書物もすべて、例の四種の泥棒が盗んでいるでしょう。CIAエージェントの命令によってです。

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 ところで、大久保明子さんをググってみました。すると、最近では大変有名な装丁家として活動している人でした。又吉直樹の火花とか市川紗生の【ハンチバック】とか。そして、パターン化していない作り方で、村上春樹の【猫を捨てる】などは、中学生時代の絵画を思わせる素朴さです。

 ただ、火花と、ハンチバックは、使っている明るい茶色が似ている色ですね。

 まあ、伊藤玄二郎と、いまだ、実際には、生きている井上ひさしが、何言っているんだ。「お前の100億倍の、お金を稼げる女性なのだぜ。引っ込め」と、言いながら笑っていることは、知っていますよ。だけど、・・・・・私が勇気をもって、少数意見でも、それを述べる人間である・・・・・ことは、ここでも、発揮させていただきます。

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 河野多恵子の、【小説の秘密をめぐる十二章】は、買ったときは、面白いと思って読了しました。しかし、そのころは、インターネットが無くて、河野多恵子をめぐる諸事のエピソードを知らないで、過ごしていた時期です。

 本日=2023-9-21に、一番驚いたのは、文芸家協会への永山則夫の推薦を拒否して、その時、「だって、私怖いです。そんな人が入ってきたら」と、矯声もどきで、発言をしたのだそうです。その状況は、ウィキペディアからとって、%%%%%罫線以下に置きます。

 私は河野多恵子の、その発言にあまりにも驚いています。私は、その【小説の秘密をめぐる十二章】しか読んでいませんが、産経新聞のホーム頁に、【不意の声】に対する、感想がありました。すると、そのあら筋は、以下のごとくらしくて、その部分だけをコピペします。

 「不意の声」は昭和43(1968)年、「群像」2月号に発表され大きな話題を呼んだ作品だ。河野多恵子は41歳。芥川賞を受賞して5年、作家として脂が乗り切った時期に書いた長編だ。新聞、雑誌の文芸時評にこぞって取り上げられ、「劇的迫力のすさまじさには、河野氏の才腕をまざまざと思わせるものがある」(篠田一士)という声があがる一方、「この作者は資質的にムリしているように思えてならぬ」(平野謙)という声も出た。 翌3月の「群像」では武田泰淳、本多秋五、野間宏の3氏による創作合評が行われ、「亭主を殺しているの?」「亭主じゃない、全然わからない男だ」「それはあとなんじゃないの」「ちょっと待って。おかしいな。これは大問題だぞ」と、名うての読み巧者を大混乱に陥れている。
 作中には3つの殺人が描かれる。
主人公の吁希子(うきこ)は夫と諍(いさか)いが絶えない不幸な結婚生活の中で亡父の亡霊を見るようになる。ある日「出て行け」といつになく執拗(しつよう)に責め立て暴力をふるう夫に憎しみが「募りきり」、殺害衝動に突き動かされる。導いたのは父親の「不意の声」だ。
 「やってみるがいい。大丈夫だとも、三人までは…」
 小説には3つの殺害場面が登場する。1人目は「この事態を知らせたくない」と思う老母。2人目は結婚前に付き合った男の小さな息子。3人目はゆきずりの男。実家の居間、幼稚園の帰り道、自宅のフロ場。日常的風景の中に落とし込まれた凄惨(せいさん)な場面が恐ろしい。 「どうだ、楽になったか? 今夜はゆっくり寝ればいい」
 父親の声を聞き、吁希子は冷蔵庫の扉を開ける。
 「蒼白い庫内灯の光りを受けて冷たく眼を閉じている男の横顔に見入り、こんなにおとなしい人なのに、どうして往かせてしまったのだろう。悔いと慕わしさに迫られる慰めを求めずにはいられなかった…」

 この内容こそ恐ろしいでしょう。永山は、ピストルで撃ったのです。だから、ある程度離れていますね。だけど、こちらの場面では、手で、相手を殺しているのです。

 二つの場面は、相似形であり、だから、一種の近親憎悪として、永山則夫を、拒否したのかしら?

 富岡多恵子に対しても、大阪出身、同じ大学を出ている。同じフィールドに進んだ。かの女と富岡多恵子は、一種の双子みたいなものだ。だから、富岡多恵子に、一種の近親憎悪みたいなものを抱きましたか?

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 それほど、残酷な文章を自分が書いて置きながら、なぜ、永山則夫を、忌避するのか、それこそ、近親憎悪に近い感情のむき出しという、子供っぽさを感じますね。ひどくひどく狭量で、女の小ささを、全面表示する嫌なタイプです。結構、小さな社会である、日本文芸家協会ではボスなんでしょう。

 

秋山駿加賀乙彦の2人[注 24]が推薦人となり、日本文藝家協会への入会申請を提出したが[113]、入会委員会(委員長:青山光二)は2回の話し合いで入会拒否を決め、同年3月5日に理事会でその旨を報告した[114]。拒否の理由は「協会の定款第10条にて『法人の利益に反し、又は体面を汚した』ものは除名することが規定されており[注 25]、永山が入会すれば即これに抵触する」「協会は会員の権利擁護をしなければならないが、永山に対しては会員の多くの心理的抵抗感が強い」などだった[注 26][113]。しかし同日、加賀が永山からの「自分は拘置所内での著作活動を通じて著作権を持つ人間だ。『殺人犯だから入会させない』というのは、著作権保護を重要な仕事とする協会の設立趣旨に反する」とする申請取り消しを伝える手紙を読み上げ[113]、5月には入会拒否に反発した中上健次筒井康隆柄谷行人[116][117]井口時男が相次いで日本文藝家協会からの退会届を提出し[注 27][119]、脱会した[117]。また同月には川村湊らが「協会の対応は納得できない」として入会拒否の撤回を求め[113]、6月に開かれた定例理事会でも「永山の入会問題を考えるための小委員会を設置する必要がある」とする意見が出たが、同会(理事長:三浦朱門[注 28]は7月9日までに開かれた定例理事会で「手続きは従来のままで問題なく、是非は運用面で判断すべき」という意見が大勢を占め、小委員会は設置されなかった[118]。その一方で1996年(平成8年)にはドイツ作家同盟・ザールラント州支部から会員として受け入れられている[120]

 


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