銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

緒方貞子、瓜南直子、千葉景子、宇都宮和代、マダム優美、レオスカラックス、樋口恵子、瀬木慎一

2023-12-19 01:36:46 | 政治

 これは、最初の総タイトルを、【汐留、築地、京橋と敵に、振り回され切った17日だったが、それでも26時間は起き続けたのだった。音楽の力で】としておりました。それで、貫きたいのです。が、20日の早朝になっているのに、まだ、4分の1ほどしか書けていないのです。それなのに、又、寝ないといけない感じです。したがってタイトルを変更いたします。

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副題1、『17日は朝二時に起きた。で、長い間の懸案だった、松竹へのお手紙に午前三時から取り組み始めた。で、午前11時から、外出。その時、外出先で、お手紙を推敲するつもりで、ノートパソコンと、スマホを持って出た。どこでも、スマホがあれば、インターネットができるということを、横浜駅西口にできた、TOM CAT(という山崎製パンの最上級クラス・カフェ)で、隣の、青年紳士に教えて貰った。何と彼は驚くべきことに、彼は、何にも注文をしないのに、プラグ、2個を占拠し、スマホ二台を開けて、かつ、ノートパソコンを開けて、仕事をしていた。顔もいい。体格もいい。洋服もいい。ウールのこげ茶のグレンチェックの一そろい。で、エリートとは、自信があるせいで、ずいぶんと、ずうずうしいものだと、びっくりしたが、テザリングの手法を教えて貰ったので、彼には足を向けてはねられない。わたくしは、普段若い人との会話がないので、内心で、批判をしながらも、表向きは、ほめまくって、「随分、たくさん、お仕事をなさっておられるのですね」と、言ってほめておいら、見返りがテザリングの教習だった。このお店では、wifiが使えないのに、相当難しい仕事をしているので、どうして、それが、可能なのですか_?」と質問をして教えて貰ったのだった。このカフェh、閉鎖空間ではなくて、CIALという駅ビルの中の、小さな改札口へ向かっている通路を利用する形で、テーブルが置かれている上に、店員さんが、忙しいので、監視がないので、こういうことができるのだった。

 このエリート青年の図々しさを見習って、朝日新聞社内廊下で、私は、4時から、6時まで、二時間も、ブログの修正をしていたのだった。あ、は。は。朝日新聞は、ヘラルドトリビューンと、合併(?)して以来、CIAに偏りすぎている、などと、批判をしているのに、二時間もカフェ代わりに、使わせてもらった。あ、は、は。

 天下の朝日新聞も日曜日なので、社員の出入りがない。ガードマンは、監視役として一人いたが、廊下には、ベンチが三連ほど、置いてあったので、使わせてもらっていた。どうして、そうしたかというと汐留カレッタビル(または、日テレビル)の地下三階にある、KInko's

で、プリントアウトをしたかったからだった。

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副題2、『私の妹は、千葉大薬学部卒のあと、医家向け薬品を作る鳥居薬品で、新薬の宣伝を担当していた。医学会へ出向きそこで、医家向け新薬の広報宣伝をしていたので、いったん鳥居をやめた後でも、ICU及び、高校での、私の知り合いを使って、ヘッドハンティングをされ、世界第三位の広告会社JWトンプソンに、再就職をした。驚くべき事に、新薬の宣伝は、今では、広告会社に、任せられる時代になったらしい。各企業の、新薬を守るという秘密体制は、どうなっているのだろう? でも、塩野義とか、三共とか、武田という規模の会社は、やはり、自社で宣伝を行っていると私は、考えている。

 この新薬の宣伝というのが、美麗な紙を使うパンフレットを作るし、ある程度以上の部数を作るので、或る分野での儲け仕事となっていて、私が常に、葉っぱちゃんという仮名を使う大学時代の、友人も、勤務先の、オックスフォード出版会でも、それを、今では引き受けていると、言っていた。悪い紙を使って、コミック雑誌を大部数出版している、大企業の、正反対の生き方と、言っておこう。

 この妹のヘッドハンティングだけど、私が本を自分で作り始めたので、妹にも再就職をさせて、妹の仕事の方が立派であると、いう形に持って行って、ライバル関係を設定し、私をへこませる役目があった。だから、妹から・・・・私が、ウィンドーズ版で、本の印刷機械にかける直前までの、データづくりをしているのを、・・・・・「いやだ。バッカみたい。だって、ウィンドーズって、汎用ソフトでしょう」と小ばかにされたものだった。「汎用でしょう」という言葉は、「それっておもちゃでしょう?」と、いうことの同義だ。アップル社のマッキントッシュの方が上だという印刷や出版業界の認識があるらしい。だけど、私は、ウィンドーズ版の方が、ヴァージョンXまでは、ショートカットを多用していないので、手間がかかるが、壊れた時、とか、バグが入れ込められたときに、治すやり方が、わかりやすいと思ている。したがって、敵との、対応がしやすいので、あれで、よかったのだと、思っている。そういう裏側もすべてわかっているから説明はしないものの、妹を恨んだり敵視したことはない。

 しかし、私は妹ほど、ぺらぺらと、口が回らない。これは、私が馬鹿だということではなくて、すべて、与えられてきたので、自分の口で、要求する必要がなかったからだと、思っている。しかし、パリで、または、ニューヨークで二回、合計三回の海外一人暮らしをして、特に日本人の、住民しているアーチストにいじめられて戦った経験は、私の会話能力を相当に高めた。それでも、勤務という形で、大勢の人に接している女性には、負けるのだった。長期間、一人で、制作と創作を続けて来た私には、子育て時代に培った、対人応用力はあるものの、子供が中学生になった時以来、一人で、孤独で生きて来た。で、ずっと、勤務していて、大勢の不特定多数との、交渉をやって来た働く女性には、負ける。

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副題3、『私の会話能力が足りないために、マダム優美に、誤解をされたことがある。あれは、何時だっただろうか? 殺人事件でもないので、日にちが限定できないが五月だったのは確かだ。私たち日吉台小学校、1955年卒の一行は、結局のところ、綱島の元田んぼの中に建設されているレストランオークラの宴会場・棟へ、落ち着いて、クラス会を開くことになった。このレストランは、日吉駅まで、シャトルバスで、迎えに来てくれて、帰りは綱島駅まで、送ってくれる。そのシャトルバスの停車地まで歩いている最中のことだった。私はマダム優美の洋服が非常に高価なものだけれど、だいぶ古いものであることに気が付いた。だけど、それをほめたいと思った。

 私は最近終活をしていて、やっと洋服の整理が終わったところだ。忙しかったこの20年、洋服の整理をしないで、必要なの物を買い続けたので、春・夏、秋、冬、組み合わせるのに、夫々、7組以上ある事に気が付いた。「うわー参ったなあ。これを着古すまで、あと10年は、生きないといけませんね」と思い至る。捨てればいいと言う人もいるだろう。だけど、元来は画家だ。それで、高い洋服を着て居なくても、上下の色を合わせると他人から見て、美しく見えるのを知っている。中間色を、ちゃんと、合わせる為には、数が、必要で、だから、捨てられない。グレーだって、ピンクだって、何十種類もの色があって、その組み合わせ如何で、上品にも見えるし、みっともなくも見える。そして、その数多い洋服を整理しながら、やっぱり、天然繊維が一番ね。この頃ポリエステルも、冬物は、暖かくなったけれど、それでも夏、それを着ていると冷房が寒く感じたりするから、夏は木綿か麻ですねと、納得をしている。で、私は、色だけは大切で、それ以外の要素、流行色と、流行のスタイルは追わないことにしている。値段も今は、高いものは買わない。

 ただし、緒方貞子さんに横須賀線内で、出会ったときは参った。普通はグリーン車愛用の筈だが、大船から乗って来た彼女は、普通車に乗り、かつ、私の顔を知っていた。あの時思い切って話しかけてしまえばよかったのだけれど、夜の10時過ぎだったので、鎌倉駅周辺には、7つのカフェがあるが、方さんと一緒に入って行かれるほどの高級カフェは、すべて、既に閉店していた。

 緒方さんの姿は、黒一色で、素材も縫製も最高の冬支度だった。ちょっと、気おされてしまったのだ。だけど、緒方さん以外の人だったら、誰が、高価なお洋服を着て居ようとも、自分との勝ち負けは、気にしていない。

 ところで、マダム優美の洋服だったが、五月だから、選ぶのが難しい時期ではある。ブラウスにカーディガンというのが、最高の気温調節機能が有る服装だが、マダム優美は、ジャケット姿だった。ジャケットとなると、買っても、注文をしても、10万円近くか、それ以上になる。他の主婦たちとは、ゼロが一つ違う服装である。

 その時に、私が、本当に言いたかったことは、こうである。『うわ、ちょっと古い形だけど、素材がいいから素敵ね』だった。今のマダム優美は、サラリーマンの妻である級友たちとは、けた違いの富裕層だけれど、5年ぐらい前に買った、10万円以上はするであろうジャケットを、捨てないで置くのはいい事だった。モノというのも何でも、人間以外の命を殺して作られている。だから、簡単に、捨ててはいけないのだ。しかし、彼女は、私のセリフを全部は聞かず、瞬時に、怒り出してしまった。「千恵子ちゃん、失礼よ。全然気分を害したわ。女性に対して、面と向かってお洋服を、けなすなんて」と。私はあっけにとられた。私なりに褒めるつもりだった。薄いブルーかグリーンを含んだ、しろで、初夏には、ピッタリのジャケットだった。ところが、彼女は、数秒で、キリキリと怒り出した。それは、彼女自身、ひそかに、形が、すでに、流行おくれだと、言う事に気が付いていたからだった。そこを突いたと誤解をされてしまった。その時に、フォローをしようかどうか迷った。本当は、「違うのよ。スタイルが古くても、素敵だと、言いたかったの、いいものは、いいのよ」と、修正しようかなあと、迷ったのだ。だが、中原街道、東側の日吉から綱島へ向かう歩道は狭く、先を行く、マダム優美は、怒ったせいか歩みを早め、ぐんぐん先を急いで、振り返りもしなかった。その日、私は宴会を、全然楽しめなかった。さすがに、彼女は、洋服が原因だと、他の友達には、言わなかったとは思うが、つんつんしている具合は、最終場面まで、消えなかったからだ。

 これは、アメリカから、帰った後だったと思うのに、実践的な場面で、レベルアップしたと、自分では考えて居る会話能力を、発揮できなかった場面だった。でも、その陰に、私の高い分析能力も加味していると、言わせていただきたい。マダム優美が、自分が今、優越している事を、事あるごとに、他のメンバーにも、見せつけるので、他のメンバーは、いささか辟易しているところだった。だが、そういう私以外の人の渋い表情を見ながら、『ああ、マダム優美は、子供のころの復讐をしているのよ』と、考えて、どちらにも見方をしないで、置いたのだった。渋い表情をした女性と、私は、このクラスの中で、四人だけいたマダム森川の私塾のメンバーだった。マダム森川は、ご主人が、商船に乗っていて普段家に不在なのと、戦前の日本女子大を出ていると、言う学歴を、梃子にして、日吉台小学校で、成績が良くて、親が私立中学受験をもくろんでいるお子様方を、三3クラス全部から、3~5人ずつ、集中的に自宅へ招いて、受験用お勉強を見ていたのだった。そこから、男の子は、慶応普通部、女の子はフェリス、東洋英和、青山学院などへ、合格していった。1950年代、まだ、中学受験用塾は、それほど、流行していなかった。だから、私達、そこのメンバーは、特別に恵まれている方だった。結果、私は、当時はエリート校だった、横浜国立大学付属中学に合格した。しかも入試成績が、他と50点差をつけて一番だと言う事だった。森川家のお嬢様は、フェリス合格。

 私は、子供のころから、その苦悩が判っていた。マダム優美が、絶対に、愚痴を言わないし、表情にも出さないものの、父親が居ない自分は、私立受験をしないと言うのを、悲しがっている・・・・という事には、子供ながらにわかっていた。だから、大人になったマダム優美がことさらに、『自分は、今、あなた達よりも数段上の場所にいるのよ』と、誇示するのは、仕方がないと思っている。だけど、あの日、私が、「それって、スタイルは古いけれど‥‥」と、言いかけたまま、そのあとを、彼女の怒りに吹っ飛ばされて、続けなかったことを根に持って居るのだろうか? 確かめようがないが、それが、根っこにあって、今般の歌舞伎座入り口で、私がえん罪逮捕でもしかねないと言う罠を、彼女が張ったとしたら、女性のおしゃれに対する、発言には、よほど気をつけないといけないと言う事になる。

 今、この歌舞伎座玄関前のえん罪逮捕に至るほどの、だまし討ちに至る、大きな、案件全体のせめてもの救いは、森川家のお嬢様が母親を批判していた事だろう。「うちのママって、よその人ばかりに親切なの。こまっちゃう」と。華やかな活動をしている奥様の家の子供って大変なのだ。それは、それなりに。マダム優美家だけは、大ママ=ばあば、役の、1950年代に、すでに、未亡人だった、母君が、特別に賢かったと、言っておこう。で、娘さんの塾がうまくいくように、大きくサポートをしたと、考えて居る。

 ところで、先へ進みたいのだが、私の頭は、ここで、千葉景子さんとの、二度の、横須賀線、内での邂逅へ、向かっていく。

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副題4、『私は、2009年から、2010年にかけて、7冊目の本として、【消された映画】というのを準備していた。それの中で、レオスカラックス監督が、大変なしかも、恐ろしいレベルでの侮日映画を作ったことを批判している。それは、映画TOKYOの第二部で、プロットは、井上ひさしが、2007年ごろ作り上げ、『後は、自由に』とレオスカラックスに依頼をしたと、思われる。その映画のプログラムの中で、文化庁が、この映画に、助成金、800万円を出していると、言う事が書いてあり、それ以降、文化庁を尋ねて、これを質問しようと、私はずっと考えてきている。それで、まず、文化庁は、文化庁自身が助成金を出すのではなくて、芸術文化振興会という、半官、半民の組織を作り、そこが、お金を出すと言う形に変更をしてしまった。

 これが、瓜南直子さん、の早世の一原因でもある。我が家から、映画のプログラムを盗んだ、CIA連中は、直子さんに、【always 三丁目の夕日】の映画プログラムについて、フェイスブックで、あれこれ、投稿をさせた。それは、映画のプログラムが、【靖国】と、【TOKYO】と、二冊も盗まれていることを知って悲しんでいる私の心をさらにえぐるものだった。

 瓜南直子さんは、私の絵を見たこともないし、文章を一行も読んだことがないのだろう。だから、平気で、伊藤玄二郎や、酒井忠康氏の命令のままに動いていた。彼女のフェイスブック上の投稿は、全日本あすハガレンを始め、毎日、毎日、私を心理的に苦しめていたのだった。特に豊島屋の源平巻きを種にした、執事を名乗る金田佑子さんとのやり取りは、佑子さんが、私をスパイする役目が、立ち消えになったのへの謝罪の意味での、直子さんから、佑子さんへのプレゼントだったし、さらに、それを種に、卑猥なジョークを交わす、二人の投稿を見つけてから(それは、2011年11月18日だったが)、激怒した私は、瓜南直子さんの投稿を一切読まないことにした。それ以来、直子さんは急速に衰えたそうである。他の人のブログを見ると、直子さんは、2011年の12月には、すでに、止まり木に座っていることもできず、【日暮文庫=居酒屋】で、ソファーに、横たわっていたそうである。体は、やせ細っていて。私は、自分が切り捨てたとたんに、直子さんが、その様に弱体化して、しかも次の年に、この地上から消え去ったので、・・・・・ああ、やはり、神様はいるのだ‥・・・と確信をした。

 渡辺豊重さんも、1994年あたりでは、私とは、仲良しだったのに、2005年に、急に敵対してきて、変だなあと思っていたら、酒井忠康氏が、2023年の鶴岡八幡宮のぼんぼりに、珍しく似顔絵を描いて、とよしげさんを、しのんでおられたので、ああ、とよしげさんから2005年に見せつけられた突然の離反は、裏に酒井氏が居たわけですねと、納得をした。2005年から数えれば、18年は過ぎているが、この様にして、得たいと思って居る真実は、私の場合は、必ず、手に入る。

 千葉景子さんに戻ろう。レオスカラックス監督の映画、TOKYO第二部には、死刑執行の場面が出て来る。死刑は、フランスではないそうで、したがって、カラックス監督が、その場面を含めて、日本をバカに仕切った映画を撮ったわけで、私は、そういう侮日映画に、オマージュをささげている文化人たち(映画のプログラムで、発言をしている)への批判と、文化庁への批判を、その書物中に取り上げている。

 これは、私にしては、初めての、政治を主題にした著書だった。で、今まで以上に弾圧が激しかった。これを準備中に山口みつ子さんが、殺された。しかも自殺だなんて、大変侮辱的な、広報が毎日と、読売に、あった。絶対に他殺です。(この件については、2017年に入って、五月に、詳細に書いているので、そのリンク先を後で、探しておきます。)

 そして、お茶の水女子大付属高校卒の先輩、樋口恵子さんを使って、舞台は、覚園寺信徒会館三階で、引っ掛けが行われた。尚、大切なメンターと言っているのは、樋口恵子さんではない。昭和、31年卒の先輩、旧姓西大寺さんだ。その人との、井上ひさし考案による、2003年から、2005年にかけてのわかれを、再度えぐってきたのが、安倍晋三元総理大臣の、殺害事件だった。安倍晋三さんには、殺される由縁はない。山上てつやの伯父が、弁護士だそうだ。

 ここで、横浜に事務所を置き、永田町で、法務大臣をも務めた、千葉景子さんが、登場する。NHKニュースでもだが、個人的に、私を威圧するために登場したのだった。

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副題5、『千葉景子さんが、横須賀線先頭車両に登場したことと、相当後日になってから、横須賀線、後方車両に乗ろうとして、横浜駅9番ホームに立っていた時の変化は、私にベートーヴェンの第九の歌詞を思い起こさせた。

 つまり、上で言っている、【消された映画】を出版させないと言うために、まず、千葉景子当時の法務大臣に、メディアに向けて、死刑場を公開させた。私が、その本の中で、カラックス監督は、たった、2週間で、これを撮影し「皆様に感謝します」と言って、帰国をした。それは、そうでしょう。一橋蓮司ほかのキャストも、ビートたけし(の芸大横浜支部)を使って、撮影の協力したスタッフも、編集後の実物を見て仰天をしたと思う。尚、この映画は、三部作で、第一部と、第三部には、問題がない。

 この時の対私いじめとは、山口みつ子さんが殺された事(*1)我が家に外人が、ピストルをもって乗り込んできた事(*2)上にあげた樋口さんの覚園寺の講演(*3)、二階堂のきっさん店で、パソコンの仕事をしていた私に、如何にも、本の注文を自分たちに、依頼させようとする、伊藤玄二郎の悪口を言う二人組が現れた事(*4)、その帰途、清泉小学校横を家に向かって歩いている私の後ろから、音もない形で、ゆっくりと、神奈川県警の、灰色の装甲車(超小型車)が、追いかけてきた事(*5)、exibit Live and Moris での、個展を2月に、オーナーから、委嘱をされた事(*6・・・・・これは、準備中の本の出版を阻止させてやろうとする忙しさを演出する為)、しかし、それが、4月に伸びて、山本容子と、同じ週になり、すべての画廊オーナーに、私の方には、行かない様にという指令が下っていた模様である事(*7)、2010年4月3日、準備に行く私が、北鎌倉を出たところで、一時間半、電車が止まった事(*8)、オーナー森さんが展示を私の意図から滅茶苦茶に変更してしまった事(*9)、せっかく見に来てくれた、画廊スタッフ=三岸節子の画廊に雇われている人)を森さんが追い返したこと。(*10)、4月5日に、「六か月前に、受信した、ご主人の、がん検診の結果を教えます」と、額田病院から電話がかかってきた事(*11…これはね。その日に画廊に見に行ってもらっていた主人がもし癌だったら、個展など、やっていられないでしょう‥・・・そういう意味で、私への脅かし行為なのです)、

 同じ書物内で、取り上げているマイケルムーア監督が断筆宣言をしたこと(*12)、マイケルムーア監督が来日した事(*13・・・・・私が、2011=2012にかけて言動を批判した映画人が、マイケルムーア親衛隊として、登場した事)、

 佐々木俊尚が、朝日新聞書評欄の、【売れている本、堤未果】篇で、マイケルムーア監督の名を出して、暗に私をネトウヨと、規定をしたこと  *14)、瀬木慎一が、2010年4月5日着で、「あんたを告訴する」という手紙をよこしたこと(*15)・・・・・など、ものすごい攻撃の山に出会います。

 ちょうどそのころ母が死にそうだったのです。私は、本づくりには、激しい消耗をするのです。自宅がパソコンを邪魔され続けて仕事ができない場所へと変化するので、外で、仕事をするので、大きく、大きく消耗をするのです。でね、2010年の本づくりは、直前まで、準備ができていたのにもかかわらず、工業的・印刷製本にまでは、回していません。その後も並行して、次から次へとデータは、作るものの、実際の出版へは、回していません。それでね。伊藤玄二郎と、井上ひさしは、すっかり味を占めてしまったのです。脅かせば、彼女=私の事=は、仕事をやめると。そうですね。彼らにとって、最も恐ろしいのは、私の紙の本です。

 で、それを、抑圧する方法を見つけたと、大喜びをしたのです。でね。千葉景子さんを勝利のあかしとして使いました。たまたま、横須賀線の先頭車両に乗っていた私を脅かすために、千葉景子さんが、横浜駅から、乗ってきたのです。したがって、この時点では、私は、彼女の住まいがどこに在るのかは知りません。

 彼女は、その後も何前回と繰り返される、私がブログに書いた人物が目の前に現れたら、私がビビるはずだと、言う手法に準じて目の前に現れたのでした。それは、実際には、大きな特権を握っているくせに、背後にCIAが居ればこそですから、非常に憶病な井上ひさしと、伊藤玄二郎の、自分たちの心の中を投影しているだけの現象ですが、その日は、千葉景子さんが、利用をされたのです。でね。彼女に、「川崎千恵子は、貧乏です。必死で、おしゃれこいていますが、実際には、貧乏なのです。だから、できるだけ富裕であることを見せつけてやってください」と、情報を事前にもらっていたらしいのです。

 でね。顔は、ファウンデーションを厚さ1㎜程度に塗りたくり、お洋服は絹の、アンサンブルでした。ただ、私はね。私より、10cm以上背が低くて、体重は、53キロぐらい。ずんぐりむっくりで、テレビで見るよりもずっとスタイルが悪いなあと、見おろしていただけなのです。それからね。お洋服の絹ですが、買うときは高いでしょう。それと着ている時に楽です。軽くて暖かいです。しかしメインテナンスが大変です。すぐ黄ばんで来ます。そしてアイロンが難しいです。テレテレカンをなくすのは、素人では、難しいです。でね。お姫様用衣装、または、宮中、正餐用ドレスなどではなくて、普段用の、アンサンブル程度で、絹を美しく着こなすのは、至難の業です。そして、平沼高校卒でしょう。で、平沼も、岸恵子が卒業したころは、しゃんとした女性を生み出していたでしょうに、なあに、このずんぐりもっくりは‥・・・という様な形で、文章を終えています。それほど、伊藤玄二郎と、井上ひさしには、ひどい目にあわされていますので、そちらに加担している人物に、同情の余地はないのです。

 ところが山尾志桜里について調べて居た時のことです。彼女と神津李きお氏が、学芸大学付属世田谷高校卒だと知りました。(私が子供のころは、学芸大学付属は三校あったはずです)で、そこから、千葉景子さんもそこの出身だと知り、さらに、中学まで、ウィキペディアに書いてあったのです。すると、住所は、保土ヶ谷駅西側の丘で、しかも、中学の後輩だと、わかりました。なんていう事。でも、彼女みたいな厚化粧の女性は、わが1958年卒には居ないですけれど。ええっと。じゃあ、井田倉先生の私塾に通っていて、付属に入りましたか?などと、いろいろなことが判り、仰天しました。で、修正ブログを書いた後の事です。偶然横浜駅で出会ったのです。彼女は、ボックス型の席に座るために9番ホームの後ろの方で、待っていたのです。そこへ、北改札口から上がって来た私は目が合いました。

 彼女は、私を覚えていました。で、今度は、ふてぶてしさが消えておりあの脂ぎったお化粧もなかったのです。で、私は、声はかけないものの、おーフロイデ、と、なんか、第九のシラーの歌詞を思い出し、良かった、今日は普通で」と、思ったものです。彼女は、弁護士なら、それでしょうね。という風なお洋服で、以前より背が高く見えましたよ。つまり、少しやせたみたいでした。

 でね。マダム優美は、実は、歌舞伎座前で、逮捕(冤罪ですよ)されるかもしれないと言うほどの罠に引っ掛けてきたかもしれない、この度の、11月8日の電話ですが、千葉景子さんと同じく、普通の人として、小さいころと同じレベルで、仲良くなったのかと喜んだのです。

 

 しかし、この12月14日に日大アメフト部PHNIXの廃部が、けっていし、その日の林真理子のふてぶてしい顔を、見たとたんに、あ、ちがうようだ。マダム優美も私をひっかけるために、あれほどの、お芝居をしたのだろうし、千葉景子さんも、山上てつやの伯父を説得しに、奈良県にまで、行った使者だったのかもしれないし・・・・・

大変に嫌な方向ですが、PHENIXの廃部とは、そこまでと、連動をしている模様ですよ。

 ここで、20日の午前五時は、終わりとしておきます。

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@@@@@@ここが、書きかけ中の最先端です。

 ところが、妹の方は、3人兄弟の真ん中として、小さいころから、精神的にネグレクトされていると、考えていた可能性がある。で、弟については、父も母もべたべたに愛していたので、それを、敵視すると、自分が損だと、考えていて、両親から、愛されているかどうかはわからないものの、アリと、あらゆる保護を受けていた、私の方をライバル視するさまになった。妹は、父の意を呈して【りけじょ】として、国立大学へ入ったものの、兄弟のうちで、特別に情感が豊かだった様に思われる。飯田深幸さんに、絹地で作る増加を習って居たり、社交ダンス(特にラテン)は、月に10万円の月謝を払って、馬車道まで、通っていた、

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