今は、2014年の2月1日の午後6時です。推敲が終わりました。たくさんの誤変換が残っておりました。新規な話で、特にエージェントが裏にいる話を書くときは起こりやすい現象です。この文章も堤清さんは、自己・・懐疑の・・人であったという部分が、・・会議・・と成っていたりしていて、意味が通らなかったところが、100以上あったと思います。やっと直しまたよ。ただ、加筆のために最後の章が、はみだしました。で、内容に応じて、総タイトルを変更しました。
この章で語りたい事の骨子は、ITを使ったいじめ(弾圧)作戦の一部を開示する事と、マスメディアに乗った寵児に対する裏側からの分析です。その第一章ぐらいに当たるかな? ところで、この文章も、続きなのです。何の続きかと言うと、都知事選について書いた文章の(後注2)の続きです。で、そちらに、副題1~5があります。ここでは、6から始まります。
副題6、『秋山祐徳太子氏って、武蔵野美大卒だったのだ。ホームレスかと思っていたのだけれど(笑い)』
副題7、『新富町育ちで、母に溺愛された、秋山祐徳太子氏』
副題8、『保坂涼子さんから、ののしりメールが、101回も連続して送られてきたが、今思うと、IT攻撃の、例の成りすまし疑惑の、それが、始まりでしたね』
副題9、『ギャラリー山口のオーナー、みつ子さんを、だから、私は好きなんですよ』
副題10、『坂東真砂子さんを思い出した、上で、ブリキ男の、安保闘争時代を読み返してみれば』
副題11、『晶文社、PHP、大和書房、・・・・・・ちょっと下がって、幻冬舎』
副題12、『自殺したと推察される、友達のパソコンを、ひどい形で、いじって、苦悩を与えたのは、誰かな?』
副題13、『苦難に見舞われている人へ申し上げたい。解決するのは、自分しかないのです』
副題14、『ライカ同盟、から、秋山祐徳太子氏は、赤瀬川原平氏と結びついているのですね』
副題15、『赤瀬川さんについて、私が知っていたこと』
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副題6、『秋山祐徳太子氏って、武蔵野美大卒だったのだ。ホームレスかと思っていたのだけれど(笑い)』
都知事選の候補のうち、鈴木達夫弁護士を、NHKは、徹底的に無視しています。
そのことを怒ったのが、後注2です。その後別の方向へテーマが走ったのですが、ここで、戻りましょう。安保反対闘争の頃へ。 ちょうど、2014年1月30日の、クローズアップ現代が、見事にその頃の一現象、安田講堂への警官導入の話を取り上げていましたし。
ところで、選挙と言うと、泡沫候補としてでまくった、秋山祐徳太子氏を、私はふざけきった、一種のホームレスまがいの人だと、ずっと思っていたのです。
まあ、この人がユーモアの達人であり、一種のコント芸人として活躍もしていて、浅草で、公演をしているなどと言うことも、別方向から聞いていましたし。
ところが、こちらのふざけた人物の選挙演説は、テレビで何度も見たことがあるのに、大変まじめそうな鈴木達夫氏のコメントを一切出さないNHKの悪意を、したたかに感じている次第です。鈴木達夫氏は、エンタープライズ長崎寄港反対運動で、NHKを懲戒解雇になったそうですが、今は、東大出身の弁護士として、貧しい人の見方らしいのです。秋葉原で、大きな声援を受けていました。
で、一種の怒りの対象としての、秋山祐徳太子氏を取り上げたいと思っているのですが、なんとこの人は美術畑の人だったのです。武蔵野美大出身で、美術評論家にして、作家でもあるお偉いさんだったのです。私は後でもそれを述べる様に、また、以前にもそれを述べたように、社交的な事を一切しませんので、ちっとも、知りませんでした。(苦笑)
しかも長らく。
私は、2003年ごろから一種の美術評論を始めていて、ある人が、「川崎千恵子を知らないのは、銀座ではもぐりだ」と、言ってくださるほど、内容の深い、かつ暖かい美術評論を展開していたと、思います。2005年が、そのピークだったと思います。私の敵さんたちに言いたいのだけれど、あのまま、進ませてくれて、月刊ギャラリーの連載も前任者みたいに、700回(=20年)を越すほど、やらせてくれたら、今の様な政治的文章を書かないで、あげていたと思います。判っている事でも、触れないで、黙っていたと思います。毎月、18000円でもお金をもらって仕事をする立場では、自己規制がかかりますから。
私が、これら、敵さんたちを「幼稚だ。幼稚だ」というのは、常に目の前の出来事に右往左往して、ちょっとでも勝てると思ったら、そこに首を突っ込んで、攻撃してくる態度の、その根幹を言っているのです。視野が狭いし、時空的にも短期間の見通ししか持っていません。
だけど、私が彼らを教唆したり、指導したりする事はできないので、対症療法で、モノを書くと言う事にはなります。
で、この章では、ユーモアの人の筈である、秋山祐徳太子氏が、牙を向いてきた話を語ります。人間は誰でも、二重性を持っているのですが、驚くべき恐ろしさで、彼は、向かって来たのでした。ただし、目の前ではなくて、私がいない場所でですが・・・・・そう言う意味では、エージェントまたは、エージェントたちに協力する人固有のずるさを持っている人です。
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副題7、『新富町育ちで、母に溺愛された、秋山祐徳太子氏』
私は秋山祐徳太子氏から、ひどい仕打ちを受けたことがあります。今まで、それを書いていませんが、保坂涼子さんと言うお若い作家と、赤瀬川原平さんを巻き込んだ大掛かりなものだったのです。
もしかすると、N.K.さんと言う天才的女流画家を、苛め抜いたNHKスペシャルにも、いくばくかの関係があったのかもしれません。で、結論を言ってしまうと、表と裏がまるっきり違う人であり、そう言う意味では、あきれ果てた人だなあと思っている次第です。
ただ、あきれ果ててはいるが、いいところも当然持っているわけです。人間だから。後注2の中であげた、秋山祐徳太子氏の本=ブリキ男を読んでいろいろ判ってきたのですが、私とはまっ反対の育ちの人で、それも関与していて、仕方がないことだったのかもしれません。
まず、父親の違いです。氏の記述の子供時代では、父の記憶は入っておりません。はっきり言ってしまうと、お母さんは、・・・・・元芸者さんだったのではないかなあ。または、芸者さんを支える、立場の髪結いさんなどの、色町の人。・・・・・で、覚悟の上でのシングルマザーとして、彼を生んだのです。彼は、普通の家庭で、育った人ではないのです。
父親がいなかったという事について、めそめそした記述は一切ないけれど、ある種の覚悟と、ある種のふてぶてしさと、そして、ある種の居直りをもって生きて来た人なのです。
それが、あの泡沫候補としての立候補の、連続につながっていると、私は見ます。一種の治外法権の世界に生きる事へつながったと思います。
新富町と言う地名をよく知らない人や、このブリキ男を、読んでいない人に対しては私が推察する事は、なかなか、理解ができないかもしれませんが、古い東京を知っている世代には判る部分があるのです。遺伝子的な父親は、羽振りがよく、金持ちであり、かつ、男っぷりの善い人だった可能性が高いですが、実際の毎日の生活の中で、秋山祐徳太子氏に、影響を及ぼす事「はありません。
一方の私ですが、父の影響力は強大であって、その父が、戦時中のプロの画家の苦しみを傍見していて、その結果、あれこれを考えて、「美大へ進学などとんでもない」というのですから、秋山祐徳太子氏が、武蔵野美術大学へ進学したのとは、正反対であって、芸術系の学部へ進学するのなど、夢のまた夢でした。
だが、自宅が貧しかったと言うのでもないのですよ。私が大学入学した時には、成績がよいので、奨学金を頂ける筈でした。だが、「あなたのお父さんは、日本の上位6%以内の高額納税者に当たるので、奨学金は出せない」と、国際キリスト教大学の、事務局からいわれたものです。
ただし、これは、父がまじめな性格だから、そう言う事になっていただけで、実家には、車さえありませんでした。父が管理する部門では、贅沢は禁止でした。ただ、自宅は、美的には、とても、すっきりとしたつくりであって、実際に遊びに来た友達は、皆びっくりしたものです。またお隣は、竹中工務店が作り上げたジュラルミンの屋根を持つ、60坪程度のお宅でしたしね。貧乏とは無縁の生活でした。
それが、父親の方の違いですが、一方の母親の方も正反対といってよいほど、違いました。ブリキ男を読んだ限り、秋山氏の母は、いわゆる小またの切れ上がったいい女と言う類の人で、美貌の人だったと推察できます。「おしるこ屋・千代」を経営して、女手ひとつで、祐徳太子氏を育てました。子供に対しては、べたべたに甘くて大切にして育て上げました。
仕事をしている女性ですが、その仕事の中心は、ひとあしらいにあります。お汁粉を食べに来たお客がリピーターになってくれる事が大切ですね。愛嬌も豊かでないと駄目です。
一方、うちの母ですが、いわゆる美貌の人というのでは無かったです。着るものに対してとか、装飾品に関しては、ものすごくおしゃれで、贅沢三昧でしたが、顔そのものは美形では無かったです。
頭の方ですが、ご近所の紳士が、電車の中で、私に、「あんたは馬鹿だけど、あんたのお母さんは聡明だよ」というほど、よかったと思います。当時、神奈川県内で、たったひとり、御茶ノ水女子大の付属高校に入学して、日吉の町中の人からちやほやされていた私としては、びっくりするほど・変な(笑い)評価でしたが、母は、それほど、他人から頭の良さを認められていました。
母の父は、今の用語で言う高校(昔は、商業中学と言った)の校長を40年間もした人でしたが、その父が養子であって、養家に気に入られなかったので、母の祖父母から、家を追い出されるという事情が起こり、母は叔父おばに育てられました。で、母自身が愛情いっぱいの親に育てられていないので、子供に対しても、素直な、動物的な愛を示すという事がありませんでした。
そこが秋山祐徳太子氏の母とは、違うところです。でも、私の母は利口だし、お手伝いさんほかの他人を使う事もできるので、余暇を生み出す事もできるから、株をやっていました。1960年ごろから、当時は、女性には許可されていなかった、信用取引と言うのも許されていて、相当の儲けもあって、私は衣服に関しては、親から与えられるままに、高価なものを着ていて、そう言う意味では苦労知らずであって、したがって、いわゆる人間的な強さと言うのが一切ないタイプとして育ちあがりました。
その上、芯のところで、自信がない人としても育ちあがりました。この根源的な自我の形成とか、自信と言うものは、母親が、動物的な愛情で、子供を育てた場合には、獲得され易いのですが、そうではない場合には、形成されにくいものなのです。私もそう言うタイプですが、私に対して、身の上相談を持ちかけてくる人や、悩みのある人のケースを見ると、皆そうなのです。お金持ちの実家で何不自由なく育っていても、自信がないタイプと言うのは、いるのですよ。
堤康次郎と言う人が、たくさんの女性を支配して、たくさんの子供を作りました。長男の堤清氏が、どちらかと言うと、自己懐疑の強いタイプで、私はそちらに近いタイプで、堤義明氏は、後者、つまり、秋山祐徳太子氏などと、近いタイプでしょう。
最近、週刊朝日とかアエラが毒親特集と言うのを、展開していますが、最近の女性は、東京圏では、小さい頃から、受験をするし、四年制大学を卒業するので、私の母みたいな、雰囲気の女性になりやすいし、したがって、子供が世慣れていないタイプに育ちあがり易いのです。で、引きこもりが頻発したりします。秋山祐太子氏の性格と言うのは、そう言うタイプとはまっ反対のモノです。
たまたま、私の場合は、母が最終段階を、老人ホームで六年間も過ごし、その間に、母と私の間に、新しい関係が築かれて、いわゆる感謝と愛情のこもった間柄になってから、別離する事ができたので、とても幸いであって、だからこそ、ここで、忌憚がない形で、『母は大正生まれの人としては珍しくも、怜悧で知的なタイプであった』と、言う事もできるのです。もし、内面に、いまだ、引きずる苦しみや、恨みがあったら、この様な文章は、書けないものです。
母は、大学は出ていないけれど、まさしく、知的なタイプでした。そして、子供達を上手に誘導もしたので、学校の成績は子供三人とも、皆優秀でした。が、社会に出てから、弱い方でしたね。兄弟全部、世慣れていないタイプになったものです。だから、銀座の画廊街と言う一種の社交界において、私が人間関係上、秋山祐徳太子氏の下手に置かれるのは、仕方がない事でした。
だから、ギャラリー山口の中で、「雨宮舜、なにするものぞ」と言う時代がかった捨て台詞が、秋山祐徳太子氏から出て来たのです。その影に、氏のお母さんが、新富町に暮らしていて、歌舞伎などに見物に行きやすかったということも有って、「なにするものぞ」と言う時代がかった言葉が、出てきたのでしょう。(笑い) 私の父も歌舞伎は好きで、よくせりふを繰り返していましたが、私は、それを使った事はありません。誰かに向かって、『あんたなんか、何するものぞ』と軽蔑した事はありません。(笑い)
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副題8、『保坂涼子さんから、ののしりメールが、101回も連続して送られて来たが、今思うと、IT攻撃の、例の成りすまし疑惑の、それが、始まりでしたね』
その秋山祐徳太子氏の讒言により、その時、私が誉めそやした作家、保坂涼子さんは、私を突然に、嫌いになったらしくて、ひどい内容のののしりが、36行にわたって書かれたメールが来ました。しかも、それが、101回も繰り返されていました。
今思うと、101回それを繰り返したのは、保坂涼子さんご自身ではなくて、別の人間だと思います。2011年に、フェイスブックをはじめてから、自分のパソコンに妨害を加えてくる人間の一人として、1960年代からニューヨークへそちらの勉強に行っている古村浩三君が、その一翼を担っている事は、察せられてくるのですが、2006年当時は、そんな事は思いも寄らないので、ただ、ただ、びっくりしたものです。
保坂涼子さんは、武蔵野美大の出身なので、秋山祐徳太子氏としては、『自分の陣地内の人間だから、お前、手を伸ばすな』と言う意識があって、そう言う意味合いで、保坂涼子さんに、「彼女とは付き合うな」と言ったらしいのです。その言い方が、気風のよい、『雨宮舜、何するものぞ』と言うせりふに成ったらしいのです。
だけど、なんだか、ものすごいレベルで、吝嗇ですね。精神的なレベルで、吝嗇です。それに、『俺の玉だから、手を出すな』なんて、やくざみたいでもあります。そう言うところが、精神的な意味での、治外法権世界に住む人だと言うゆえんです。
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副題9、『ギャラリー山口のオーナー、みつ子さんをだから、私は好きなんですよ』
私は大変に我慢強い人だから、2006年に起きたこの件を、ほぼ、10年間も黙っていて上げたわけです。でも、それほど、無残にけなされても、100年後には、保坂涼子さんについて書いた、私の文章の方が力を発揮すると思いますよ。
とても、判りやすい文章で、保坂涼子の資質の美しさを描いた文章です。お孫さんか、ひい孫さんは、私の文章を糧として、祖母、または、曾祖母は「優秀な芸術家だった」という事になるでしょう。
ただ、すばらしい文章を書いたのに、ひどく汚い、ののしりの文章で、お返しをして来た事だけでもびっくりなのですが、さらに、それを101回も繰り返した事にはさすがにびっくりして、その個展が開かれていた画廊のオーナーにそれを話しました。
それは、ギャラリー山口のオーナーだったのですが、簡単ながら、愛情のこもった言葉で慰めてくれました。絶対に私の味方だと信じられる言葉で、慰めてくれました。そして、保坂さんのそれほどの、変身の裏側に、秋山祐徳太子氏の讒言がある事に気がついて、秋山さんが吐いた上のせりふを教えてくださったのです。
みつ子さんは、長々とした説明はしませんでした。画廊って、誰が入って来るか、判らないでしょう。ちょうど、その時、秋山祐徳太子氏が入って来るかもしれないじゃあないですか?
だけど、その短い時間の中で、みつ子さんの私に対する愛と、私に対する高い評価(むしろ、秋山祐徳太子より、私を上においてくれている雰囲気)を、感じ取る事ができました。本当に神の後光が、彼女の後ろにさしているみたいでしたよ。私が川島女史(今は閉鎖されている村松画廊のオーナー)を嫌うのは、公的な場所でも、私的な会話でも、わざと、山口さんは、自殺だったと触れ歩いているからです。私は他殺だったと思っています。
ただ、これを読んだ敵さんたちは、これから、さらに、秋山祐徳太子氏を持ち上げるでしょう。で、私は、さらに困難に出会う事になるでしょう。でも、すでに、いろいろな事を捨てているのです。覚悟はすわっています。そして、最近では、本当に神様だけを相手にしていますから、ごめんなさい。あなたって、「こどもっぽ過ぎますよ」と、はっきりと言いましょう。
秋山祐徳太子、一人に限っても、IT的な私へのいじめは、この保坂涼子さんの、101回かける36行のののしりメールだけに限らないのですが、秋山祐徳太子自身は、IT的技術は無いと思います。
彼と言うアイコンを利用して、敵方が、裏でいろいろやったと言う事でしょう。
この頃、美術評論家を名乗る、人材が、他にも、私への、攻撃用弾丸として、使われた事、使われた事・・・・・将来詳細に語ります・・・・・でもね、私はそう言う現象を横目で、見ながら、『きっと、私の美術評論がすごく良いから、連中は焦っているのですね』と、内心で笑っていたのです。
あのね、すごく平易な文章なのです。だけど、本当に感動した時しか書かないし、それゆえに、注文をとって、書いた文章より力強いのです。そして、旧来よくあった難しい語彙を用いた美術評論は、美術畑の中では有効ですが、一般の人は読まないものです。だから、アーチストの作品を一般の人の間にひろめて行くためには役に立たないのです。キリスト教の言葉で、中保者と言うものが在ります。間を保つもの。間を取り持つものと言う意味です。まさしく、一般の人と、芸術家の間を保つもの、そう言う種類の文章を書いていたのでした。
それをがっしりと阻害し、やらせ無いように弾圧した事が、証拠として残っているのが、秋山祐徳太子氏なのです。
浅草で、コントをして、人気を取っている人の恐ろしいもうひとつの顔です。善人とか、人気者といわれている人の本質が出て来るもうひとつの顔です。そう言う顔もあるからこそ、泡沫候補として、選挙に、でまくる太い神経もあるのでしょう。
ところで、私はギャラリー山口のオーナーがなくなった後で、彼女を慰霊するために、ビュッフェバイキングへ行くようになって、いつも、彼女と一緒に食べているつもりになっているのです。彼女は忙しくて、遊ぶ暇もなかったでしょう。最も単純な遊びですが、一緒に食べ歩きをしているつもりになって、一人で、レストランに入り、おいしいものを食べています。
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副題10、『坂東真砂子さんを思い出した、上で、ブリキ男の、安保闘争時代を読み返してみれば』
前報で、私は、坂東真砂子さんの、死去に当たって、彼女の傲慢極まりない、フリーセックス宣言を思い出していて、それは駄目だと言っています。真砂子さんは、女性だから、際立って目立ったのですが、秋山祐徳太子氏も、フリーセックスの快楽を得意げ(?)に語っています。
樺美智子さんが、亡なくなった頃も、氏はあの国会議事堂内のもみくちゃの中に居たそうです。そして、その日以外は、セックス三昧だったとも書いています。
そして、ご本人が「別に思想なんてなかった」というような言葉を吐いています。そして、今でも、別に政治的な役割を果たしているとは思えません。特に国民にとって、真実役に立つという意味での政治的役割を果たしているとは、とても思えません。
一方で、貧しいもの達の見方らしい、鈴木達夫弁護士のコメントをニュースの中で、一切流さないNHKとは、本当に恐ろしいと言うか、何と言うか?
そして、『誠実な人間が、損をする現代の日本だなあ』という事を、つくづくと感じるのです。いいかげんな人間が表舞台に立って、日本人のまじめさをあざ笑う事によって、影で得をする真実の支配者がいるという事です。そう言う真実の支配者に、すがって生きれば、気楽でしょうね。だから、安心してコントを演じて、らくらく生きて行かれる。そう言う人生なのですね。秋山祐徳太子さんの人生って。
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副題11、『晶文社、PHP、大和書房、・・・・・・ちょっと下がって、幻冬舎』
私はいまだ社会的には無名の人です。その上、71歳になってしまったので、これから先にブレイクの見込みはないでしょう。だが、1980年以来、瀬島龍三が、私のバックにいて、そこに成岡庸司君などが、加わり、ありと、あらゆる心理操作的弾圧が裏から行われていたと、感じています。それは、北久里浜における横須賀市の水道山のただ取りを目撃しているからこそ、いじめられているのですが・・・・・
そのいじめ用策の中に、私のパソコンへのハッキングがあります。私は、フォルダー名に、出版社の冠名をつけておいたものを、7つぐらい作っていて、自分のエッセイを将来、そう言う名前の出版社から、出版してもらおうと、一つが、3000字から、5000時までのエッセイを書いては、曽野フォルダーへ分類していました。2002年ごろからです。
その弾圧ですが、心理的な脅かし策を用いられます。私のパソコンに、自分で入れた筈のないものが入っていた事があります。それは、連絡のあった男性編集者との、メールが、元来は、白地で、黒のフォントを使って左寄せで、書いたものですが、背景色が、ピンクになって、しかも、中央ぞろえ形式に変換されて、パソコンのデスクトップに入り込んでいました。
しかも、それを、開いた覚えもないのに、それが、買い物から帰ると、開いているという具合で脅かされました。買い物に行く前には、きちんと、ノートパソコンの電源を落とし、ふたを閉めていくのですが、帰宅すると、数ミリほど、ふたの間が開いていて、光が漏れているので、びっくりして、ノートパソコンを開くと、画面の真ん中に、背景がピンク色で制作をされた某編集者とのやり取りが浮かんでいるという具合でした。
これが、技術的にどうしてできるかと言うと、ME時代、および、98時代のノートパソコンには、ふたを閉めると、自動的に、スリープ状態になるという機能がなかったので、外側から、強制的に、電源を入れる事で、ふたが閉まっていても、光が、外へ漏れるという形で、私が気がつき、それで、びっくりして脅かされるという事でしょう。それが目的で行われた策でしょう。種は違うものが使われましたが、自動的に電源が入っていて、ワードの文章が画面いっぱいに広がっていると言う現象は、2.3回ありました。これは、2007年より前の出来事だったと思います。
その上、真夜中に電話のワン切りがあり、電源を落としている、プリンターに、急に電源が入って、カタカタなるという現象もありました。こちらの方は、2007年の4月より後で、起こった事で1週間に三度ぐらいおきて、数年は、続きました。
どうして、こう言う不思議な現象を起こす事ができるかと言うと、日経新聞が、いろいろ、教えてくれたので、判ったのですが、50m離れていても、ある他人のパソコンを、支配できるそうです。いまだと、そう言う記事が出ていても、忙しすぎて、気がつかないと思いますが、当時はちゃんと、新聞を読んでいたので、気がつきました。
で、読むはずの日経新聞にIT的な発見を入れ込んで、あたかもそれが、世界中で行われているかのごとく、思わせたのですが、私個人を狙い撃ちしたものだったと思っています。
日経の経済面にあった、その手の記事には、嘘のものもあったと思います。たとえば、交流電源コードを壁のコンセントへ、つなぐだけで、インターネットができると、言う話などは、嘘であって、別方向から、空中を漂ってきている電磁波で、支配するのでしょうが、私への個人的な攻撃が、ばれない様にするために、嘘の経済ニュースを流したのだと思います。
こう言うケースは、我が家の南側が山なので、そこに支配用大型ルーターを隠し置いてもいいですし、また、50m離れたお宅のうち、2軒には、大型ルーターなどをおく事ができる、特別な条件がありますので、2005年ごろから、そう言う事は始まっていたと思います。
で、私が、ノートパソコンのデスクトップ画面にフォルダーを作って、その出版社名をフォルダーにつけておいた出版社は軒並み、攻撃用に使われました。出版記念会館に行くと、大和書房お席と、して、会議室前に、看板が出ているし、大和書房の社長さんが、新聞で、大きな形でインタビューを受けるし・・・・・大和書房に、出版した本を献呈本として届けに行くと、刑事らしい人物がまっていたり・・・・・
PHPは、榊原節子さんの、『凜として生きる』を出版しています。この書物が、2010年の1月と、2012年の6月に、大きないじめ策としても使われましたし。そして、この秋山祐徳太子氏の『ブリキ男』・・・・晶文社です。なるほどねえ。とおもいました。
そして、私が伝説のプレスと言う本を準備中に、筑摩書房から、山本冬彦氏の、画廊めぐりの新書が出ました。『なるほどねえ』と思いました。で、私は大きな出版社で、出版してもらう事とをあきらめてしまいました。だから、敵さんは、勝った。勝ったと、大喜びをしていて、自分達のいじめ作戦は、正しかったと思っていると思います。
で、私の方はどう思っているかと言うと、あきらめる部分も有るが、できる事だけは、一生懸命やるという姿勢です。2007年以降どれほど、がんばったか。・・・・・鬼神のごとくです。信じられないぐらいがんばりました。そして、自分のできる範囲の事だけを、やっていても、それなりに、成果も上がっております。しかし、そのいい方向の達成を、言うと、そこを邪魔されますので、詳細は語りません。人間世界の事も、市前回の事と同じく、『すべては、バランスが取れているのだ。私だけが、一方的に負けっぱなしと言うことはありえない』と、申し上げるだけにさせておいてくださいませ。
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副題12、『自殺したと推察される、友達のパソコンを、ひどい形で、いじって、苦悩を与えたのは、誰かな?』
私のお友達に、ご主人が社長をしている友達がいました。三田会の某支部所属だと言えば、kらいが判るでしょう。イケメンで、社長です。申し分のない形の結婚相手です。だが、裏側は、女にだらしないところのある男性であって、友人は苦労しぬきました。その苦労のひとつに、ITを使った彼女に対するいじめもありました。
その詳細を語る前の前置きとして、語らないといけないのは、長電話が女子会に勝る働きをするという現象です。私は、1998年の12月から、2002年の、8月ごろまで、逗子で、一人暮らしをしていました。夜は、自由自在です。「結婚後、はじめて自由を得た」と思いました。
読者の皆様には、「ぜひ、離婚をしないように」と勧めていますが、実は結婚生活には、いろいろな、しばりがあります。当たり前ですが、行動への制限がいっぱいあります。そのひとつが、長電話ができない事でした。主人は、私が電話を使うことを、ひどく嫌がっていました。
また、私は無防備な性格なので、ともかく、電話が長くなりがちです。相手も話し込む。私も話し込む。活発な精神を持ち、感受性も大きいから、私と話していると、皆、面白いのですね。
そして、その一人暮らしの時期に、結婚以来はじめて、電話で、自由に時間制限なく、話したことが、人生勉強になった事も確かなのです。
ところで、長電話から学んだ事として、多量のケースがあるのですが、
今日のお話もそのひとつです。
今日の登場人物を仮の名を、AA野A子さんとしておきます。ある日彼女から、極く気さくな感じで、「ねえ、千恵子ちゃん、同伴の席には、何を着て行ったらいいかしら?」と言う相談を受けました。
同伴と言うのは、キャバレーや、バーなどのピンク産業のホステスと、一晩遊ぼうとするつもりがある事に起きる現象です。男性側が、すでに、上得意客の一人として、出勤前のホステスと、夕食を一緒にして、それから、キャバレーもしくは、バーに向かうという制度です。テレビドラマでは見た事がありますが、内の主人は、そう言う場所には出入りしないタイプなので、現実には、その言葉を、その時、A子ちゃんからもらった時より、前には、使った事はありません。
で、なんだか、狐につままれた様な、気分で、あれこれを聞いていると、ご「主人は遊び人で、しかもお金はあるし持てるわで、今まで、何度、浮気をされたか、数知れないのだけれど、今度はどうも本気らしい。で、とても困るわ。その相手がね。今度、同伴の席にいらっしゃいと言うのよ。千恵子ちゃん、何を着て行ったらいいかしら?」と言うのです。
私は、度肝を抜かれながらも、「A子ちゃん、あなたの方は、質のよいものを着なくちゃあ駄目。高島屋の二階で、いいものを買いなさい」と答えたのですが、いったん電話を切った後で、『これはまずい』と思い直して「絶対に行っては駄目よ」と、言い直したのです。だって、食後どうしますか。愛人とご主人はキャバレーに向かうのでしょう。彼女もそこへ乗り込むのでしょうか? キャバレー中のホステスからいじめられるでしょうに。キャバレーまで、行かないとしても、レストランの入り口で、右と左に分かれるのだから、嫌な思いをするでしょうに。だが、納得して、行かないで、くれたかどうかが、判らないのです。
こう言うことの繰り返しが、何度もあった挙句、数年後の秋に、「グァムへ愛人と主人が、行くのだけれど、ついて行った方がいいかしら。姑の見舞いをしないといけないから、それを優先すべきかしら」と言う電話に、1時間半ほど、鎌倉の自宅で昼間・・・・・・・・・(主人がいないので、対応が可能だったのですが、本当は夜に不安が亢進するので、グァム旅行にご主人が行っている間、追いかけていっても修羅場だっただろうし、行かないで、自宅で待っていても、夜が不安でたまらなかったと思います)・・・・・・・・・付き合った後で、かの女は割腹自殺を遂げたらしいのです。たった40日後にご主人名義で、年賀欠礼のはがきが来て、そこに一行目立たない形で、AA野A子が、逝去したので、書いてありました。死因は腹膜炎とあり。
最初は、妻とも言う添え字もなかったので、入院中だと聞いていたお姑さんが、亡くなったのでしょうと、気楽に視ていたのですが、カッコ内に、享年59歳とあって、仰天をしたのです。私自身の友達が、腹膜炎で、亡くなっていたのです。見舞い来いとも、葬式がありますともいわれないままに。
ご主人は、三田会某地方支部、およびロータリー倶楽部某地方支部所属の有名人ですよ。奥様の葬儀を行わないと言うことは、普通はないです。私の驚きは大きかったです。涙がぽたぽたと、その年賀欠礼の上に落ちると、インクが滲み出してきました。何と言うこと、それは、単にパソコンで、作り上げた、シンプルなもので、ただ、私目当てに作り上げられたものだと言うこともわかりました。
で、自殺だと直感をしました。これは、10年ぐらい前であって、社会的に、しかるべきレベルの家で、奥さんの葬儀を家族だけで、行う習慣は、まだない時代でしたし。彼女はきっと、私宛の遺書を残していて、「千恵子ちゃん、私のケースを書いてね」と、頼んでいたと思います。電話でもそれは、頼まれていました。だけど、お子さんのことを考えると、詳細を書く事はできません。
逗子にいた頃は、本当に頻繁に相談に乗って、真夜中に、4時間も連続して語ったことはあります。ご主人が泊りがけで、いないときは、彼女は不安でたまらないのです。
それからですが、なにを、どう話しても、彼女側のご主人に対する執着が取れないので、専門家(カウンセラー)にかかることも勧めました。
と言うのも、ご主人は、社会的な、体面上、離婚する気はないのです。だけど、心も体も、元OLだという、その15歳程度年下の女性に奪われてしまっている状態でした。でも、一方で、妻ともセックスをしていたのです。
こう言う際は、彼女の方が一時的に、他の分野に逃げないと駄目なのですが、書道がすきでも、書道に集中することができないらしくて、にっちも、さっちも行かない状況でした。
あるときの、彼女の訴えによると、パソコンのフォルダーに問題があるそうです。これは、MEの時代の話で、一家に一台あるパソコンには、使う人固有のセキュリティキーは、まだなかった時代だったでしょう。または、彼女が気になって、セキュリティキーをはずして、ご主人側の画面を見たのか?
そこには、彼女にとって、大変嫌なフォルダーがあったそうです。フォルダー名が、ご主人のイニシャルと、愛人のイニシャルに連合体になっているそうです。それは、彼女のご主人だったら、やりそうなことではありました。真綿で首を絞めるようないじめをやるタイプではありました。
その時までに相談をうけた具体的なエピソードを積み重ねると、ご主人と愛人はタッグマッチを組んで、奥さんをノイローゼにしようと謀っているのは、確かであり、その事は、私とA子ちゃんの間では、共通の認識でもありました。
で、私はそれを聞いて、『うわあー、嫌な話ねえ』と、ひとしきり、彼女と同じペースで、ご主人を、批判しながら、最後には、また、「今は、ご主人を放っておいて、新しい世界を切り開きなさい」と、言うしかなかったのです。離婚をするつもりは、ないそうですから。
で、ここなんですが、フェイスブックを始めてから、『あれ、あの嫌がらせって、もしかするとご主人ではなかったかも知れない』と、思い至るようになったのです。
私への弾圧も、常にそれを言う様に、・・・・ノイローゼにさせて、病院へ入れてしまおう。そう言う形で、書けない様にしてやろう・・・・と言う形式です。
その上、フェイスブックをやっているときに、瓜南直子さんと、金田佑子さんが、タッグマッチを組んで、嫌がらせの限りを尽くしてきて、『恋のうぐいすから』と言う、2011年秋、には、この日本では、一本も売っていない銘柄の日本酒を、画面に固定化してあったのでした。フェイスブックをおやりになっている方は、気がついていらっしゃると思いますが、フェイスブックの画面とは、ものすごいスピードで、動いていきます。フリーズしたまま、動かないと言うのが変なのです。
それと、そっくりなケースで、榊原節子さんのフェイスブック内の個人頁が、私のパソコン画面に起動をした途端に、現れて、ずっと、フリーズして動かなくなったことなどもあります。それらを勘案すると、彼ら敵さんたちのやることが、すべて、共通するルーティンがあることがわかります。心理的にいじめると言うルーティンです。
でね、私のパソコンではなくて、彼女宅のパソコンの事なので、正確な判断ができないのですが、フォルダー名として、ご主人と、愛人の連名のイニシャルがついていたと言うのも、もしかすると、私の敵さんたちがやった事なのかも知れないのです。
で、そこから、秋山祐徳太子氏の本が、晶文社から出版されたこともなるほどねと思っているわけです。IT的な技術を使った脅かしを受け続けているので、そう言う風にも感じます。
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副題13、『苦難に見舞われている人へ申し上げたい。解決するのは、自分しかないのです』
でね。ここで、わき道に入ります。苦難を抱えている人に申し上げたい。すべての苦難を解決するのは、自分自身しかないのです。子供だったら、親子で、自分達だけで、解決するほかはないのです。
副題12にあげたケースですが、昔、『ピンクのヘルメット』と言うのがありました。浮気をする男性の職場に、ピンクのヘルメットをかぶった女性が、40人ぐらい押しかけて騒ぐという形で、男性を懲らしめるという集団です。AA野A子さんから、相談を受けたときに、すでに、ピンクのヘルメットはなくなっていましたけれど、代わりに、私がご主人の会社に乗り込んで、ご主人を説得する? 社員や、取引先に評判が伝わって、ご主人が恥ずかしい思いをするかな?
それが、ご主人に対する懲らしめになるかな?
それをやったと仮定して、その結果どうなります? 彼女が最大に望んでいる、自分だけを、愛してほしいという希望がかなえられますか? 無理でしょう。そんな事は、A子ちゃんにもわかっているし、私にもわかっています。だから、悩んでいるあなたの変わりに誰かが、それを解決してくれるのは無理です。必殺仕置き人とか、言うドラマがありましたが、あれは、完璧にフィクションであり、悩んでいる人に、代わりに解決してくれる人は、いません。
そこは、覚悟を決めたほうがよいのです。
これは、中学校社会で、子供がいじめられている親子にも申し上げたい事です。警察に訴えても駄目でしょう。24時間警察官に傍にいてもらえるわけでもないです。ストーカー被害も同じですね。ただ、ひたすら自分達だけで、戦うしかないのです。いじめなら、転向すれば言いし、その時に、親子関係も見直したらいいのです。車を持っていたら、手放し、自宅はともかく、そのまま放っておいて・・・・・または、貸して・・・・・・家賃を払って、数年間違う学区に引っ越すでいいです。
その自分達だけでの戦い方ですが、3つあります。
もし、相手を怒らせているポイントがあるのなら、そこは、誠実のきわみをもって謝罪をしておく。ホメロスの有名な史劇、イーリアスの冒頭は、『メネラーオス王の怒りを鎮めよ』だったと思う。相手の怒りを解いておくのが根本的な解決方法です。・・・・・ただ、このケースだけは、私には当てはまりません。だって、私は先制攻撃をしたことはないのですから。
次に、果てしない修羅場から、いったん逃れてみる。それは、友達であるAA野A子さんにも何回となく長電話の中で勧めました。別の事に心を移しなさいと。
たとえば、この章で言っていることで、私に関係する事は、『有名な出版社で、書物を出したから、僕が勝っていますね。あんたなんか、何するものぞ』と、秋山祐徳太子氏が言っているわけで、それに対して、どう反応するかですが、私は大手出版社から、本を出すことをあきらめているのです。それが、逃げですね。
で、相手方は作戦が成功したと、ウハウハニなっていて、次から次へと、新しい・いやみ策を、企てています。と成ると、こちら、が、一方的に負けとなります。
そこをどうするのかです。
被害が大きいなら、戦うしかないのだ。・・・・・と成ります。ただし、どういう形で、戦うか、シュミレーションをして見るとか、将来への見通しを持っていないと、消耗しきってしまいます。自滅してしまいます。
でね、「楽しみも見つけないと駄目ですよ。 逃げないで、戦うと決めた時でも、ある種の楽しみを見つけないと駄目ですよ」といって置きましょう。これこそ、老人としての経験上、私にしても、いえる事です。いや、私は全然と言ってよいほど、遊んで来なかった人間だから、こう言う事を言うのは、とても、珍しいのですよ。
どうして、こう言うことを言うかと言うと、社交生活を一切やってこなかったので、人的コネがないわけです。で、損をしているわけですが、一方で、実力を蓄えているのです。それを言っちゃあおしまいだが、実力は蓄えているのです。だから、何事に直面しても、何とかなるさと言う安心感が今あるのです。で、少しぐらい当面の問題を放っておいて、遊んでも大丈夫と言う意識もあるのです。マルはニチロの農薬混入問題も、ボーイング787の発煙問題も、続きを書いていませんが、大丈夫、いつかは書けますねと、安心しきっているのです。
そこまで到達するには、一人で、戦う毎日を積み重ねないと駄目です。悟りって、修行の果てに来るものです。で、それたわき道から元へ戻ります。
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副題14、『ライカ同盟、から、秋山祐徳太子氏は、赤瀬川原平氏と結びついているのですね』
上に上げた、晶文社刊の『ブリキ男』を読んだときに、秋山さんが、ライカ(ドイツ製のカメラとして有名)を使うのが好きで、それが赤瀬川原平と共通するので、二人で、ライカ同盟と言うのを結んでいると、言う記述があります。武蔵野美大出身と言うことも共通しますしね。
ここらあたりが、秋山祐徳太子の本音と言うか、最もいい部分が出ているところでしょう。安保反対闘争に明け暮れていて、女の子と、フリーセックスやり放題だったというあたりの記述は、ご本人はそれで、自信を得たのでしょうが、私なんかが読むと、『うわ、嫌だわ。この人って、やはり、たがが外れている。信頼できない』となるところですが、ライカが好きで、その縁で、赤瀬川さんと、結びついているという部分の記述は、受け入れ易いところです。
しかし、そこから、またも、とんでもないところへ、私の文章は発展をするのですよ。
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副題15、『赤瀬川さんについて、私が知っていたこと』
私は一時期婦人公論を読んでいたのです。妹に言わせると、『アンナにしんどい雑誌、見るのも嫌だわ』となる雑誌であって、不倫や、恋愛に関するいわゆる実録ものが売りのところがある雑誌なのですが、私もやがて、妹の言うとおりになって来て、そこは抜かすという事になりました。で、主に読んだのが小説です。私が読んでいた当時は、宮尾登美子と、尾辻克彦の二本立てだったと思います。
宮尾登美子は、当時、直木賞受賞前で、高知モノを展開していた時期です。だから、登場人物が、派手で、ねとねとした小説群です。
一方の尾辻克彦モノは、地味です。お若い方はご存知かなあ。赤瀬川原平さんは、文章を書くときに、尾辻克彦名だったのですよ。
その時に、赤瀬川原平としての、作品の事は一切知らず、ただ、尾辻克彦として、それを読んでいたのですが、チチヤス(ヤクルトに似た飲み物で、お嬢さんが好きなので、お嬢さんの別名とも成っている)に、新しいお母さんが来たところあたりでした。
で、尾辻克彦の小説は、嫌いではないのですが、私が思ったことは『我が家では、二人子供がいる。二人は、ピーちく、パーちく、よく夕食時に話し合うから、それだけでも、子供として、一人っ子のチチヤスよりはm幸せだなあ。まあ、平凡な家だけど、平凡だからこその幸せであることよ』と言うものです。
一人っ子は大変です。その上、お母さんと、お父さんが離婚をしてしまって、新しいお母さんが来たという、チチヤスの世界へ、いろいろと、想像をめぐらせましたよ。そう言う方向へ読者をいざなうと言う意味では、尾辻克彦の小説は、上等だったと思います。
年齢としては、お嬢さんが、8才から、9歳へかけての頃だったと思います。
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ところで、ここで、読者の皆様に、お許しをいただきたいのですが、二万字制限がかかってしまいました。で、初稿の段階では、この後、副題16と言う一章が加わっていて、そこに重要なことが書いてあったのですが、それを後ろというか、別の章へまわします。恐れ入りますが、そうさせて下さいませ。
なお、このブログの2010年より数えはじめた、伸べ訪問回数は、2010378です。
この文章は、2014年1月28日の夜に書き始め、31日に入って、更新時間を変更して、公開する。2月1日の夜6時までに、推敲を終わる。で、署名を入れる。
雨宮舜 (本名、川崎 千恵子)
(後注2)