『田原総一郎氏の分析をします』と、言ったまま、続報を書かないでいて、申し訳ございません。実は母が死亡して、早、一年になり、明日法事をします。それで、準備があり、おそれ入りますが、長いものを書いていることができません。それで、私の文章としては、前後の連絡のない独立したもので、かつ人様の創作に乗っかった、やや、楽なものを提示して、誠に申し訳ございませんが、本日はこの一文で、アップロードをお許しいただきたいと存じます。
副題1、『母よ。なぜ捨てた』という番組を推薦します。
副題2、『番組を見終わった後の感想』
・・・・その青年の前途の幸せを祈ります・・・・
副題3、『テレビ取材の裏側』
副題4、『創作と良心のはざまでは、葛藤をどうするのか?
・・・・・オーギュスト・ロダンと、カミーユ・クローデル・・・・・』
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副題1、『母よ。なぜ捨てた』という番組を推薦します。
ご紹介の時間が遅くなってしまいました。が、本日(11-10-9)、フジテレビで、放映される、ノンフィクション劇場、『母よ、なぜ捨てた』は、見物らしいですよ。
一種の家庭崩壊ものです。気の毒な息子さんが、主人公らしいです。
ただ、私はいいたいです。「取材に応じてよかったですね。それに、よって、自らの、精神的な、確立が助けられているでしょう」と。ぎりぎりの不幸にあっている人は、格別な方法で救われるのです。
荻原葉子さんも、母に捨てられた記憶があり、叔母の家で、不幸な少女時代を送ります。それが、『いらくさの家』という小説に結実しています。
その後で、名誉、お金も、得た、荻原さんは、母を捜し出し、引き取るのですが、しかし、簡単ではなくて、とても、くるしみましたよ、・・・・・うんぬんと続くのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~
心理学的に言っても、社会学的に言っても、そのフジテレビの、今日の番組は重いと思います。
でも、この社会の中で、不幸な人をそのまま、うち捨てておいて、も、私たちは幸せにはなれないのです。
全部、同じ歩調で歩む必要はないが、ある特殊な例は、社会の、象徴でもあるから、そこを無視して進んではだめなのですね。
この社会全体を、明るくしないとだめなのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~
副題2、『番組を見終わった後の感想』
・・・・その青年の前途の幸せを祈ります・・・・
先ほど、皆様におせっかいにも、「ご覧になったらいかがでしょう」とお勧めした、番組が終わりました。一応、今のところは、よいところに着地していて、その点で、ほっとしています。
まず、非常に多くの問題を抱えていたお母さんですが、アルコール依存症を克服しつつあるところです。
その理由は、とても、優しい男性に拾われた(?)という形で、そちらの愛を十分にうけているからの、模様です。愛は偉大です。
このお母さんが、こんなに、ごたごたしてしまったのも、最初の結婚で、何らかの不満を持った可能性はあります。
ともかく、パートナーシップを組むときに愛情は非常に重要です。 女性が求めるものが、若いうちは、社会的ランクだったり、収入だったりしがちなのですが、本当に大切なものは、誠実さとか、愛情の深さだとわかります。若いうちは、男女とも、その事実に気が付かないのです。愛情というと、恋愛関係のものをすぐ思い浮かべ、はしかのような、セックスの側面で満たされるものへと、傾倒しがちですが、愛情といっても、その種のものではないものをさします。
犬や猫を飼っている方はお分かりだと思いますが、ペット好きな方が、示しているようなものがあるでしょう。特に猫好きな人の愛情みたいなものですね。ネコは役に立ちません。用事を代行してやってくれるわけでもないし、犬のように狩りのお供をしてくれるわけでもありません。でも、目の前に捨て猫がいたら、拾うでしょう。
あ、ここで、ちょっとお断りをしますが、私は家に、一匹の猫がすでにいるときは捨て猫も、残念ながら看過します。新しいのを飼ってしまうと、必ず、前の猫が悲しみますから。新しい方がたいてい若くて、しかも慣れようと必死なので、ついつい、家族の関心がそちらに向くので、前からいるペットの方が、ストレスを感じるのです。見捨てられたように思うのです。で、一匹主義ですが・・・・
人間も同じで、ある人と一緒に暮らすというのは、それなりに、エネルギーやお金が必要です。
それは、息子さんたちだって、同じで、長らく別れていて、しかも、アルコール依存症にかかっているお母さんとの同居は非常に大変でした。予想通りには、いきません。だからこそ、問題のあるお母さんを引き受けてくれた、愛情ある男性の存在は大きいのです。たまたま、AOLのトップ頁で、80歳を超えた、伯爵夫人が、3000億円以上の財産を、すべて、生前贈与で、子供に渡したうえで、新しい25歳下の夫(しかし、資産家ではない)と結婚したというニュースに接しましたが、そちらの旦那さんは、見事な美形です。
が、お金も名誉もない庶民だったら、見かけよりも愛情を持っている人とカップルになるのが一番です。
今日の番組の困ったお母さんと同居し、老後を引き受けてくれた男性は、素晴らしい人ですが、お互いに、気もちの弱いというか、優しいところが惹かれあったようです。よかった、よかった、めでたし、めでたしです。
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副題3、『テレビ取材の裏側』
ところで、フジテレビは、その青年を、15歳の時からずっと、追いかけている模様です。途中で、非常に気の毒な時期がありました。
でも、今、その青年は、しっかりした大人の顔となり、仕事上も責任を持つ立場になっていっているそうです。途中で通った定時制高校の卒業がどうなったかはわかりませんが、仕事上必要な知識を習得するだけの国語力とか、数学力はいずれマスターできていくでしょう。
よかった、よかったです。
が、ここで、テレビの裏側について、言及したいと思います。この青年はテレビに取材されることによって、大きく救われましたが、その幸運を引き寄せたのは、彼の美貌にあると思われました。で、テレビ的には絵になる素材ということなのでしょう。
でも、こういう題材を取材する途中ではスタッフがずいぶんつらい思いをするのだと思います。
よく海外を取材した番組があります。あれを見ていて、これは、事前に連絡を取っている半分やらせであろうと思う時が数々あって、その謝礼をどうしているのだろうかと、夫婦で話し合ったりします。アジア圏とかアフリカ圏にある、いわゆる後進国だと、貨幣価値の違いから、取材費から、潤沢な謝礼を出すことができるでしょう。だから、主人公やら、その家族の旅費や、服飾費を出してあげているなと見え見えに、わかるケースも多いです。
そこを、どの程度視聴者に知らせるかは、さじ加減ひとつですが、時々、見ていて、「これでは、こちらが、ひどく、こ馬鹿にされているわ」と思う時があります。
でも、海外取材であって、一過性のケースはまだいいんです。
今回の、ザ・ノンフィクションのように長期にわたる取材をしているときの問題点を、つい想像するのですが。今回も途中で、主人公と、その兄や母が、苦境に陥っているときがあります。そのあたり、『スタッフ側が、どう考えるのかな』と思って、そこに興味があります。
お金をあげたり、お母さんに生活保護費が下るようにお世話をしたり、または、アルコール依存症を治すために、入院を勧めるとかが、そばにいて、苦境を知っている人間の、任務だと思います。が、そこを、この番組の製作スタッフは、どう、切り抜けているのか? そこに、興味がわきました。
いつも、こちら側はクールで、相手を取材対象として、みなしているのか?
ぎりぎりのバランスのところで、プロとして、手を引いているのか?
客観的に、取材対象としてだけ、付き合うのか? 非常に難しいと思います。この間、NHKBSで、椎葉村の焼畑農業の紹介がありました。ああいうケースですと、問題がきれいであって、被・撮影者も、気の毒なところのないケースなので、悩みはないと思いますが・・・・・・
しかし、対象者が今回のように困難に見舞われているときにどうするのか? このフジテレビの、ザ・ノンフィクションは、良心的に、そういう難しい取材対象に迫っているわけですが、取材がわ・ご自身のストレスや、負担は、どうなっているのだろうか?
もちろん、*1、慣れとか*2、集団で制作をしているということの、分担の雰囲気に救われているとは思います。
だけど、時々ですが、テレビや芸能の世界で、自殺をしたりする人があると、同情・おくあたわずと、いう感じを受けます。
それから、週刊誌で、『この人は消えちゃったけれど、ノイローゼではないかな?』なんていう記事を見つけると、その場合も、深く、同情します。
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副題4、『創作と良心のはざまでは、葛藤をどうするのか?
・・・・・オーギュスト・ロダンと、カミーユ・クローデル・・・・・』
テレビ番組という最もわかりやすいものを作る場合は、この創作と良心のはざまというのが、厳しく問われると思います。その次に問われるのが、文章を書く場合で、特にノンフィクションの分野で書く場合だと思います。
で、私なんかの場合ですが、徐々に権利を拡張していっているというか、より難しいことを書くことに、薄紙をはがす(その反対で、積み重ねる)みたいに、少しずつ、難しい対象へ向かっていくわけですが、その間に、良心の葛藤なんて、もちろんのこと、味わいます。
でも、客観的に言えば、才能は美術の世界にあるといわれています。で、美術の世界で創作をしているときは、比較的、こういう問題で、刃を突きつけられることが少ないのですが・・・・・・
でもね、他者を観察したときに、もっとも心痛む存在は、カミーユ・クローデルです。彼女の生涯は、ごく最近知りましたが、それを知らないころから、ロダンの作品を見るたびに、「ロダンは、実は、人間たちを、ペットのごとくみなして、飼っていたのではないか」としばしば思う時がありました。
私は人間はすべて対等であるという考えを持っています。が、上に使った飼うという発想の中には、対等ではない、ものが含まれます。自分よりよわいものとして、利用するという雰囲気が含まれます。
美術の世界では、もともと、モデルというものが存在していたので、ロダンが、その側面で批判を受けることはありません。中学の教科書にも、高校の教科書にも堂々と、それは、載っています。
しかし、私は、子供のころから、ロダンの作品を見るたびに、そこが引っかかって、ロダンが、恐ろしかったのです。
カミーユの存在を知ってから、ますます、それは、深くなりました。しかし、wikipedia などによりますと、ロダンも姉の死あたり(=若いころ)では、相当に悩んでいたおようですから、人間が擦れてきたというか、図太くなってきたというか、権利拡張をしてきて、ああなってきたのかもしれません。
それと、非常に下世話な解釈ですが、女性として、どういうタイプを選ぶかは、大きくその男性を決定づけるとも思いますね。
ロダンは、結局のところ、マネージャー的な感覚の強い、ローザを選びます。
芸術家の要素の濃い、カミーユの方は、長時間一緒にいると疲れるとか、いろいろあったでしょうし。
日本語で、いうのに、あげまんとか、さげまんという言葉があります。下品な言葉ですが、男性の創作家は、結局のところ、マネージャーの要素の濃い女性を選んだ方が長続きをするというか、自分を大きくするのには、役立つと思います。
女性の創作家は、あんまり、そういう計算をしません。まず、創作をしながら生きていくこと自体がとても、大変だから、ひたすら突き進むこととなります。
... そのような存在の極端な例として、カミーユ・クローデルを考えると、彼女を愛しく思い、気の毒に思う気持ちが、極まります。
『まあ、人間の世界なんて、矛盾がいっぱいだなあ』と、思うばかりです。
では、フジテレビの良心的な、番組を見て、ふと、抱いた随想は、ここで、終わります。
では、2011年、10月9日 雨宮舜(川崎 千恵子)
副題1、『母よ。なぜ捨てた』という番組を推薦します。
副題2、『番組を見終わった後の感想』
・・・・その青年の前途の幸せを祈ります・・・・
副題3、『テレビ取材の裏側』
副題4、『創作と良心のはざまでは、葛藤をどうするのか?
・・・・・オーギュスト・ロダンと、カミーユ・クローデル・・・・・』
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副題1、『母よ。なぜ捨てた』という番組を推薦します。
ご紹介の時間が遅くなってしまいました。が、本日(11-10-9)、フジテレビで、放映される、ノンフィクション劇場、『母よ、なぜ捨てた』は、見物らしいですよ。
一種の家庭崩壊ものです。気の毒な息子さんが、主人公らしいです。
ただ、私はいいたいです。「取材に応じてよかったですね。それに、よって、自らの、精神的な、確立が助けられているでしょう」と。ぎりぎりの不幸にあっている人は、格別な方法で救われるのです。
荻原葉子さんも、母に捨てられた記憶があり、叔母の家で、不幸な少女時代を送ります。それが、『いらくさの家』という小説に結実しています。
その後で、名誉、お金も、得た、荻原さんは、母を捜し出し、引き取るのですが、しかし、簡単ではなくて、とても、くるしみましたよ、・・・・・うんぬんと続くのです。
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心理学的に言っても、社会学的に言っても、そのフジテレビの、今日の番組は重いと思います。
でも、この社会の中で、不幸な人をそのまま、うち捨てておいて、も、私たちは幸せにはなれないのです。
全部、同じ歩調で歩む必要はないが、ある特殊な例は、社会の、象徴でもあるから、そこを無視して進んではだめなのですね。
この社会全体を、明るくしないとだめなのです。
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副題2、『番組を見終わった後の感想』
・・・・その青年の前途の幸せを祈ります・・・・
先ほど、皆様におせっかいにも、「ご覧になったらいかがでしょう」とお勧めした、番組が終わりました。一応、今のところは、よいところに着地していて、その点で、ほっとしています。
まず、非常に多くの問題を抱えていたお母さんですが、アルコール依存症を克服しつつあるところです。
その理由は、とても、優しい男性に拾われた(?)という形で、そちらの愛を十分にうけているからの、模様です。愛は偉大です。
このお母さんが、こんなに、ごたごたしてしまったのも、最初の結婚で、何らかの不満を持った可能性はあります。
ともかく、パートナーシップを組むときに愛情は非常に重要です。 女性が求めるものが、若いうちは、社会的ランクだったり、収入だったりしがちなのですが、本当に大切なものは、誠実さとか、愛情の深さだとわかります。若いうちは、男女とも、その事実に気が付かないのです。愛情というと、恋愛関係のものをすぐ思い浮かべ、はしかのような、セックスの側面で満たされるものへと、傾倒しがちですが、愛情といっても、その種のものではないものをさします。
犬や猫を飼っている方はお分かりだと思いますが、ペット好きな方が、示しているようなものがあるでしょう。特に猫好きな人の愛情みたいなものですね。ネコは役に立ちません。用事を代行してやってくれるわけでもないし、犬のように狩りのお供をしてくれるわけでもありません。でも、目の前に捨て猫がいたら、拾うでしょう。
あ、ここで、ちょっとお断りをしますが、私は家に、一匹の猫がすでにいるときは捨て猫も、残念ながら看過します。新しいのを飼ってしまうと、必ず、前の猫が悲しみますから。新しい方がたいてい若くて、しかも慣れようと必死なので、ついつい、家族の関心がそちらに向くので、前からいるペットの方が、ストレスを感じるのです。見捨てられたように思うのです。で、一匹主義ですが・・・・
人間も同じで、ある人と一緒に暮らすというのは、それなりに、エネルギーやお金が必要です。
それは、息子さんたちだって、同じで、長らく別れていて、しかも、アルコール依存症にかかっているお母さんとの同居は非常に大変でした。予想通りには、いきません。だからこそ、問題のあるお母さんを引き受けてくれた、愛情ある男性の存在は大きいのです。たまたま、AOLのトップ頁で、80歳を超えた、伯爵夫人が、3000億円以上の財産を、すべて、生前贈与で、子供に渡したうえで、新しい25歳下の夫(しかし、資産家ではない)と結婚したというニュースに接しましたが、そちらの旦那さんは、見事な美形です。
が、お金も名誉もない庶民だったら、見かけよりも愛情を持っている人とカップルになるのが一番です。
今日の番組の困ったお母さんと同居し、老後を引き受けてくれた男性は、素晴らしい人ですが、お互いに、気もちの弱いというか、優しいところが惹かれあったようです。よかった、よかった、めでたし、めでたしです。
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副題3、『テレビ取材の裏側』
ところで、フジテレビは、その青年を、15歳の時からずっと、追いかけている模様です。途中で、非常に気の毒な時期がありました。
でも、今、その青年は、しっかりした大人の顔となり、仕事上も責任を持つ立場になっていっているそうです。途中で通った定時制高校の卒業がどうなったかはわかりませんが、仕事上必要な知識を習得するだけの国語力とか、数学力はいずれマスターできていくでしょう。
よかった、よかったです。
が、ここで、テレビの裏側について、言及したいと思います。この青年はテレビに取材されることによって、大きく救われましたが、その幸運を引き寄せたのは、彼の美貌にあると思われました。で、テレビ的には絵になる素材ということなのでしょう。
でも、こういう題材を取材する途中ではスタッフがずいぶんつらい思いをするのだと思います。
よく海外を取材した番組があります。あれを見ていて、これは、事前に連絡を取っている半分やらせであろうと思う時が数々あって、その謝礼をどうしているのだろうかと、夫婦で話し合ったりします。アジア圏とかアフリカ圏にある、いわゆる後進国だと、貨幣価値の違いから、取材費から、潤沢な謝礼を出すことができるでしょう。だから、主人公やら、その家族の旅費や、服飾費を出してあげているなと見え見えに、わかるケースも多いです。
そこを、どの程度視聴者に知らせるかは、さじ加減ひとつですが、時々、見ていて、「これでは、こちらが、ひどく、こ馬鹿にされているわ」と思う時があります。
でも、海外取材であって、一過性のケースはまだいいんです。
今回の、ザ・ノンフィクションのように長期にわたる取材をしているときの問題点を、つい想像するのですが。今回も途中で、主人公と、その兄や母が、苦境に陥っているときがあります。そのあたり、『スタッフ側が、どう考えるのかな』と思って、そこに興味があります。
お金をあげたり、お母さんに生活保護費が下るようにお世話をしたり、または、アルコール依存症を治すために、入院を勧めるとかが、そばにいて、苦境を知っている人間の、任務だと思います。が、そこを、この番組の製作スタッフは、どう、切り抜けているのか? そこに、興味がわきました。
いつも、こちら側はクールで、相手を取材対象として、みなしているのか?
ぎりぎりのバランスのところで、プロとして、手を引いているのか?
客観的に、取材対象としてだけ、付き合うのか? 非常に難しいと思います。この間、NHKBSで、椎葉村の焼畑農業の紹介がありました。ああいうケースですと、問題がきれいであって、被・撮影者も、気の毒なところのないケースなので、悩みはないと思いますが・・・・・・
しかし、対象者が今回のように困難に見舞われているときにどうするのか? このフジテレビの、ザ・ノンフィクションは、良心的に、そういう難しい取材対象に迫っているわけですが、取材がわ・ご自身のストレスや、負担は、どうなっているのだろうか?
もちろん、*1、慣れとか*2、集団で制作をしているということの、分担の雰囲気に救われているとは思います。
だけど、時々ですが、テレビや芸能の世界で、自殺をしたりする人があると、同情・おくあたわずと、いう感じを受けます。
それから、週刊誌で、『この人は消えちゃったけれど、ノイローゼではないかな?』なんていう記事を見つけると、その場合も、深く、同情します。
~~~~~~~~~~~~~~~
副題4、『創作と良心のはざまでは、葛藤をどうするのか?
・・・・・オーギュスト・ロダンと、カミーユ・クローデル・・・・・』
テレビ番組という最もわかりやすいものを作る場合は、この創作と良心のはざまというのが、厳しく問われると思います。その次に問われるのが、文章を書く場合で、特にノンフィクションの分野で書く場合だと思います。
で、私なんかの場合ですが、徐々に権利を拡張していっているというか、より難しいことを書くことに、薄紙をはがす(その反対で、積み重ねる)みたいに、少しずつ、難しい対象へ向かっていくわけですが、その間に、良心の葛藤なんて、もちろんのこと、味わいます。
でも、客観的に言えば、才能は美術の世界にあるといわれています。で、美術の世界で創作をしているときは、比較的、こういう問題で、刃を突きつけられることが少ないのですが・・・・・・
でもね、他者を観察したときに、もっとも心痛む存在は、カミーユ・クローデルです。彼女の生涯は、ごく最近知りましたが、それを知らないころから、ロダンの作品を見るたびに、「ロダンは、実は、人間たちを、ペットのごとくみなして、飼っていたのではないか」としばしば思う時がありました。
私は人間はすべて対等であるという考えを持っています。が、上に使った飼うという発想の中には、対等ではない、ものが含まれます。自分よりよわいものとして、利用するという雰囲気が含まれます。
美術の世界では、もともと、モデルというものが存在していたので、ロダンが、その側面で批判を受けることはありません。中学の教科書にも、高校の教科書にも堂々と、それは、載っています。
しかし、私は、子供のころから、ロダンの作品を見るたびに、そこが引っかかって、ロダンが、恐ろしかったのです。
カミーユの存在を知ってから、ますます、それは、深くなりました。しかし、wikipedia などによりますと、ロダンも姉の死あたり(=若いころ)では、相当に悩んでいたおようですから、人間が擦れてきたというか、図太くなってきたというか、権利拡張をしてきて、ああなってきたのかもしれません。
それと、非常に下世話な解釈ですが、女性として、どういうタイプを選ぶかは、大きくその男性を決定づけるとも思いますね。
ロダンは、結局のところ、マネージャー的な感覚の強い、ローザを選びます。
芸術家の要素の濃い、カミーユの方は、長時間一緒にいると疲れるとか、いろいろあったでしょうし。
日本語で、いうのに、あげまんとか、さげまんという言葉があります。下品な言葉ですが、男性の創作家は、結局のところ、マネージャーの要素の濃い女性を選んだ方が長続きをするというか、自分を大きくするのには、役立つと思います。
女性の創作家は、あんまり、そういう計算をしません。まず、創作をしながら生きていくこと自体がとても、大変だから、ひたすら突き進むこととなります。
... そのような存在の極端な例として、カミーユ・クローデルを考えると、彼女を愛しく思い、気の毒に思う気持ちが、極まります。
『まあ、人間の世界なんて、矛盾がいっぱいだなあ』と、思うばかりです。
では、フジテレビの良心的な、番組を見て、ふと、抱いた随想は、ここで、終わります。
では、2011年、10月9日 雨宮舜(川崎 千恵子)