前報に補遺があります。ご返礼が5千円の図書券だと書いたのは、『金額がちがいますよ』というご注意がありました。そうですね。五千円では多すぎます。図書券の印を勘違いしていました。それから、高木きよ子先生(文学博士)の業績について何も述べておりません。自分との関係だけは詳しく述べていますが。そこはごめんなさい。
一般的にわかりやすい著書としては、「八人の女帝」という日本史の本が、あります。が、それについて、あれこれ書くと、どうも、愛子様の女帝問題へ差し掛かりそうなので、わざとそれへの言及を避けました。愛子様の女帝問題については、意見を言いたくないものですから。意見はもちろんあるのですが、今のところ、国民の大勢がどういう流れになるかが判らないので。そこら辺はこの私でさえ、慎重です。
それから、高木先生にとっては、人生の最大の不条理であったであろう大洋丸事件について、有為の青年殺しの可能性を感じています。特に先生のご主人と専攻科で同級生であった斉藤敏江さんのご主人のお二人とも犠牲になっているのが、十分以上に、疑問を喚起させます。つまり、専攻科というのは、全部で百人にも満たないのですが、その当時では日本の最上級エリート層だったと思いますので、お見合い結婚の盛んなあの時代では、そういう女性の夫たちもまたエリートだったわけでしょう。
どうして、それらの有望な青年が一網打尽のごとくに命を奪われたかが問題なのです。アメリカ・グレナディア号の魚雷攻撃で非軍事用船(商船というか、客船)が沈み、死んでしまったわけですが、当時から日本人の中に、フリーメーソンの会員がいて、有為の青年たちに中国視察などを提言して、彼らを集中的に集めて船に乗せて、轟沈させれば、国家としては人材が一挙に奪われるわけですね。
これは、安保反対闘争とか、学生運動とか、三里塚闘争とか、現代のリンチ殺人事件の多発とかで、繰り返されているまじめな青年を、発掘してどんどん、抹殺して行く仕組みと同じです。一見すると自然に起きた運動のように見えますが、裏で諜略があり、学生たちがはめられています。最後の一件は教育そのものの破壊による、青少年の破滅で、少しだけ、前とは異なりますが、社会を暗くするという意味で共通しています。
大洋丸事件については、グーグルなどで、検索していただくと項目がいっぱいありましたので、そちらに詳細をお任せをしたいと思います。
それから、有為の青年の抹殺という意味では、日本に限らず、諸外国でも戦争と、それへの巻き込まれ方があるわけです。が、そこについて触れて行くと、ことが膨大になって収集がつかなくなるので、ここで、とめておきます。
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さて、これから先、(数節後、重要なことを述べるので、本当は後回しにしたいのですが)、葬儀についてあれこれ、雑感を、ここで、述べさせて頂きたいと感じます。通夜の次の日、告別式の様子についてもお知らせがあり、「とても、感じがよかった」と書いてありました。それは、きっとスピーチがあったからでしょう。
仏式だったのですが、お坊さんのお経の前に、故人のお人柄や業績が、参列者によくわかるように友人と喪主の方がお話をされたそうです。キリスト教関係のお葬式では、スピーチがありますが、とてもよい形式です。高木先生の場合、参列者が、遺族も知人もスピーチをすることを恐れないというか、その意義を覚醒しておられる方が多かったので、仏式でも読経の前にそれが行われたそうです。で、それも含めて、高木先生の死とその見送りは、高齢のかつ、一人暮らしの女性のそれとしては、最高に恵まれたものでした。
まず、ご親族や、知人に介護の労を取らせなかったということもあります。
私たち兄弟は、母を老人ホームに預けていたわけですが、それでも、最後の段階では水分の補給を、点滴で続けるか、やめるかという決断を家族がする必要がありました。とめるのは死を招くわけですが、続けるのも本人に無理に生き続けさせるという苦しみを与えることとなるわけです。判断が難しいところでしたが。
母の死に顔は、高木先生とは違って、食べられない二ヶ月とその前の弱った形での、一年があるので、やせ細っていました。でも、家族が、めっためたに参ってしまう前のぎりぎりの段階であの世に行ってくれたので、喪主である弟が、『不謹慎な言い方だけど、子孝行だったね」というのは当たっています。が、高木先生などさらに、周辺・孝行だったわけです。
それから、スピーチの件ですが、私は喪主である弟に、スピーチを参列者からもらうことを提言をしました。母は有名人ではないのですが、親戚の間ではゴッドマザーであり、皆さんへの大きな思い出をのこしていると感じましたので。ところが弟がそれを嫌いました。ので提案は引っ込めたのですが、初七日(焼き場から帰ってきて)の席で、私が勝手に立って母の人生をまとめました。出席者の知らない部分を入れて、・・・・・二分ぐらいですが、みんなが『ほほーっ』という感じで聞いてくれたのは感じ取りました。ぶっちゃけさせていただけば、『ちっちゃん(親戚からの私の呼び名です)は、幼いころから優れていたが、やはり、今でも違うね。普通の人とは、まとめ方がまるで違う』と、見なしてくれた感じをうけました。
私のエッセイ(メルマガで、手書き時代から入れれば、13年続いている)を昔からお読みいただいている方は、私が親戚内では評判が悪いということをご存知だと思います。つまり、金遣いが荒いし、離婚も、しそうだし、ともかく危なくて、なんらかの厄介ごとが自分に振りかかりそうだと見られています。父の遺産のうち、半分ぐらいをあっという間にアート修行(外国へ行くこと、およびそれを可能にするための日本での一人暮らし、および本を六種類も作って、4千冊近くを、ほとんどただで配ってしまったこと)に使ってしまったことは、費用対効果という意味では無に等しいわけで、禁治産者並に扱われていたと思います。
デモ、何度も繰り返して言うようですが、あの、(私一人だけに関するものですが)、激動の十年間は無駄ではなかったのです。私は十分に聞き手を感動させるスピーチを、その日に創り出すことができて、それで、母の恩に報いえたのですから。
ところで、これは少し書き足したいです。今日NHKの第二次世界大戦はなぜ始まったかという特集を見ていたら、国際日本文化研究センターというところの研究者(または、教授職)の方が発言をされました。
高木先生は、そちらにもお勤めだったという記憶があります。それを調べて補遺として付け加えないといけないので、お待ちくださいませ。
一般的にわかりやすい著書としては、「八人の女帝」という日本史の本が、あります。が、それについて、あれこれ書くと、どうも、愛子様の女帝問題へ差し掛かりそうなので、わざとそれへの言及を避けました。愛子様の女帝問題については、意見を言いたくないものですから。意見はもちろんあるのですが、今のところ、国民の大勢がどういう流れになるかが判らないので。そこら辺はこの私でさえ、慎重です。
それから、高木先生にとっては、人生の最大の不条理であったであろう大洋丸事件について、有為の青年殺しの可能性を感じています。特に先生のご主人と専攻科で同級生であった斉藤敏江さんのご主人のお二人とも犠牲になっているのが、十分以上に、疑問を喚起させます。つまり、専攻科というのは、全部で百人にも満たないのですが、その当時では日本の最上級エリート層だったと思いますので、お見合い結婚の盛んなあの時代では、そういう女性の夫たちもまたエリートだったわけでしょう。
どうして、それらの有望な青年が一網打尽のごとくに命を奪われたかが問題なのです。アメリカ・グレナディア号の魚雷攻撃で非軍事用船(商船というか、客船)が沈み、死んでしまったわけですが、当時から日本人の中に、フリーメーソンの会員がいて、有為の青年たちに中国視察などを提言して、彼らを集中的に集めて船に乗せて、轟沈させれば、国家としては人材が一挙に奪われるわけですね。
これは、安保反対闘争とか、学生運動とか、三里塚闘争とか、現代のリンチ殺人事件の多発とかで、繰り返されているまじめな青年を、発掘してどんどん、抹殺して行く仕組みと同じです。一見すると自然に起きた運動のように見えますが、裏で諜略があり、学生たちがはめられています。最後の一件は教育そのものの破壊による、青少年の破滅で、少しだけ、前とは異なりますが、社会を暗くするという意味で共通しています。
大洋丸事件については、グーグルなどで、検索していただくと項目がいっぱいありましたので、そちらに詳細をお任せをしたいと思います。
それから、有為の青年の抹殺という意味では、日本に限らず、諸外国でも戦争と、それへの巻き込まれ方があるわけです。が、そこについて触れて行くと、ことが膨大になって収集がつかなくなるので、ここで、とめておきます。
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さて、これから先、(数節後、重要なことを述べるので、本当は後回しにしたいのですが)、葬儀についてあれこれ、雑感を、ここで、述べさせて頂きたいと感じます。通夜の次の日、告別式の様子についてもお知らせがあり、「とても、感じがよかった」と書いてありました。それは、きっとスピーチがあったからでしょう。
仏式だったのですが、お坊さんのお経の前に、故人のお人柄や業績が、参列者によくわかるように友人と喪主の方がお話をされたそうです。キリスト教関係のお葬式では、スピーチがありますが、とてもよい形式です。高木先生の場合、参列者が、遺族も知人もスピーチをすることを恐れないというか、その意義を覚醒しておられる方が多かったので、仏式でも読経の前にそれが行われたそうです。で、それも含めて、高木先生の死とその見送りは、高齢のかつ、一人暮らしの女性のそれとしては、最高に恵まれたものでした。
まず、ご親族や、知人に介護の労を取らせなかったということもあります。
私たち兄弟は、母を老人ホームに預けていたわけですが、それでも、最後の段階では水分の補給を、点滴で続けるか、やめるかという決断を家族がする必要がありました。とめるのは死を招くわけですが、続けるのも本人に無理に生き続けさせるという苦しみを与えることとなるわけです。判断が難しいところでしたが。
母の死に顔は、高木先生とは違って、食べられない二ヶ月とその前の弱った形での、一年があるので、やせ細っていました。でも、家族が、めっためたに参ってしまう前のぎりぎりの段階であの世に行ってくれたので、喪主である弟が、『不謹慎な言い方だけど、子孝行だったね」というのは当たっています。が、高木先生などさらに、周辺・孝行だったわけです。
それから、スピーチの件ですが、私は喪主である弟に、スピーチを参列者からもらうことを提言をしました。母は有名人ではないのですが、親戚の間ではゴッドマザーであり、皆さんへの大きな思い出をのこしていると感じましたので。ところが弟がそれを嫌いました。ので提案は引っ込めたのですが、初七日(焼き場から帰ってきて)の席で、私が勝手に立って母の人生をまとめました。出席者の知らない部分を入れて、・・・・・二分ぐらいですが、みんなが『ほほーっ』という感じで聞いてくれたのは感じ取りました。ぶっちゃけさせていただけば、『ちっちゃん(親戚からの私の呼び名です)は、幼いころから優れていたが、やはり、今でも違うね。普通の人とは、まとめ方がまるで違う』と、見なしてくれた感じをうけました。
私のエッセイ(メルマガで、手書き時代から入れれば、13年続いている)を昔からお読みいただいている方は、私が親戚内では評判が悪いということをご存知だと思います。つまり、金遣いが荒いし、離婚も、しそうだし、ともかく危なくて、なんらかの厄介ごとが自分に振りかかりそうだと見られています。父の遺産のうち、半分ぐらいをあっという間にアート修行(外国へ行くこと、およびそれを可能にするための日本での一人暮らし、および本を六種類も作って、4千冊近くを、ほとんどただで配ってしまったこと)に使ってしまったことは、費用対効果という意味では無に等しいわけで、禁治産者並に扱われていたと思います。
デモ、何度も繰り返して言うようですが、あの、(私一人だけに関するものですが)、激動の十年間は無駄ではなかったのです。私は十分に聞き手を感動させるスピーチを、その日に創り出すことができて、それで、母の恩に報いえたのですから。
ところで、これは少し書き足したいです。今日NHKの第二次世界大戦はなぜ始まったかという特集を見ていたら、国際日本文化研究センターというところの研究者(または、教授職)の方が発言をされました。
高木先生は、そちらにもお勤めだったという記憶があります。それを調べて補遺として付け加えないといけないので、お待ちくださいませ。