さて、私が紹介をされた工房は、登る際は左側にあたる石段の途中に入り口があります。はいると、中は洞窟めいていて、中年のおばさん(ということはさえない、しかし、誠実な女性であろう)が受付をやっていて、・・・・・彼女はあまり、英語が得意ではありませんでしたが、・・・・・所長を呼んでくると、言ってくれました。
現れた人があまりにも美しい女性だったので、私はびっくり仰天。多分、二代目とか、三代目の人でしょう。でも、男性を統括して束ねる存在があまりにも華奢であったので、驚いたのです。『パリだからかなあ?』と、衝撃を受けました。摺り師というのは体力が必要なので、普通は、男性です。特に西洋の版画は、プレス(高圧からくるネーミングだと思う〕という機械を使いますので、ほとんどが男性です。日本の木版画は、特に江戸時代は、大きなサイズを摺らず、しかもばれんという道具で、静かに紙を撫で回す形で摺りますので、あまり体力が要らないのですが、それでも、男性が主でしょう。
その所長は、ジュリエット・ビノシュを上品にしたような美人でした。ジュリエット・ビノシュが上品ではないというわけではないのですが、ダニエル・ダリューとか、カトリーヌ・ドヌーヴに比べれば愛情のあるという顔立ちです。でも、小柄でかわいいという雰囲気があります。所長は上品な赤・紫色の薄手の(ということは上等だという意味ですが)、Tシャツを着ていて、『やはり、ここは、版画工房だ』と思わせました。
中に入ると広くて、伝統もありそうで、相当なレベルのところであって、もっと、気取った服で現れてもおかしくないのに、Tシャツ程度で、お客と対応するのは、どうしても、汚れる場所だからです。どんなに清潔にしていても、インクの伸ばしてあるプレートのそばを通ったり、誰かと袖すりあうだけで汚れてしまう場所ですから。
~~~~~~~~~~
工房は広くて、版画を摺る機械が、10台ぐらいそろえてあり、美形の青年たちが、5、6人静かに働いていました。実はそこへ至る前に、日本で紹介をされた、別の工房を訪ねていて、そちらには、機械が大小で、三台くらいしかなくて、たむろしている人は、40人ぐらい居るのです。圧倒的な違いを感じました。『今、目の前に対峙している工房が、世界でも最高級というレベルで、立派なものであり、西洋のキコウ本(高価な本)の挿絵として使ってあるエッチングの類は、こういうところで摺られたのであろう』と思いました。何事にでも、高級なところと、低級なところの差はあるものです。
高級なところとは、作り出すものが最高のレベルであり、低級なところとは、単に、お金儲けを第一の目標としているところです。工房にたむろしている人たちからお金を取るために運営されているところと、工房に依頼をするアーチストからお金を取ることを目的にする工房との違いです。ただし、版画工房というのは、どういう風に運営しても、儲かるものではありません。ビジネスとしては大変な種類のものであり、伝統やら、文化への理解の違いによって、それが、うまく続けられるか、閉鎖されるかの違いが出てくると思います。
中に入ると、西側は、外気に面していて、小さな格子が連なった、縦長のフランス窓がたくさんあり、そこから入ってくる光だけで作業は行われているようでした。蛍光灯も白熱灯も使っておらず、微妙な色彩を大切にすることもうかがわせました。
そして、洞窟側(東側)に棚があり、そこにプチダノンの容器が縦横、100個位あって、残ったインクを保存してあることが伺われました。あまり、長時間保存していても油がこかしますが、一ヶ月以内にそれらを使えば、それこそ、さらに微妙な色合いが出るというものです。
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実は私はパリでは、4つの工房を訪問しています。実際には第三の、小さなしかし、専門家だけが使っている、良いところで修行ができるのですが、この伝統ある立派なサクレクール寺院傍の工房を訪ねた日には、そちらの自分で機械が使える方は、所長さんが旅行中であり、「まだ、来ないでください」といわれていたので、こちらのプロの摺り師さんが、技を見せてくれるほうに大きな期待を寄せていたのです。
しかし、しかしです。私が値段について提示をできなかったということもあり、そのほか、APというためし刷りを持ってきていなかったこともあり、摺ってくれるのを、断られてしまったのです。つまり、私の版画は、深堀の一般多色摺りといって、後日、日本で日本の摺り師さんに頼んだら、一枚摺り代だけで、一万円をとられました。
つまり、手間が掛かるものなのです。機械やインク代を別にしても、実費の日当が、3万円程度の仕事で無いと、その工房は引き受けないのでしょう。私が持参をしたのは、20センチかける30センチぐらいの小さなサイズの銅版でしたが、それを、摺るにしても、一枚摺り代を5千は出しますと、こちらから言わなければ成らなかったと今ならわかります。
が、初めての外国暮らしであり、お金のことをはっきり言う習慣がまだ、無かったので、こちらから、高い値段を言い出すという勇気が無かったのです。
でね、私より、15センチぐらい背の低い、しかも若い、だけど、超がつくほどの美人である所長からにべも無い形で、断られて、がっくり来てしまったのです。
せっかく、ここまで来たのだからと、サクレクール寺院へ向かう石段は最後まで上りました。しかし、寺院内部へ入る気力も出ないほど、がっかりして、サクレクール寺院の前庭で、手すりにつかまって、パリ市内を見下ろしながら、非常に青ざめて、背でも丸くしていたのでしょう。惨めでとても弱々しく見えたことでしょう。
でも、それだけなら、別に問題は無いのですが、その日の私は、一流のところを訪ねるのですから、きわめて上等なものを着ていました。別に高いものでもないのですが、品質に関しては、最高級のものを着ていたのです。今ではすっかり、気構えが違ってきていますが、実は小さいころから、品質だけは馬鹿によいものを着せてもらっていて、友達からも「私服の時はよいものを着ているのね』といわれていました。制服のときは父が、質素を旨とする教育方針だったので、ズックのかばんと、ズックの靴で通いましたが、私服は母の好みだったので、母はよいものをきるのが趣味の人だったからです。
ここで、こんなことを言うのは、これも、別に自慢でもなんでもなくて、マイケル・ムーア監督と関連しています。彼を書くのが難しいというのは、彼が貧しい居人たちの見方なので、それゆえに、警戒をされている人だからです。出、映画について批評を摺るつもりではじめたあの文章が、いささか、書きにくくなったのは、貧しさを、嫌う普通の日と向けにどういう風に書き抜いたら、一番正しく、かつ、良い文章ができるだろうと、思い悩んでいるところだから、ムーア監督も普通の中流市民であり、私もかっつかっつですが、中流であるということを言いたいわけなのです。
で、言わせていただければ、非常に上等な品質の服を着ていて、(いや、パリ市民だって、100%ウールのものを着ている人は少ないのです)、しかも、手には銅版を入れた、ブランド物の白いつやのある紙袋を持っていました。これが、災いをして、その日に死ぬことになったかも知れなかったのでした。そのがっかりして丘の下を眺めていた直後に、ギャング団に後をつけられたのです。それをバスティーユで気がつくことになります。
あの時は、その、大切な大切な第三の工房生活が、まだ始まっていませんでしたから、拉致されて、殺されてしまっても、誰も、私が行方不明になったことなど気がつかず、私は突然に子供や、夫や、親兄弟からも、引き離されるところだったのかもしれないのです。つまり、夜は一人暮らしです。そして、パリと日本の間は時差があり、べたべたすることを好まない主人には、毎日電話をしていたわけでもありません。一週間や、二週間、何の連絡が無くても日本の家族は何も心配しないので、その間に、決定的なことが起こっても、誰も、どうしようもなかったわけです。
私は自分がやっていることに対して報酬がないという意味では不幸だと思うときもありますが、でも、よく考えてみると、どうも幸運に恵まれているようでもあります。ぎりぎりのところで常に救われていますので・・・・・・この項は、もちろん続きます。
2010-2-12 雨宮 舜
現れた人があまりにも美しい女性だったので、私はびっくり仰天。多分、二代目とか、三代目の人でしょう。でも、男性を統括して束ねる存在があまりにも華奢であったので、驚いたのです。『パリだからかなあ?』と、衝撃を受けました。摺り師というのは体力が必要なので、普通は、男性です。特に西洋の版画は、プレス(高圧からくるネーミングだと思う〕という機械を使いますので、ほとんどが男性です。日本の木版画は、特に江戸時代は、大きなサイズを摺らず、しかもばれんという道具で、静かに紙を撫で回す形で摺りますので、あまり体力が要らないのですが、それでも、男性が主でしょう。
その所長は、ジュリエット・ビノシュを上品にしたような美人でした。ジュリエット・ビノシュが上品ではないというわけではないのですが、ダニエル・ダリューとか、カトリーヌ・ドヌーヴに比べれば愛情のあるという顔立ちです。でも、小柄でかわいいという雰囲気があります。所長は上品な赤・紫色の薄手の(ということは上等だという意味ですが)、Tシャツを着ていて、『やはり、ここは、版画工房だ』と思わせました。
中に入ると広くて、伝統もありそうで、相当なレベルのところであって、もっと、気取った服で現れてもおかしくないのに、Tシャツ程度で、お客と対応するのは、どうしても、汚れる場所だからです。どんなに清潔にしていても、インクの伸ばしてあるプレートのそばを通ったり、誰かと袖すりあうだけで汚れてしまう場所ですから。
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工房は広くて、版画を摺る機械が、10台ぐらいそろえてあり、美形の青年たちが、5、6人静かに働いていました。実はそこへ至る前に、日本で紹介をされた、別の工房を訪ねていて、そちらには、機械が大小で、三台くらいしかなくて、たむろしている人は、40人ぐらい居るのです。圧倒的な違いを感じました。『今、目の前に対峙している工房が、世界でも最高級というレベルで、立派なものであり、西洋のキコウ本(高価な本)の挿絵として使ってあるエッチングの類は、こういうところで摺られたのであろう』と思いました。何事にでも、高級なところと、低級なところの差はあるものです。
高級なところとは、作り出すものが最高のレベルであり、低級なところとは、単に、お金儲けを第一の目標としているところです。工房にたむろしている人たちからお金を取るために運営されているところと、工房に依頼をするアーチストからお金を取ることを目的にする工房との違いです。ただし、版画工房というのは、どういう風に運営しても、儲かるものではありません。ビジネスとしては大変な種類のものであり、伝統やら、文化への理解の違いによって、それが、うまく続けられるか、閉鎖されるかの違いが出てくると思います。
中に入ると、西側は、外気に面していて、小さな格子が連なった、縦長のフランス窓がたくさんあり、そこから入ってくる光だけで作業は行われているようでした。蛍光灯も白熱灯も使っておらず、微妙な色彩を大切にすることもうかがわせました。
そして、洞窟側(東側)に棚があり、そこにプチダノンの容器が縦横、100個位あって、残ったインクを保存してあることが伺われました。あまり、長時間保存していても油がこかしますが、一ヶ月以内にそれらを使えば、それこそ、さらに微妙な色合いが出るというものです。
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実は私はパリでは、4つの工房を訪問しています。実際には第三の、小さなしかし、専門家だけが使っている、良いところで修行ができるのですが、この伝統ある立派なサクレクール寺院傍の工房を訪ねた日には、そちらの自分で機械が使える方は、所長さんが旅行中であり、「まだ、来ないでください」といわれていたので、こちらのプロの摺り師さんが、技を見せてくれるほうに大きな期待を寄せていたのです。
しかし、しかしです。私が値段について提示をできなかったということもあり、そのほか、APというためし刷りを持ってきていなかったこともあり、摺ってくれるのを、断られてしまったのです。つまり、私の版画は、深堀の一般多色摺りといって、後日、日本で日本の摺り師さんに頼んだら、一枚摺り代だけで、一万円をとられました。
つまり、手間が掛かるものなのです。機械やインク代を別にしても、実費の日当が、3万円程度の仕事で無いと、その工房は引き受けないのでしょう。私が持参をしたのは、20センチかける30センチぐらいの小さなサイズの銅版でしたが、それを、摺るにしても、一枚摺り代を5千は出しますと、こちらから言わなければ成らなかったと今ならわかります。
が、初めての外国暮らしであり、お金のことをはっきり言う習慣がまだ、無かったので、こちらから、高い値段を言い出すという勇気が無かったのです。
でね、私より、15センチぐらい背の低い、しかも若い、だけど、超がつくほどの美人である所長からにべも無い形で、断られて、がっくり来てしまったのです。
せっかく、ここまで来たのだからと、サクレクール寺院へ向かう石段は最後まで上りました。しかし、寺院内部へ入る気力も出ないほど、がっかりして、サクレクール寺院の前庭で、手すりにつかまって、パリ市内を見下ろしながら、非常に青ざめて、背でも丸くしていたのでしょう。惨めでとても弱々しく見えたことでしょう。
でも、それだけなら、別に問題は無いのですが、その日の私は、一流のところを訪ねるのですから、きわめて上等なものを着ていました。別に高いものでもないのですが、品質に関しては、最高級のものを着ていたのです。今ではすっかり、気構えが違ってきていますが、実は小さいころから、品質だけは馬鹿によいものを着せてもらっていて、友達からも「私服の時はよいものを着ているのね』といわれていました。制服のときは父が、質素を旨とする教育方針だったので、ズックのかばんと、ズックの靴で通いましたが、私服は母の好みだったので、母はよいものをきるのが趣味の人だったからです。
ここで、こんなことを言うのは、これも、別に自慢でもなんでもなくて、マイケル・ムーア監督と関連しています。彼を書くのが難しいというのは、彼が貧しい居人たちの見方なので、それゆえに、警戒をされている人だからです。出、映画について批評を摺るつもりではじめたあの文章が、いささか、書きにくくなったのは、貧しさを、嫌う普通の日と向けにどういう風に書き抜いたら、一番正しく、かつ、良い文章ができるだろうと、思い悩んでいるところだから、ムーア監督も普通の中流市民であり、私もかっつかっつですが、中流であるということを言いたいわけなのです。
で、言わせていただければ、非常に上等な品質の服を着ていて、(いや、パリ市民だって、100%ウールのものを着ている人は少ないのです)、しかも、手には銅版を入れた、ブランド物の白いつやのある紙袋を持っていました。これが、災いをして、その日に死ぬことになったかも知れなかったのでした。そのがっかりして丘の下を眺めていた直後に、ギャング団に後をつけられたのです。それをバスティーユで気がつくことになります。
あの時は、その、大切な大切な第三の工房生活が、まだ始まっていませんでしたから、拉致されて、殺されてしまっても、誰も、私が行方不明になったことなど気がつかず、私は突然に子供や、夫や、親兄弟からも、引き離されるところだったのかもしれないのです。つまり、夜は一人暮らしです。そして、パリと日本の間は時差があり、べたべたすることを好まない主人には、毎日電話をしていたわけでもありません。一週間や、二週間、何の連絡が無くても日本の家族は何も心配しないので、その間に、決定的なことが起こっても、誰も、どうしようもなかったわけです。
私は自分がやっていることに対して報酬がないという意味では不幸だと思うときもありますが、でも、よく考えてみると、どうも幸運に恵まれているようでもあります。ぎりぎりのところで常に救われていますので・・・・・・この項は、もちろん続きます。
2010-2-12 雨宮 舜