○○や 根岸の里の 侘び住まい
落語の「雑俳」にも登場する 俳句の奥義?です
○○には どんな言葉を入れても なんとなく俳句らしくなりますね
江戸の昔 ここ根岸は優雅な地域だったようです
大店の主人たちは こぞって別荘を建て 愛する人を囲っていたらしい
また 大藩の御家人の長屋も そこここに散在していたと伝えられています
そんな歴史を持った 現在の根岸の一角でした
東京都指定史跡の「子規庵」です
建物の周囲は 鬼平犯科帳の「いろは茶屋」が 大挙して出現したかのような錯覚を憶えます
正岡子規は慶応3年(1867)松山で生まれました
政治家を志し16歳で上京しますが 明治22年の喀血後「子規」と号し俳句に熱中します
26年には 芭蕉を慕って東北にも旅行をしています
30年に松山で発刊された「ほととぎす」を翌31年には東京に移しました
「歌よみに与ふる書」を連載 短歌の革新も始めました
「子規庵」には明治27年に移り住み 母と妹を呼び寄せています
子規 終焉の間です
伸ばせなくなった左の膝を入れるため 板をくり抜き 特別に注文した愛用の机です
8畳間 かっての句会歌会等の場だったのでしょう
子規生前には 夏目漱石・森鴎外・高浜虚子・伊藤左千夫・与謝野鉄幹・島崎藤村等 友人知人が多く訪れています
明治35年(1902)病状はますます重く 友人等が交代で病床につめたが 9月18日 絶筆の句をかきました
翌19日 午前1時ころ死去
母の呼ぶ声に応えはなかったといいます
享年34歳 満35歳になる直前の若い死でした
絶筆三句のうちの一句です
元気な頃の一句でしょうか
様変わりしたとはいえ 流石は歴史の街「根岸」でした
JR「鶯谷駅」から徒歩5分の子規庵です
向かいには「書道博物館」があります
豆腐料理で有名な「笹の雪」も近くです
文政年間に創業の「羽二重団子」
そして「根岸の里」その2は ここですね
それにしても 中学・高校の国語の時間で俳句を学んだ私です
当時の「子規」は かなりのオジサン いや失礼ながらオジイさんに思えたものでした
それが 享年34歳!
息子と同年輩ではないですか
さすれば私は。。。
(ただ)歳重ね 根岸の里の 侘び住まい どうもすいません
落語の「雑俳」にも登場する 俳句の奥義?です
○○には どんな言葉を入れても なんとなく俳句らしくなりますね
江戸の昔 ここ根岸は優雅な地域だったようです
大店の主人たちは こぞって別荘を建て 愛する人を囲っていたらしい
また 大藩の御家人の長屋も そこここに散在していたと伝えられています
そんな歴史を持った 現在の根岸の一角でした
東京都指定史跡の「子規庵」です
建物の周囲は 鬼平犯科帳の「いろは茶屋」が 大挙して出現したかのような錯覚を憶えます
正岡子規は慶応3年(1867)松山で生まれました
政治家を志し16歳で上京しますが 明治22年の喀血後「子規」と号し俳句に熱中します
26年には 芭蕉を慕って東北にも旅行をしています
30年に松山で発刊された「ほととぎす」を翌31年には東京に移しました
「歌よみに与ふる書」を連載 短歌の革新も始めました
「子規庵」には明治27年に移り住み 母と妹を呼び寄せています
子規 終焉の間です
伸ばせなくなった左の膝を入れるため 板をくり抜き 特別に注文した愛用の机です
8畳間 かっての句会歌会等の場だったのでしょう
子規生前には 夏目漱石・森鴎外・高浜虚子・伊藤左千夫・与謝野鉄幹・島崎藤村等 友人知人が多く訪れています
明治35年(1902)病状はますます重く 友人等が交代で病床につめたが 9月18日 絶筆の句をかきました
翌19日 午前1時ころ死去
母の呼ぶ声に応えはなかったといいます
享年34歳 満35歳になる直前の若い死でした
絶筆三句のうちの一句です
元気な頃の一句でしょうか
様変わりしたとはいえ 流石は歴史の街「根岸」でした
JR「鶯谷駅」から徒歩5分の子規庵です
向かいには「書道博物館」があります
豆腐料理で有名な「笹の雪」も近くです
文政年間に創業の「羽二重団子」
そして「根岸の里」その2は ここですね
それにしても 中学・高校の国語の時間で俳句を学んだ私です
当時の「子規」は かなりのオジサン いや失礼ながらオジイさんに思えたものでした
それが 享年34歳!
息子と同年輩ではないですか
さすれば私は。。。
(ただ)歳重ね 根岸の里の 侘び住まい どうもすいません
子規は俳句に疎いものとしては遠い人ですが「坂の上の雲」でがぜん魅力的な人になりましたよ。
最後は松山ではなかったんですネェ。
いい加減な記憶力です。(記憶力のなさは、今に始まったことではありませんが)
20年位前、松山に転勤した叔父が「松山で有名な人は?」妹は「ぼっちゃん」私は「子規」
これで、「ほ~mもちゃんと勉強してるんだね」と株を上げましたよ(笑)
その少し前に「坂の上の雲」を読み終わったところだったんですよ(笑)
なつかしい叔父まで思い出させてもらいました。ありがとうございます。
正岡子規、アララギ派の歌人ですね。
昨夜娘と二人で同じような絵葉書を見ながら、この机は何故このように?と話し合っていたんですよ。
akisaienさんのブログでその謎が解明されてすっきりしました。膝痛のため特注なのですね。ありがとうございます。
この部屋には後の有名な歌人や作家達がずらりと並んで、作品の合評会等開いていたんでしょうね。
戦後に再建された建物とはいえ、それを思うと感無量ですね。
正岡子規の享年よりはるかに上回った歳を重ねた私。先程よりずっと庭を眺めておりますが、未だ一句も出来ません。
「どうもすいません。」
下町にはまだまだ沢山の見所があり、akisaienさんはネタに事欠きませんでしょう。
それから、子規の故郷はちょびママさんの松山市なんですね。
ちょびママさん、ご覧になったら喜ぶことでしょうね。
20年以上前俳句のサークルに連れて行かれ、1年ほど参加していましたが、色々教わるとやれ季重なりだとか、暑いと言わずに暑さを読めとか…難しくなって1週間に5句、いや3句すら詠めなくなって終にやめてしまいました。
人の詠んだ句の良し悪しは分かるのですが…
何時かまた詠んで見たいとも思います。
ドラマのなかでも句会のシーンが頻繁に出てきます。
やっぱり子規の影響が大きい土地柄なのでしょうか。
亡き父は旧制高校時代を松山ですごしたようですが。
まったく句に縁のないひとでしたね。
松山というと・・・
脚本家の早坂暁さんも松山出身ですよね。
根岸と言う所は、時代劇の、粋な所と言うイメージしかありませんでした。又勉強になりました。
お孫さんたちとの、西瓜割り、楽しいけど、後始末が大変なんですよね思い出しました、子どもが、小学生で、子ども会でキャンプをしました。小玉西瓜なんてめずらしい頃でしたので、じい様が、朝早く、新潟まで行って、トラックにいっぱいつけてきました。農家の畑で、直接買ってきたそうです。相手の方も、畑の西瓜全部なら、1個50円でいいと言ったそうです。300個くらいありました、朝早く、毛布を持ってどこに行ったと思ったら、西瓜買いでした。農家の人も、太っ腹です、子供会で使うなら、と言って安くしてくれました子供も、親も1個ずつ食べました。楽しい思い出です。これから、祭囃子の、練習です
たまたま今日は高校野球夏の甲子園開幕の日。
ベースボールを野球と訳した人は別に居るそうですが、それを「野球」と表記した人が正岡子規だったのですね。
子規の作品を学生時代読んで、老成した歌人のような印象を受けていたのですが、短い生涯を終えられたのですね。
○○や根岸里の侘び住まい
俳句は詠んだことがありませんが、今夕風に鳴る風鈴を聴きながら・・・
風鈴や根岸の里の侘び住まい
そうですか、ここが終の棲家となったのですね。
教科書で紹介されてる写真はとても陰気で気難しそうなのですが、実際は茶目っ気たっぷりで愉快な方だったんですよね。
俳句の町に生まれたのに一句もひねり出せない私でお恥ずかしいですが。。。
松山では俳句ポストや句碑、俳句甲子園と俳句は今なお盛り上がりを見せてます!
正岡子規のことを親しみをこめてのぼさんと呼び、松山の行事でも「のぼさんと○○」などと何かにつけ引っ張り出されてます。
折りしも今年は夏目漱石が小説「坊っちやん」を「ホトトギス」に発表してから百年を迎えます。
「坊ちゃん百年展」が子規記念博物館で開催されてます。
子規さんも何かとかり出されて忙しい思いをしてる事でしょう(笑)
賑やか好きだったから喜んでるでしょうか?
オヤジさんの記事で子規さんが、松山の良さが、皆さんに伝わった事でしょう。
嬉しいです!ありがとございました。
それと。。。
ご心配をおかけしましたが私、もうすっかり復活いたしました。
お気遣いに深く感謝感謝です。
失礼致しましたm(_ _)m
「坂の上の雲」はテレビでも放映されましたね?私も記憶が定かでありませんが(笑)
司馬遼太郎の原作を読み、明治の青年たちの暑い情熱を知ることができました。
正岡子規は見かけの気むずかしさとは裏腹の、愉快で闊達な方だったようです。
司馬さんの功績ですね。
実は、3枚目~7枚目の写真は受付の女性に目を瞑ってもらいました。
絵葉書の購入者が減少するのでしょう。
撮影禁止なのです。
机の工夫を説明するための撮影になりました。
受付の方に感謝です。
アララギ派でしたか。
流石にお詳しいですね。
小学生の国語の時間では、5・7・5がスラスラでてきましたね。駄作であっても。。
いまではそれすらままならなくなりました。
やはり、頭が固くなってるのでしょうね。
スイマセン 根岸の里の 侘び住まい (笑