酒と畑に戯れるオヤジな私

酒を飲み、土を耕し、人と語り、日々に感動しながら楽しく生きるブログ

無縁坂

2006年08月22日 | 坂道


事務所での打ち合わせが 予定より早くおわりました

一杯やるには日が高い

久し振りに近くを散歩しました 無縁坂。。 (湯島4丁目12)



その昔 この周辺は武家屋敷が多く『武家』に『縁』 武縁坂とも称されたらしい

         (左側の煉瓦塀は 旧岩崎弥太郎邸です  右の奥は東京大学)

しかし やはり私には『無縁坂』が呼びやすいですね

森 鴎外の作品『雁』の主人公 岡田青年の散歩道ということで 多くの人に親しまれる坂になりました



お玉さんが住んだと思われるような 最後の格子戸の家も 昭和50年代半ばに姿を消しました

いまは 高級マンションになっていました



当時の面影を偲ばせる 岩崎邸の石垣です



東京大学を背にして 坂の上から。。



                      (真っ直ぐ行くと 上野不忍池です) 

近年 若い人たちが多くこの坂を訪れますが「ひまわりの歌」の主題歌  さだまさしさんの”無縁坂”の影響のようです 



昭和40年代の 住居表示改正によって 両門町が消えました

近くの真砂町も消えました 婦系図も「本郷4丁目の先生」になってしまいました

岡田青年 お玉さんは 迷わないで ここに無事に帰ってこられるでしょうか

坂を歩きながら 心配になってきましたよ


ここまで 散歩しながら「例の場所」に行かないわけにはいきません

暑い中 高校球児の頑張りに励まされて 足を伸ばしてしまいました

次回です

             





夕やけ だんだん

2006年06月02日 | 坂道


図書館の帰り道

ふと寄ったのが この坂道 「夕やけだんだん」でした



JR日暮里駅から 台東区の谷中銀座通り商店街へ至る坂道・石段です

映画のロケにも使われる名物石段です



今日は あいにくの曇天でした

晴れた日には 文字通り 夕日が映える素敵な場所です



最近は 外国人観光客も多くなってきました



大型店舗にも負けずに頑張る ユニークな商店街です

街路灯 道路のカラー塗装にも 当初から力を注いだ結束力は いまも衰えていません

全国からの視察も 多いと聞きます


面白い店があります



焼酎・泡盛の店「だんだん」

店先の黒板には 青いチョークで 店主の映画評が書いてあります

今回は”ダヴィンチコード”が詳しく記されていました

なかなかの映画通のオヤジのようです



骨董品店の雰囲気が漂う 中華料理店です



この坂には なぜか猫が似合います

ここだけではなく あちら こちらで猫がゆったりとしていました


人間も ゆったりした生き方をしています



最近の下町でも見かけなくなった 包丁・はさみの「砥ぎ屋」さんです

一丁300円は安いですね

「お 宣伝してね!」

気安く声をかけてもらいました


そして 時間があったので訪れたのが ここでした

朝倉彫塑館(ちょうそかん)です



熟年のご夫婦が 写真を撮っていました

そして そばまで行ったら・・・



残念!

休館日でした

仕方がありません

頼まれて ふたりの写真を撮りました

またの機会に ご紹介しましょう

なぜか 名横綱 双葉山が腰掛けたソファーがあったはずです














坂道 (その4 菊坂)

2006年04月11日 | 坂道
天気予報では 夕方から強い雨が降るという11日

午前中 所用で水道橋へ出かけました

その帰りに寄ったのが ここ本郷4丁目の「菊坂」です




「御府内備考」によると ”このへん一円に菊畑があり 菊の花を作るものが多かった

そのため 坂の名を菊坂と唱え 坂上の方を菊坂台町 坂下の方を菊坂町と唱えた”とあります


現在の 「菊坂町」です




都心の文京区とは思えない 下町の風情です



最近 とみに少なくなってきた銭湯 「菊水湯」も健在です


菊坂といえば 樋口一葉が思い出されます

一葉が 父の死後 母と妹の3人家族の戸主として 菊坂下通りに移り住んだのは

明治23年(1890)でした

兄との折り合いが悪くなり 兄の家から移ってきたとき 一葉は18歳でした



はじめは 旧菊坂町七十番地(現本郷4丁目31)で 後に同六十九番地(現同30番)に移っています





ここが 住居跡です

井戸をはさんで 右側が旧七十番地 左側が旧六十九番地です

教育委員会の 表示がありました



一葉も使用したであろう「堀抜井戸」です



震災用の飲料水としても 行政の指定を受けているそうです

一葉を愛する 地元の人たちの熱意を感じますね


一葉は 一家の戸主として 針仕事や洗い張りをして生活を立てながら「闇桜」などの小説を書きました

しかし 生活は苦しかったようです

”この夜さらに 伊勢屋(質屋)のもとに走りて 預けおきたるを出し ふたたび 売りに出さんとするなど いともあわただし” ( 一葉日記・竜泉寺町への移転の準備より・・)

一葉の日記にあった 質屋の「伊勢屋」です

土蔵が 菊坂通りに現存してました



その後 物心両面に行き詰った一葉は 2年6ヵ月後に 下谷の竜泉寺へ引っ越して

行きます


ここまできたら つぎは下谷の「一葉記念館」です

「一葉追っ駆けオヤジ」になります 

理由のひとつは 最近どうも「福沢諭吉」さんはじめ「樋口一葉」さんが 落ち着

きなく 私の懐から去っていきます

せめて 一葉さんを追っ駆けます        








坂道 (その3  播磨坂)

2006年03月31日 | 坂道
今回ご紹介の坂道は「播磨坂」です



折りしも 地元の自治体が開催する「さくらまつり」の最中でした




「播磨坂」は実は”昭和の坂”です

戦後の区画整理により 新しく造成された環状3号道路によって出来ました

かって このあたりは 府中藩主”松平播磨守”の上屋敷でした

坂下は 千川(小石川)が流れ 低地一帯は「播磨たんぼ」と呼ばれていたそうです



昭和35年(1960)頃から 地元の人たちが協力して 樹齢15年くらいの

桜の木を約150本ほど植えました

そして 丹精の結果現在では「環3のグリーンベルト」として立派に育ち「35回

目のさくらまつり」に発展しました



さて ここ文京区は その名のとおり「文教の街」です

面積が11,44hkという狭い中に 国・都・私立学校・幼稚園が84校あります

これは 区立小・中は除いた数です

全国でもめずらしい現象でしょうね

そこで「播磨坂」近くの学校群だけでも紹介しましょう



                最寄の駅 地下鉄丸の内線 茗荷谷です



             元教育大学 現在は「筑波大」と「放送大学」



           教育大学跡地に建設された「文京スポーツセンター」



                       跡見学園女子大学



                         拓殖大学


そして 学校の近所の風景です  ここ数年の変化には目を見張ります



                     茗荷谷駅の脇道



         戸川昌子さんが 母親と住んでいた女子アパートの跡地
   
                 なにが出来るのでしょうか

         そして 最後の写真は「御茶ノ水女子大学」と その近辺です







ちなみに 私の出身中学・高校はこの区です

なにしろ坂の多い街

自転車通学時には 坂道で難儀をしましたね

次回は その当時を思い出しながらの「17歳バトン」ちょびママさんから受け

てみましょう


今日から セ・リーグも開幕です

な な なんとカープがドラに2-0で完封勝ちです!

しかし 喜んでばかりもおられません

ブログ友の未歩さんは ドラファンです

ここは 謙虚に喜んでおきます(笑)

しかし 思わず・・・うふふ
















坂道 (その2 男坂・女坂)

2006年03月19日 | 坂道


                      湯島神社(天神)男坂



梅咲くや 湯島の社頭 春浅し  (高浜虚子)

湯島天満宮の境内から 東に位置する38段の急な石段坂です


そして こちらが女坂です




「御府内備考」に・・”男坂と申すは上るに急な坂なので男坂と唱え 女坂の方は

途中に足休みなどがあって ゆるやかな坂なので女坂と唱えるようになった”・・・

とありました


天神下一帯は戦災にも遭わず 古い家が昔のたたずまいを 今に残しています

                 
         
         


幼い頃の同級生 人間国宝の「一龍斎貞水」さんの居宅も近くにあります

2階が 講談道場になっています


今日の 天神様です



恒例の「梅祭り」も終わり 梅の花も散りはじめました




日取りがよかったのでしょうか



神殿で結婚式がおこなわれていました

見守る 人々です



2月~3月は受験シーズンです

絵馬がところ狭しと掲げられています



息子を思う 切ない母の心ですね


そういえば 思い出します

ここ 男坂は 私の中学時代の通学路でもありました

はるか彼方になった 高校受験

にわかに 蘇ってきましたよ

天神様 梅 受験 切っても切れないご縁がありますね



                   <そして・・・>



                   天神様近くの上野不忍池です

       受験・発表が終わったのか それらしい親子連れで賑わっていました

そして 3月6日に北海道を出発した日本縦断駅伝チームも 今日無事に鹿児島に到達しました

             4月から「石段の坂」を登るような 人生の始まりです

                 みんな 頑張れ!祈るオヤジでした





坂道 (その1 団子坂)

2006年02月22日 | 坂道
カテゴリーにある「坂道」です

いままで チャンスがなく そのままになっていました

「坂道」君から たびたびの催促 督促がありました

今日は 天気もよく 気温が高かったので 歩いてお出掛けをしました

3時間弱のウォーキングは 気持ちのよい汗をかかせてもらいました

初デビューの「坂道シリーズ」第1回は「団子坂」です



いま 新聞を賑わせている「談合」坂ではありません

(談合坂は 中央高速にありますが・・)

終戦直後の少年たちを熱狂させた「少年王者」の作者 山川惣冶

俳優の石井寛 さらに大平正芳元首相が住んでいました



団子坂は 文京区千駄木にあります 地下鉄・千代田線の「千駄木」です

都心にありながら この文京区には 名のついた坂が大小197ヶ所あります



この団子坂 幕末から明治末にかけて 菊人形で有名でした 別名「菊見坂」です

 ”自雷也も 蝦蟇(がま)も枯れたり 団子坂” *正岡子規*

菊人形は 文化年間(1804~18年)に巣鴨の染井におこり 安政3年(18

56年)に団子坂に移ってきたそうです

坂の名は 団子を売る茶店が多かったことが 命名の由来になりました

江戸川乱歩の「D坂の殺人事件」は この坂がモデルで 名探偵明智小五郎がデビュー

しています 確か古本屋さんが舞台だったと思います



団子坂を登りきった場所にある この建物

区立図書館ですが 特色があります

「鴎外記念本郷図書館」です

そうです 森鴎外が 明治25年から終生住み続けた「観潮楼」が ここでした


全国の森鴎外ファンが見学にくるという 資料室です



大正2年に作成された胸像です



大正11年7月9日 死亡 60歳 デスマスク



熱心な 初老のファン




森鴎外 本名林太郎 文久2年(1862年)石見国(現島根県)に生まれました

明治45年(大正元年)50歳で歴史小説の執筆活動を開始

山椒大夫 阿部一族 高瀬舟など多数の小説を世に残しています



図書館の外は 昔ながらの「観潮楼」の庭園です

その名のとおり ここから東京湾の海が望めたのでしょうね


そして 団子坂といえば この店を忘れることはできません



団子坂下 台東区谷中小学校前の 名代『塩見煎餅』です

これからも 折をみて「坂道」君をご紹介しますね

よろしくお願いいたします