おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

ぼんやりした不安

2024-06-07 11:14:58 | 日記
 少し前のニュース記事で、子供の不登校や引きこもりの原因が、いじめや友人関係にあるのではなく、「正しい親子関係」が築けていないことから来るというのを読み、それからなんとなくそのことを考え続けている。

 そもそも「正しい親子関係」が築けていないというのはどういうことかというと、子供にとってダメなものはダメだときちんと教えてくれる存在がいること、何があっても保護してもらえているという絶対的な安心感のことである。これがあって子供は失敗を恐れず、積極的に生きて行くことができるのである。大リーグで活躍する大谷くんを見ていると、子供の頃に良好な親子関係があったんだろうなと常々感じてしまうのだ。

 では、子供にとってこうした存在がないということはどういうことかというと、常に不安にさらされているということである。これは大人だって同じで、何かしら不安なことがあるとしたら、人間はどうしても消極的になってしまう。問題があれば解決に向けて努力のしようがあるが、不安というのは、正体がわからないだけに対処のしようがない。作家・芥川龍之介が自殺の直前に友人に宛てた手紙に、「ただぼんやりした不安」に襲われている旨のことを書き送っているが、とにかく「不安」というものは始末が悪いのである。

 最近思うのは、不登校や引きこもりが増加しているという話を聞くと、昔だって同じように「正しい親子関係」を築けていない家庭はあっただろうに、今ほど問題にならなかったのはどうしてだろうということだ。今と同じようにたくさんいたけど、ニュースにならなかっただけなのか。それとも今とは違った環境が子供たちにあったのだろうか。

 で、ふと考えたのが、昔の日本の集落は今より強い結びつきがあった。隣近所を信用しているため、家の鍵をかけるということをしないところも多かった。醤油の貸し借りも当たり前、隣の家に電話があれば利用させてもらったりした。つまり、「正しい親子関係」をもう少し広げた形で、集落や村、町があったのではないか。人はそこの住人であるということで、何かあった時には助けてもらえるという安心感があったに違いない。

 だから子供だって、「正しい親子関係」が結べなくとも、その地域の中では安心を得ることができていたのではないか。昔はよその家の子供でも、ダメなものはダメと叱ることができたし、何かあった時には他人だろうと助けてもらうことができたのである。

 そんなことを考えるうちに、よくお年寄りが自分の住む地域のことを「ここが一番いい」とか「ここの人は人情が厚い」と言い、どんなに辺鄙で不便な場所になっても、よそへ移ることを躊躇するのが理解できるような気がして来た。なぜならそこにいる限り、安心感に包まれているからである。

 そうした安心感が地域から失われてきているとしたら、その地域の人たちはお互いに信頼が築けず、常にただぼんやりとした不安に襲われて暮らさなければならないだろう。となれば、当然生きて行く上で積極性は失われ、ひっそりと暮らすようになるのではないだろうか。
 
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