ずっと習字のお手本で「徒然草」を使っている。と言っても、兼好さんの直筆を拝めるわけではないので、現代の書の上手な人が書いたお手本を横に置いて、せっせと真似をしているのである。
古文を読むというのは、なかなか骨が折れるので、習字のお手本を兼ねて写しているうちに、熟読できるだろうという魂胆で始めたとはいえ、ひとつの文章を何度も読むのでそれなりに効果はあるようだ。もっとも書のお手本なので、「徒然草」全段が書いてあるというわけでなく、所々端折って書いていあるので、熟読と言えるかどうかは怪しい。
最近書きながら面白かったのが、兼好さんのリアリストぶりがわかるところだ。「友とするに悪き者、七つあり。一つには、高く、やんごとなき人。二つには、若き人。三つには、病なく、身強つよき人、四つには、酒を好む人。五つには、たけく、勇める兵つはもの。六つには、虚言そらごとする人。七つには、欲深き人」
現代語訳はそんなに難しくはないだろう。「友達にするにふさわしくない者は、七種類ある。一つ目は、身分が高く住む世界が違う人。二つ目は、若い人。三つ目は、病気をせず健康な人。四つ目は、酒好き。五つ目は、血の気が多く戦闘的な人。六つ目は、嘘つき。七つ目は、欲が深い人」。普通なら身分が高い人や若い人、健康な人というのは友とするに良き者になりそうだが、兼好さんはそうは言わない。身分が不釣り合いな人はこちらのことがわかってくれない。若い人も自分のことばかり。健康な人も病気や身体の弱い人のことがわからないということが言いたいのだろう。
では、そこまで言う兼好さんの「友とするに良き者」とはどういうタイプの人をいうのか。それもちゃんと書いてある。「よき友、三つあり。一つには、物くるゝ友。二つには医師くすし。三つには、智恵ある人」
訳すまでもないが、「良い友達には、三種類ある。まずは、物をくれる友。次は、医者。最後に、賢い友」。これぞリアリスト兼好さんの真骨頂である。なかなかインタビューで「どんな友達が良い友達ですか」と尋ねられ、「物をくれる人、それから医者、あと頭のいい人」とは応えにくいのである。
古文を読むというのは、なかなか骨が折れるので、習字のお手本を兼ねて写しているうちに、熟読できるだろうという魂胆で始めたとはいえ、ひとつの文章を何度も読むのでそれなりに効果はあるようだ。もっとも書のお手本なので、「徒然草」全段が書いてあるというわけでなく、所々端折って書いていあるので、熟読と言えるかどうかは怪しい。
最近書きながら面白かったのが、兼好さんのリアリストぶりがわかるところだ。「友とするに悪き者、七つあり。一つには、高く、やんごとなき人。二つには、若き人。三つには、病なく、身強つよき人、四つには、酒を好む人。五つには、たけく、勇める兵つはもの。六つには、虚言そらごとする人。七つには、欲深き人」
現代語訳はそんなに難しくはないだろう。「友達にするにふさわしくない者は、七種類ある。一つ目は、身分が高く住む世界が違う人。二つ目は、若い人。三つ目は、病気をせず健康な人。四つ目は、酒好き。五つ目は、血の気が多く戦闘的な人。六つ目は、嘘つき。七つ目は、欲が深い人」。普通なら身分が高い人や若い人、健康な人というのは友とするに良き者になりそうだが、兼好さんはそうは言わない。身分が不釣り合いな人はこちらのことがわかってくれない。若い人も自分のことばかり。健康な人も病気や身体の弱い人のことがわからないということが言いたいのだろう。
では、そこまで言う兼好さんの「友とするに良き者」とはどういうタイプの人をいうのか。それもちゃんと書いてある。「よき友、三つあり。一つには、物くるゝ友。二つには医師くすし。三つには、智恵ある人」
訳すまでもないが、「良い友達には、三種類ある。まずは、物をくれる友。次は、医者。最後に、賢い友」。これぞリアリスト兼好さんの真骨頂である。なかなかインタビューで「どんな友達が良い友達ですか」と尋ねられ、「物をくれる人、それから医者、あと頭のいい人」とは応えにくいのである。