おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

組織が平等をはばむ

2021-10-24 10:13:57 | 福島

 「犬を放さないように」という看板が設置されて以来、ケンくんは別の場所に遊びに行くようになったため、テオがケンくんと顔を会わせるのはケンくんちの前だけになった。以前のように一緒に駆け回ることができなくなって寂しい思いをしているのか、散歩の途中、以前だったらケンくんを乗せた軽トラックがやって来ていた方向を、今だに注目するテオなのである。

 今日は三春の美術展の最終日で、最後は会場の片付けと作品の撤去のため、美術展に足を運ばなければならない。そのため、カフェの営業は午後3時までとしたので、もし今日カフェの来店を予定している人がいたなら、注意してもらいたい。

 ところで、この前から読み始めた「歎異抄」は、ようやく後序まで読み進んだ。序に始まり、18条、そして後序となり、全部合わせても今の400字詰原稿用紙なら50枚もないだろう。それに10日かかったのは、何が書いてあるかチンプンカンプンの内容を、注や解説を読みながら読み進めたからで、長い道のりだった。

 で、いろいろと知らないことが多かったのだが、そもそも親鸞さんの言葉を、弟子の唯円が書き残そうとしたのは、親鸞さんの死後30年で、その教えが違った解釈で広まり始めたせいだ。中でも唯円が一番心配したのは、親鸞さんの曽孫である覚如による教団設立への動きだったようである。

 親鸞さんの教えである浄土真宗というのは、絶対的存在である阿弥陀様のお力に頼るということである。それ以外の神様仏様はすべて阿弥陀様の化身なので、宗教とすればキリスト教やイスラム教と同じ一神教に近い。

 多神教の世界では、神様の間に序列があるので、それを反映する人間界に序列があっても不思議ではない。それに対して一神教の世界では、絶対的な存在の前ではすべてのものが平等であるため、階級はない。その考えが現代の民主主義や平等の思想へとつながっている。

 が、実際に世界を見渡せば、階級や差別は存在する。そもそも平等が当たり前のキリスト教世界でも、教会という団体が作られると、その組織にはトップが存在し、煌びやかな装飾品に身を包み、ピラミッドの下の方が上を支えるという形ができあがる。

 唯円も、阿弥陀様の前では四民平等を唱えていた親鸞さんの教えが、教団が設立されることで間違った方向へと進むのではないかと危惧していた。

 イエス・キリストにしても、お釈迦さんにしても、親鸞さんにしても、その姿は簡単な服を身にまとい、乞食に近い暮らしぶりだ。それなのに、教団ができた途端、その弟子たちはまるで違った姿になる。

 今は選挙活動の真っ最中で、政治家たちは弱者救済だの、平等な社会の実現だの声高に訴えている。が、政治団体という組織でしか活動できない政治家たちそのものが、階級に縛られ、上の支持通りにしか動けずに苦しんでいるようにしか見えないのである。

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