おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

無意識の信仰

2021-10-09 10:21:40 | 日記

 「逆説の日本史」を読み終えたので、今朝から「歎異抄」(梅原猛全訳注)に取りかかった。この本の存在は知っていたが、このタイトルをどう読むかも知らず、ようやくこの歳になって「たんいしょう」と読むということがわかった。

 知っている人には説明不要だろうが、「歎異抄」は浄土真宗の開祖、親鸞の言葉を弟子の一人の唯円が書き残したものである。親鸞の死後30年も経つと、信徒の間でさまざまな勝手な解釈がひとり歩きして行く。先師の信仰と違った教えが広まって行くのを嘆いた唯円が、親鸞から直に聞き、覚えていることを書き残したのが「歎異抄」である。その序にはまずこうある。「故親鸞聖人の御物語の趣(おもむき)、耳の底に留むる所、聊(いささか)之を注(しる)す」

 で、なぜこんな小難しいそうなものを読もうかと思ったのかと言われても、自分でもよくわからない。我が家のご先祖様が浄土真宗の門徒だから、何事かがあれば「南無阿弥陀仏」というお坊さんのお経は聞くが、浄土真宗が何かも全然わからないのである。

 とは言え、全然わからないからといって、信仰がないのかと言われれば、おそらく心のどこかでは古くからある日本の宗教の影響は感じている。

 例えば、「四谷怪談」とか「牡丹灯籠」とか「リング」などの映画はなんとなく薄気味が悪い。それに比べれば「狼男」だとか「ドラキュラ」だとか「13日の金曜日」だとかいうのは、どんなに残酷なモンスターが登場しても、それは怖いだけで薄気味悪いというふうにはならない。

 アパートやマンションの事故物件が安く借りれたりするのは、事故物件の部屋が薄気味悪いと感じるからだ。ここには共通の恐怖が底にある。それは怨念の存在だ。そんなものは科学では証明されない迷信だと保証されても、日本人の多くはサタンやモンスターよりも、無念の死を遂げた人間による怨念のほうが怖いと感じている。おそらくこの感じは、キリスト教やイスラム教を信仰する人たちに分からせるのは難しいだろう。

 逆に、キリスト教やイスラム教の信者が、「神がいなければ1日たりとも生きていけない」ということを言うが、このことを身にしみて実感している日本人は少ないのではないだろうか。彼らにしてみれば、神なしでも生きて行けると思っている人間など、あり得ないのである。

 日本人は自分たちのことを無宗教だと考えているというが、科学で証明されない不合理なことをなんとなく信じている、というのが実は宗教である。日本教には、聖書やコーランに準ずるような教典は存在しない。が、外国人に説明できないけれども、歴然と日本人が信じているものというのは確かにある。

 僕のご先祖様たちが、何を信じ、どう生きようとしたか、そんなことを知らなくても生活に支障はないが、生きて行く中で知らず知らずに影響を受けていると思うと、少しは知っておいたほうがいいかなと思う、近頃のアベさんなのである。

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