家にあった書の歴史の本を2冊読んだ。もう少し詳しく知りたいのだが、家にあるのは2冊だけなので、とりあえず大雑把な歴史は頭に入れたことにする。大昔の中国から現代の日本までの有名な書家のエピソードをほんのちょっと触れただけだが、そんな中気になる人物を見つけた。名前だけは聞いたことがあった良寛さんである。
本当は名前どころか、良寛さんの実家を訪れたことがあるが、見学するのにお金を取るので、興味のなかったその頃は中に入ることなく帰って来た。今思えば残念だが、知識がないというのはそういうことだ。
良寛さんは江戸末期に活躍した新潟県の出雲崎の人である。出雲崎というのは、昔は貿易で栄えた町で、今も昔ながらの町並みで観光客も多い。僕もそんなひとりで、犬を連れてブラブラするうちにひょっこり、当時大変な名家だった良寛さんの家の前まで歩いていたのだった。
良寛さんは18歳の時に曹洞宗のお寺に入り、修行をする。曹洞宗というのは禅宗のひとつで本山は近くの福井県の永平寺だ。で、34歳の時に「好きなように旅をするのが良い」と助言してくれたお師匠の言葉通りに、放浪の旅に出る。
書がうまいということで、全国から訪れる人も多く、良寛さんの書に影響を受けている人も多い。有名なところでは、夏目漱石や北原白秋も良寛さんを手本としたようだ。当時も江戸から有名な能書家の鵬斎という人が良寛さんを訪ね、江戸に帰ってからは良寛さんの影響を受けたミミズがのたくったような字を書くようになった。それを庶民は「鵬斎は越後帰りで字がくねり」と川柳に読むほどだった。
良寛さんの字は、全体のレイアウトを重視したため、何が書いてあるのかわかりにくいということだ。素人が見ると、ピカソが描く子供のような絵に近い感じがする。当時、良寛さんに字を書いてもらおうと頼みに来る人が、できれば読める字をお願いしますと頼むと、「いろは」とか「一二三」とか、内容には無頓著に書いて渡したということである。
その性格は無邪気だったといい、いつも子供と一緒に遊んでいた。懐には手毬を潜ませ、伝説では子供たちとかくれんぼをした時に、見つけてもらえずに夜明けまで隠れていたという逸話もある。本当の話かどうかはともかく、それくらい世間体などに縛られず、飄々と暮らしていると世間は見ていたのだろう。
辞世の句は「うらをみせ おもてを見せて ちるもみじ」で、裏表なく他人に見せて死ぬだけだというような意味である。こんな歌も詠っている。
歌もよまむ 手毬もつかむ 野にもいでむ 心ひとつを定めかねつも
世の中に まじらぬとには あらねども ひとり遊びぞ 我はまされる