おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

書くことの始まり

2021-10-10 11:08:06 | 日記

 読み書きについて知りたいと思い、タミちゃんが持っていた「すぐわかる日本の書 飛鳥時代〜昭和初期の名筆」というのを借りた。本というよりはビジュアル重視のパンフレットみたいなものだ。それでも、書について何ひとつ知らない人間にとっては、なるほどと考えさせられることがいろいろ書いてある。

 言われてみればそうだよなと思ったのが、明治になるまで書家という職業は存在していなかったということである。そもそも書とは鑑賞するためのものではなく、生活にとってなくてはならないものだ。看板の文字にしても相撲番付にしても、そこに何が書いてあるかわからなければ意味がない。

 書家という書の専門家がいなかった江戸時代までの書の達人は、今では書家と区別して能書家と呼ばれている。書の専門家ではないが、書のうまい人という意味だ。弘法大師空海にしても、戦国大名にしても、明治維新で活躍した人たちでも、その書はお宝探偵団で高値の芸術品として取り引きされていたりするが、鑑賞のための書を書いた人なんて、昔はひとりもいなかったのである。屏風や掛け軸の賛に文字が書いてあったりするが、それはあくまで書としての独立して存在しているわけではなく、一種のインテリアである。

 大昔、日本人は日本語を喋ってはいたものの、文字は持っていなかった。中国から印やら鏡やらが入ってくるようになると、インテリは中国語を身につけ、中国語を使って自分の意思を書き留めた。今なら、日本の小説家が最初から英語で小説を書くようなものである。それでは世界で通用しても、多くの日本人には読まれない。

 そこで漢字の音だけを利用して、日本語の音に漢字を当てはめて書くようになった。漢字は表意文字というくらいなので、ひとつひとつに意味がある。その意味を無視して、日本語に合わせて漢字を並べた。こうして編集されたのが日本で最初の歌集「万葉集」で、その時に使われていた漢字を万葉仮名といった。平仮名や片仮名は、この漢字を崩したり一部を取り出したりして音だけを表すようにしたもので、本当の字ではないので、仮の名と呼んだのである。

 で、漢字を利用して日本語を書くことができるようになったものの、その頃は共通の活字というものはない。当時すでに様々な書が発展していた中国から、それぞれが好き勝手な書体を選んで日本語を書いていたので、なかなか他人には伝わりにくく、読み書きできる人というのは増えていかなかった。そんな時に、日本人には日本人の気質に合った書を作り、普及させようと考えたのが空海だったのである。

 書の世界には、三筆と呼ばれる書の名人がいる。スラスラ言える人はあまりいないだろうが、空海、嵯峨天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり)の三人である。で、この三大名人なのだが、実は同時代の人なのである。特に空海と橘逸勢は、最澄とともに中国に渡り、勉強してきた人間である。最澄と空海は密教を持ち帰り、勉強がちょっと苦手だった橘逸勢は書を勉強してきた。

 空海はその後日本中に仏教を布教して回るのだが、お経を読んでもらうようにするには、日本人には通じる共通の書体がどうしても必要となったのである。というわけで、きっと嵯峨天皇や一緒に中国に渡った橘逸勢に協力をお願いしたのだろう。ここに、日本人らしい書体のプロトタイプが完成するのである。

 さて、こう書いてくると、今でこそ当たり前に活字を読んだりパソコンで文字を入力したりしているが、日本人が日本語を読み書きするようになるには、大変な創意工夫があったことになる。もしお隣の国がアルファベットを使う国だったら、今の日本はアルファベットで日本語を書くという離れ業を演じていたに違いないのである。

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