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嫌われ米(日)、深刻に  文科系

2019年08月06日 07時55分24秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 3日にもこのことを書いたが、5日の新聞でこれがさらに深刻になっていると知った。中日新聞の該当記事見出しは、
『米有志連合まだ30カ国 呼び掛けに同調広がらず』

 この記事の内容はこういうものだ。
 今のアメリカは国連無視を決め込んでいる代わりに自分が国連だというような調子で自己都合・利益による世界統一行動盟主という感じ。ここからがこの記事内容なのだが、今のその焦点が対イラン戦争、その有志連合呼び掛け。そこに世界から約60カ国を糾合しようと豪語してきたもの。しかるに7月19、25、31日と三回も国際会議を呼び掛け、参加国を募りながら、今の連合参加数は30カ国と発表したのである。それも具体的国名は明かさず、「各国の有志連合に対する関与の度合は異なる」とも自ら述べているから、本当の参加国数は案外怪しいものと観る。やがては、ムチもアメも総動員して辻褄合わせ程度には持って行くのだろうが、嘘の理由をでっちあげて世界を踊らせ、開戦したイラク戦争当時のような熱気は皆無と言える。

 今年前半ベネズエラで米呼び掛けの「軍事介入」でも南米諸国に反対され、トルコとインドがロシアからミサイルを買うなど、世界の地政学的対立図式もずいぶん大きく変わってしまった。トルコはNATOで米の同盟国なのだし、インドは将来の米中衝突には欠かせない身方のはずだったのだ。それが、米軍ステルス機も打ち落とせるというロシアのミサイル揃えたというのだ。今沸騰している日韓問題でも、「韓国の中国接近」という影がつきまとっている側面を忘れてはならないだろう。

 現代世界版「トゥキディデスの罠」に向けて、世界地政学的地図の大変換はさらに進んでいくはずだ。アメリカは日本以上の借金大国なのだし、金融が物作りをどんどん荒らしてきた結果として、兵器の技術力も著しく落ちているのだから。
 これでは、将来の対中参戦有志国などとてもとてもということで、僕は少々嬉しかった。米中「トゥキディデスの罠」戦争(という嫌がらせ、脅迫をも含む)で、日本が最前線部隊の尖兵にされるのを恐怖するからである。

 そう言えば、先日来日したイラン・ザリフ外相は、日本政府の対応にかんかんになっていたな。「日本とイランは友好国!」という顔で、実は対米追随ばかり語る面従腹背の応対が見え見えだったからだろう。これでは、安倍が外交でいくら金をばらまいても「米のポチ」が見透かされるばかり。日本もどんどん孤立していかねばよいのだが? 
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「僕は日本嫌いです」の、どこが悪い?  文科系

2019年08月06日 00時16分45秒 | 国内政治・経済・社会問題
 「反日が悪いですか?」というここのエントリーがよく読まれている昨今のようだ。ここのベスト10に入って来たから分かる。ところで、今一度このことを語ってみたい。「僕は日本嫌いです」とある日本人が述べたら、それが非難されるべき悪いことになるのかどうか。国法の土台である憲法論的にも、道義的にも悪いこととは言えないと考える。僕は国の主人公だが、そうなったのはたまたまこの国に生まれたからにすぎないのだから。

 国というものをどう定義するにせよ、その主人公は国民である。国民の上に立ちそうなもの、例えば「公共の福祉」を取ってみても、これを法に抵触した形で乱さない限り、国民個人、その基本的人権などに手出しが出来るものではない。ちなみに、公共の福祉を乱した「犯罪者」を罰する時でも、「国家最重要の主権者の基本的人権を制限することになったのだが、やむを得ずそうさせて頂くということである」という考え方になっているはずだ。
 また、天皇の「偉さ」でさえ、「国民の象徴」としてのそれなのである。

 そして、その国の主人公、国民一人一人に思想の自由、その表現の自由が保障されているのだから、「僕は日本嫌いです」と言っても何か正当な理由の下に非難できるということにはならない。むしろ、これを非難できると感じ、思う人こそ、得体の知れぬ「お偉い国家」というものをその胸か頭のどこかに抱いている方々なのではないか。そういう得体の知れぬ国家理念は、それが無自覚なものだけに国家主義、全体主義に結びついていく危険性をはらんでいると観てきた。無自覚というのは例えばこういうことだ。「漠然とした公共の福祉」なり「天皇」なりを、主権者の上に置いている感じ方。

 もっとも以上のことがそのまま、無政府主義ということになるのではない。国家はあった方がよいと思うことと以上の考え方とは矛盾するものではない。

 さらに、日本国憲法の立憲主義原則が崩されるとしたら、僕はさらにこの国家を嫌いになるだろう。国民が主人公という理念やそういう法適用が薄められ、得体の知れぬ「国家」が主人公の上に立つようになっていくからだ。
 

 
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