「反日が悪いですか?」というここのエントリーがよく読まれている昨今のようだ。ここのベスト10に入って来たから分かる。ところで、今一度このことを語ってみたい。「僕は日本嫌いです」とある日本人が述べたら、それが非難されるべき悪いことになるのかどうか。国法の土台である憲法論的にも、道義的にも悪いこととは言えないと考える。僕は国の主人公だが、そうなったのはたまたまこの国に生まれたからにすぎないのだから。
国というものをどう定義するにせよ、その主人公は国民である。国民の上に立ちそうなもの、例えば「公共の福祉」を取ってみても、これを法に抵触した形で乱さない限り、国民個人、その基本的人権などに手出しが出来るものではない。ちなみに、公共の福祉を乱した「犯罪者」を罰する時でも、「国家最重要の主権者の基本的人権を制限することになったのだが、やむを得ずそうさせて頂くということである」という考え方になっているはずだ。
また、天皇の「偉さ」でさえ、「国民の象徴」としてのそれなのである。
そして、その国の主人公、国民一人一人に思想の自由、その表現の自由が保障されているのだから、「僕は日本嫌いです」と言っても何か正当な理由の下に非難できるということにはならない。むしろ、これを非難できると感じ、思う人こそ、得体の知れぬ「お偉い国家」というものをその胸か頭のどこかに抱いている方々なのではないか。そういう得体の知れぬ国家理念は、それが無自覚なものだけに国家主義、全体主義に結びついていく危険性をはらんでいると観てきた。無自覚というのは例えばこういうことだ。「漠然とした公共の福祉」なり「天皇」なりを、主権者の上に置いている感じ方。
もっとも以上のことがそのまま、無政府主義ということになるのではない。国家はあった方がよいと思うことと以上の考え方とは矛盾するものではない。
さらに、日本国憲法の立憲主義原則が崩されるとしたら、僕はさらにこの国家を嫌いになるだろう。国民が主人公という理念やそういう法適用が薄められ、得体の知れぬ「国家」が主人公の上に立つようになっていくからだ。
国というものをどう定義するにせよ、その主人公は国民である。国民の上に立ちそうなもの、例えば「公共の福祉」を取ってみても、これを法に抵触した形で乱さない限り、国民個人、その基本的人権などに手出しが出来るものではない。ちなみに、公共の福祉を乱した「犯罪者」を罰する時でも、「国家最重要の主権者の基本的人権を制限することになったのだが、やむを得ずそうさせて頂くということである」という考え方になっているはずだ。
また、天皇の「偉さ」でさえ、「国民の象徴」としてのそれなのである。
そして、その国の主人公、国民一人一人に思想の自由、その表現の自由が保障されているのだから、「僕は日本嫌いです」と言っても何か正当な理由の下に非難できるということにはならない。むしろ、これを非難できると感じ、思う人こそ、得体の知れぬ「お偉い国家」というものをその胸か頭のどこかに抱いている方々なのではないか。そういう得体の知れぬ国家理念は、それが無自覚なものだけに国家主義、全体主義に結びついていく危険性をはらんでいると観てきた。無自覚というのは例えばこういうことだ。「漠然とした公共の福祉」なり「天皇」なりを、主権者の上に置いている感じ方。
もっとも以上のことがそのまま、無政府主義ということになるのではない。国家はあった方がよいと思うことと以上の考え方とは矛盾するものではない。
さらに、日本国憲法の立憲主義原則が崩されるとしたら、僕はさらにこの国家を嫌いになるだろう。国民が主人公という理念やそういう法適用が薄められ、得体の知れぬ「国家」が主人公の上に立つようになっていくからだ。
『というように権利ばかり主張して、義務を蔑ろにするのが今の憲法。だからこそ、昨今の我が国がろくな世ではなくなって来た』
こういう感じ方、論議は、僕から観ればこの様におかしいのである。法を破るものは、破って傷つけた相手にも基本的人権があるということを忘れているか、軽く感じ、観ているだけである。この「相手にも基本的人権が・・・」ということを教育するだけで十分なのであって、それ以上何か「個人の上に立つ、何か崇高なお偉い国」を持ち出す必要など毛頭無いと言いたい。
日本にとって、「何が必要か?」て、時、
「あの人達が反対するなら、必要なのかもね?」て、
大きな、指針になっているみたいです。
オイラが、昔書いたそのまま?
『反日プロパガンダと国民が思うものを愛知県が主催者として展示するのは大反対だ』
例の「不自由展」中止問題関連の発言である。反日の意見が出る催しは、国、自治体が主催できない???どこにそんな法律があるかと返したい。これでは、表現の自由など否定するも同じではないか。完璧な、全体主義、国家主義思想の持ち主と言うべきだろう。この知事が「反日」という時の日本って何と、訊いてみたいものだ。
彼は一瞬答えられないはずで、やがて「多数決の多い方の国民」とか、結局「公共の福祉」ということになる考え方とかを、無理矢理ひねり出すことだろう。が、これに対する反論はもう、上に書いた通り。つまりこの吉村大阪府知事は、「反日」の日、日本国を何もまともには考えたことがないのである。
これでよく府知事が務まるものだ。
だからこう言われる。衆愚政治と。維新って、衆愚政治の主?
怖い世の中になってきた。
少しも悪くないよ。その調子で、反日、続けて下さい。
日本にとって、「何が必要か?」て、時、
「あの人達が反対するなら、必要なのかもね?」て、
大きな、指針になっているみたいです。
それが、文ちゃん論の「どこが悪い」への答え。