1 「廃止国138、存続国59」で、なぜ日本だけ?
日本国家が実施しつつある裁判員制度が話題を呼んでいる。また、「犯罪被害者家族の痛み」の問題などがマスコミによって大々的にキャンペーンされてもいる。死刑相当重罪犯の時効廃止も論議され始めた。いずれも死刑制度強化方針に連なっていることは明白であろう。国家による死刑執行件数が急に増えていることでもあるし。
これらの事態は、世界に目をやると日本だけの何か非常に特殊な傾向と言えるのではないか。まず、死刑を巡る世界の情勢を見てみよう。日本とは逆方向なのだ。本日の毎日新聞にこうあった。
「『アムネスティ・インターナショナル日本』によると、死刑を維持する国・地域は59。廃止した国・地域は、10年以上執行を停止している『事実上廃止』を含め138。廃止は潮流になりつつある。主要先進国で維持するのは、日本と米国。欧州連合(EU)は、死刑廃止が加盟の条件。日本と同様、国民が裁判に参加し、量刑まで決めるフランスやドイツの国民が死刑を言い渡すことはない」
先進国には少ないとされる死刑維持国には、人権意識の低い国が多い。国連の死刑廃止条約などに反対する代表的な国は、日本、米国のほかには中国、イスラム諸国などの名前がよくあがる。中国はネット検閲問題などを見ても全体主義的な国といって良かろう。イスラム諸国は女性や身分制度などに見るように、人権意識の低い国が多いのではないか。僕の感じにすぎないがイスラム原理主義は強硬な死刑維持派ではなかろうか。
この問題は、日本などの諸般の社会情勢を考えてみても、「国家と主権者の関係、そもそも論」を考える上でも、「人間論」という哲学の問題としても、非常に重要な問題を無数に含んでいると僕は考える。そしてまた、それらの重要問題は日本人が討論し慣れていないモノばかりのようにも、僕には見える。
2 制度強化の背景と思われるもの
制度強化の行方は、その背景と思われるものから、予測されるだろう。犯罪多発で、世界一安全といわれた日本の雲行きが怪しくなっている。これが何よりの国家動機だと思う。
昔捕らえたようなこそ泥、物損犯罪などはもはや警察の対象ではなくなったと見るのは、僕だけではないはずだ。「地縁」が消え、くっきりとしていた「日本人国境」もかなり怪しくなってきた。かって少なかったような種類の殺人も増えているのではないか。地縁、血縁は消えて、二つのバブル弾けをはさんだ新自由主義横行の中で失業者もまだまだ増え続けるだろう。地域の保護力、扶養力のようなものがなくなってしまい、困窮者は急増中であり、その生活ははなはだ厳しくなるばかりだ。
国家が「見せしめ、警鐘としての死刑制度」を強化しているのは、これらが背景となっているに違いない。それだけに、このままだと死刑囚は増えていくだろう。そんな時の裁判員制度設立は、「国民が死刑維持と言うのだ」と世界に対して国家が言い訳しようとしているようにしか僕には見えない。「国でなく、民意の死刑制度」と言えば、全体主義的臭いを消せるとの狙いもあるはずだ。日本の官僚の考え出しそうなことである。
3 僕の主張いろいろ
ところで、死刑とは国家の名で国民の命を奪うことだ。このこと自身が先ず「国家というものの土台に関わる例外的なこと」という認識がなければならないだろう。現代国家は、国民、その人権を基礎に成り立っているはずのものであり、その主権者の命を国家が奪うということなのだから。中国で死刑が多いことを日本国民はほぼこう捉えているはずだ。
「あの国は国家が人権以上に強いからなー。全体主義的だし」
裁判員制度とはいえ国家が死刑を増やすのであって、その全体主義的臭いを世界にまき散らすことを、国民は支持して良いのか。
また人権の中でも最も重い人の命の問題だということで、宗教的問題も絡んでこよう。「人の命の名前で人の命を奪う」という自己矛盾をはらんでいるとともに、そこから宗教的な問題も生じてくるということである。
そもそも人Aたちの「かけがえのない」命の名前で、人Bの「同じ重さの命」を奪って良いモノか? Aの命は帰ってこないうえに、もう一人殺すのだ。国家の意図とは逆に、国民が命を軽く考えるようになるということはないのだろうか。国家自身をして人の命を軽く見させるようになるという側面はないのだろうか。
被害者の親族の中でも最近は、犯人に死刑は望まないという方々もいる。立派な宗教者に多いだろうという気がするし、殺人犯にも親族がいるとの共感の思いの強い方々でもあろうかという気もする。これらの方々を傍らに見るとき、こんな言葉だけをマスコミが取り上げるかに見える現状は、いかにも単純かつ原始的だと僕には思える。
「こんなに哀しいのだから、この人に極刑を求めます」
ちなみに、死刑廃止がEU加盟の条件となっているというのも、彼の地が人権思想の発祥地であるとともに、キリスト教国であることとも無関係ではあるまい。もちろん、急いで言わなければならないが、キリスト教国が歴史的に殺人に荷担してこなかったという積もりは、僕には毛頭ないのだが。
最後に、この貧富の世襲が強まっている世の中では、死刑制度強化には強者の安全のために「危険な」弱者が手早く処理されるという側面が確かに存在すると僕は思うのだが、どうだろう。ニューヨークのハーレムと、厳重な塀によって世の中から隔離された「金持ち村」とがあるアメリカを思い描いている。超格差社会の中では、教育などの「チャンスの平等」はとっくに吹っ飛んでいるし、そういう階層が食えなくなる機会はどんどん増えている。他方、弱者を顧みない強者が日本などでどんどん増えているとも思う。
死刑制度強化が、「放置された弱者に対する、強者の報復、見せしめを強者が組織して、庶民がこれに荷担する」というような構図にならないことを望みたい。
日本国家が実施しつつある裁判員制度が話題を呼んでいる。また、「犯罪被害者家族の痛み」の問題などがマスコミによって大々的にキャンペーンされてもいる。死刑相当重罪犯の時効廃止も論議され始めた。いずれも死刑制度強化方針に連なっていることは明白であろう。国家による死刑執行件数が急に増えていることでもあるし。
これらの事態は、世界に目をやると日本だけの何か非常に特殊な傾向と言えるのではないか。まず、死刑を巡る世界の情勢を見てみよう。日本とは逆方向なのだ。本日の毎日新聞にこうあった。
「『アムネスティ・インターナショナル日本』によると、死刑を維持する国・地域は59。廃止した国・地域は、10年以上執行を停止している『事実上廃止』を含め138。廃止は潮流になりつつある。主要先進国で維持するのは、日本と米国。欧州連合(EU)は、死刑廃止が加盟の条件。日本と同様、国民が裁判に参加し、量刑まで決めるフランスやドイツの国民が死刑を言い渡すことはない」
先進国には少ないとされる死刑維持国には、人権意識の低い国が多い。国連の死刑廃止条約などに反対する代表的な国は、日本、米国のほかには中国、イスラム諸国などの名前がよくあがる。中国はネット検閲問題などを見ても全体主義的な国といって良かろう。イスラム諸国は女性や身分制度などに見るように、人権意識の低い国が多いのではないか。僕の感じにすぎないがイスラム原理主義は強硬な死刑維持派ではなかろうか。
この問題は、日本などの諸般の社会情勢を考えてみても、「国家と主権者の関係、そもそも論」を考える上でも、「人間論」という哲学の問題としても、非常に重要な問題を無数に含んでいると僕は考える。そしてまた、それらの重要問題は日本人が討論し慣れていないモノばかりのようにも、僕には見える。
2 制度強化の背景と思われるもの
制度強化の行方は、その背景と思われるものから、予測されるだろう。犯罪多発で、世界一安全といわれた日本の雲行きが怪しくなっている。これが何よりの国家動機だと思う。
昔捕らえたようなこそ泥、物損犯罪などはもはや警察の対象ではなくなったと見るのは、僕だけではないはずだ。「地縁」が消え、くっきりとしていた「日本人国境」もかなり怪しくなってきた。かって少なかったような種類の殺人も増えているのではないか。地縁、血縁は消えて、二つのバブル弾けをはさんだ新自由主義横行の中で失業者もまだまだ増え続けるだろう。地域の保護力、扶養力のようなものがなくなってしまい、困窮者は急増中であり、その生活ははなはだ厳しくなるばかりだ。
国家が「見せしめ、警鐘としての死刑制度」を強化しているのは、これらが背景となっているに違いない。それだけに、このままだと死刑囚は増えていくだろう。そんな時の裁判員制度設立は、「国民が死刑維持と言うのだ」と世界に対して国家が言い訳しようとしているようにしか僕には見えない。「国でなく、民意の死刑制度」と言えば、全体主義的臭いを消せるとの狙いもあるはずだ。日本の官僚の考え出しそうなことである。
3 僕の主張いろいろ
ところで、死刑とは国家の名で国民の命を奪うことだ。このこと自身が先ず「国家というものの土台に関わる例外的なこと」という認識がなければならないだろう。現代国家は、国民、その人権を基礎に成り立っているはずのものであり、その主権者の命を国家が奪うということなのだから。中国で死刑が多いことを日本国民はほぼこう捉えているはずだ。
「あの国は国家が人権以上に強いからなー。全体主義的だし」
裁判員制度とはいえ国家が死刑を増やすのであって、その全体主義的臭いを世界にまき散らすことを、国民は支持して良いのか。
また人権の中でも最も重い人の命の問題だということで、宗教的問題も絡んでこよう。「人の命の名前で人の命を奪う」という自己矛盾をはらんでいるとともに、そこから宗教的な問題も生じてくるということである。
そもそも人Aたちの「かけがえのない」命の名前で、人Bの「同じ重さの命」を奪って良いモノか? Aの命は帰ってこないうえに、もう一人殺すのだ。国家の意図とは逆に、国民が命を軽く考えるようになるということはないのだろうか。国家自身をして人の命を軽く見させるようになるという側面はないのだろうか。
被害者の親族の中でも最近は、犯人に死刑は望まないという方々もいる。立派な宗教者に多いだろうという気がするし、殺人犯にも親族がいるとの共感の思いの強い方々でもあろうかという気もする。これらの方々を傍らに見るとき、こんな言葉だけをマスコミが取り上げるかに見える現状は、いかにも単純かつ原始的だと僕には思える。
「こんなに哀しいのだから、この人に極刑を求めます」
ちなみに、死刑廃止がEU加盟の条件となっているというのも、彼の地が人権思想の発祥地であるとともに、キリスト教国であることとも無関係ではあるまい。もちろん、急いで言わなければならないが、キリスト教国が歴史的に殺人に荷担してこなかったという積もりは、僕には毛頭ないのだが。
最後に、この貧富の世襲が強まっている世の中では、死刑制度強化には強者の安全のために「危険な」弱者が手早く処理されるという側面が確かに存在すると僕は思うのだが、どうだろう。ニューヨークのハーレムと、厳重な塀によって世の中から隔離された「金持ち村」とがあるアメリカを思い描いている。超格差社会の中では、教育などの「チャンスの平等」はとっくに吹っ飛んでいるし、そういう階層が食えなくなる機会はどんどん増えている。他方、弱者を顧みない強者が日本などでどんどん増えているとも思う。
死刑制度強化が、「放置された弱者に対する、強者の報復、見せしめを強者が組織して、庶民がこれに荷担する」というような構図にならないことを望みたい。