12/19(木) 昨日は午後から雨となった、雪の予報もあり寒い一日。ベランダで寒さを堪えながタバコを吸いYOSHIOに云う。「寒いから暖かいものを喰わないか?安くて暖かいものなりゃあ“牛すき鍋膳”だな」と。
そんな次第で昨日の昼飯は、吉野家に向かった。時刻は13時30分、寒いな~と云いながら3・4分の処に在る店に向かった。この時刻なら貧乏人のメッカ吉野家のカウンターも二人で並ぶことができる。先週に来た折に貰った割引券(30円引きとなる)をカウンターに載せて「牛すき鍋膳」を注文した。
来た来たと、固形燃料が燃えてアツアツの牛鍋にセットの生卵を入れる。卵の周りが少し固まった頃合いを見計らって薄くてクジラの脂身のような牛肉に箸を付けた。一応白菜と豆腐の欠片、きしめんのようなウドンが少し入っている。鍋がぐつぐつと煮え、濃い味付けの出汁が効いて食が進む。
隣に座ったYOSHIOはガンガンと喰っていた。「どうしたんだよ、そんなに勢いよく喰っちゃって」問うと『寒いから早くあったまろうかと思って』と言う。食の細いYOSHIOにしては珍しいことだ。「俺たちゃ吉野家の救済に随分と役立っているな。これで売り上げアップ、黒字に転換だな」と、余計なことを言いあいながら、束の間のランチタイムを楽しむ。後から来た客も、当方をちらりと見て鍋膳を注文、生卵を鍋に入れた。このスタイルが流行そうだぜ「オヤジ風牛すき鍋の食しかた」・・・。
皆、齢を取り・・・
夜、恵比寿の「田吾作」に若い頃の仕事仲間四人が集まった。この店は昔よく来た、焼きトンとホイスを飲ませる店だ。こうして年に一度くらい、三十年以上前に職場を同じくした仲間で飲む。ABE&IMAI&TUNEMORIの後輩にあたる各氏だった。I&Tは未だ働いているが、Aは五年も前から優雅な日々を送っている。
遅れて来たTがホイスに口を付けるなり、出た言葉は「年金」であった。幾らもらえるんだとしきりに気にする。懇切丁寧に話してやるが、今一つ呑み込めぬ様子。ああでもない、こうでもないと騒がしい。彼の若者たちも齢を重ねたなと、実感する。
昔の仲間が集まれば、昔話となる。昭和50年代の前半から終わりにかけて、大手町に在ったビルの7階が彼らと過ごした時代。まあのんびりとしていたのは間違いない。事務用品の調達業務が仕事で、1・2印刷・備品・消耗品・用紙・被服・企画と七係に課長・調査役・課長補佐に其々の係長、総勢四十数名が在籍した課であった。
私も着任して驚いたのは、昼休みになるとトランプがあちこちで始まったこと。五時を過ぎると取引先応対用の長いカウンターで、酒盛りが始まる。企画係は飲んだ人数・名前を控え給与から天引きし、酒屋に毎日酒の注文をするのも大事な仕事であった。そんな職場は少なかったろうが・・・。未だ、貧乏な時代の残滓を引きづった職場だった。
それでも一応、年度末になれば契約の更改や手続きで忙しくはしていた。私のフィリピン旅行の予定は、局長説明の予定が一日ずれたために、出発の前夜に取り止めた。それなりに覚悟を持って仕事に向かってはいたが、いい時代さ。当時のことを思い出せば話題が尽きなかった。
そして民営化となり、大きな機構改革があった。あれだけ人のいた職場も解体され、分散された。新組織に移った元の職場に私が主査として戻った時は、十数名の小さな所帯ですっかりスリムになっていた。
この頃、松山に居るKATUTA君が一緒だった。人は減り仕事の守備範囲は増えていたが、今でとうりに仕事をやれ、手抜きは許さん「死んだら骨は拾ってやる」と檄を飛ばし、身勝手なことをほざいていた。私は、酒を飲みに行っていたのだが・・・。
逓信省時代から続いたその職場「用品課」の解散式をやろうと、昔の名簿を頼りにOBたちに声を掛けて盛大な解散式をホテルグランドパレスで行ったことも懐かしい。この時にピアノと唄をお願いしたのが禅の葉子さん、そしてコンパニオン代わりにアルバイトをさせたのは、六本木の飲み屋の姐さん方であった。
昔日の面影もなくし、安飯を喰らい安酒の日々、過ぎ去りし時代を懐かしむようではお仕舞か。されど、昔のメンバーと飲む酒は美味かったよ・・・。
して今朝のスムージーとなるが、今朝はリンゴ・柿・ミカン・ウコン・小松菜と並べてみたが、これじゃ果糖過多と柿は取り止めた。
ウコンの苦味が心地よい、飲むと云うよりは食べる、噛むような食感であった。