徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

「結果責任」―あるテレビ・ドキュメンタリーを見て―

2010-06-24 15:35:00 | 随想

沖縄戦後65年、「慰霊の日」に菅総理が就任後初めて沖縄を訪問した。
しかし、沖縄の基地負担に対して、謝罪と感謝がいまの沖縄の人たちにどう伝わったであろうか。
菅総理を迎えたのは、群衆の怒号と罵声であった――

去る19日夜、サッカーW杯日本対オランダ戦が日本全国を熱狂させていた、ちょうどその時間帯である。
この時間、NHKテレビは、「密使 若泉敬 沖縄返還の代償」というドキュメンタリーを放送していた。
この貴重な番組を見た人は、どの位いただろうか。
番組を見たという、ある主婦は、とてもサッカーどころではない話だったと述懐している。

14年前、沖縄にある国立戦没者墓苑に跪いて、ひたすら祈り続ける男の姿から、このドキュメンタリーは始まる。
佐藤栄作首相の時代に、沖縄返還問題で、アメリカと「密約」の交渉をした、若泉敬氏である。
若泉氏は、自分の努力が報われなかったことで、沖縄に対する「結果責任」をとるという「遺書」を残して、その1ヵ月後自死した。

当時、若泉氏は佐藤栄作首相の「密使」として、沖縄返還交渉にからむ、条文の作成に携わっていた。
いわゆる、沖縄の「密約」だ。
これには、有事の際に、核兵器を日本に持ち込むことを承諾し、沖縄米軍基地を期限の定めなく米軍が使用できることを取り決めた、恐るべき内容が記されていた。
それこそが、アメリカの日本への沖縄返還の条件であった。
沖縄返還から38年経ったいま、在日米軍基地の74%が沖縄に集中しているのだ。
米軍にとって、この沖縄の基地は不可欠のものだった。
これからも、そうなのか。

世界で唯一の核被爆国である、日本が提唱していた非核三原則は無視され、核が日本に持ち込まれていたという厳然たる事実・・・。
当時のしたたかなアメリカの対応は、敗戦国としても、腹立たしさを感じない日本人はいない。
若泉氏は、そのときの日米交渉の模様を記した文書とともに、200通の手紙を残していた。
それは、政府をはじめ、沖縄の問題に真直ぐに目を向けようとはしなかった人々への、静かな叫びであった。
若泉氏は、その他に3万点にも及ぶメモや書類を、死の直前にきれいに処分していた。

故佐藤栄作首相は、このときの「密約」を墓場まで持っていくつもりだったのだ。
そこまでしなければ、沖縄返還はならなかったのだ。
しかし、「返還」は本当にこれでよかったのか。
ドキュメンタリーは、そのことを鋭く問いかける。

日本の総理大臣が、誰に代わろうとも、日本政府が沖縄の米軍基地をなくすことは不可能に近いことなのだ。
「NHKスペシャル」は、沖縄の返還をもたらした「悲劇」をあからさまにする、非常に貴重な番組を放送してくれた。

沖縄返還といえば立派に聞こえるが、実体は名ばかりで、38年間何も変わっていない。
38年間ですよ。
これから先のことなど、誰にも分からない。
基地を持つ日本の、いや沖縄の悲劇がここにある。
そして、一体いつの日までそれは続くのか。
佐藤首相は、どのような気持ちでノーベル平和賞を受賞したのだろうか。

私たちは、いまでこそ実り豊かな本土の、死の盾となった沖縄について、もっと関心を持つべきではないかと思った。
20余万の人々の霊に、何をもって答えればよいのか。
この感動的なドキュメントを見終えたとき、目頭が熱くなった。
昨日も今日も、間違いなく日本の国の沖縄の空を、民家の屋根すれすれに、すさまじい轟音を響かせて、戦勝国の軍用機が飛行している。
沖縄は、何も変わっていないし、何も終わっていない。