五輪招致のために使ったお金は、どうも150億円どころではなさそうだ。
これは氷山の一角で、実際はそんなものではすまないらしい。
いろいろあるけれど、たとえば五輪招致を目的とした、度重なる豪華な海外旅行だが、これがすごい。
イギリス、スイス、シンガポール、ドイツ、中国と、06年6月から今年の4月のIOC視察まで、延べ60人以上で、飛行機はチャーター機かファーストクラス、宿泊は超一流クラスで、一人あたり100万円から460万円というから、推して知るべしである。
あれやこれやで、一事が万事、ドンブリ勘定だから、当初55億円だった招致経費は150億円にまで膨らんだ。
これだけで、驚くのは早い。
臨海副都心にある、31ヘクタールの選手村予定地の造成には、750億円もかかっているし、五輪招致前提で東京の大規模再開発が進んでいる。
こちらは、もう兆単位のプロジェクトだといわれる。
外環道路などを入れると、総事業費は8兆円だそうだ。
五輪が失敗して、いまさら大規模開発もへったくれもない。
いま、使ったお金はどれだけになるか、税金の使い道の細かいチェックが始まっている。
都知事自身、「都民に明らかにすることが、最低限の責任だ」と言っているが、当然のことだ。
一昨年3月、三選を図る都知事選のマニフェスト発表の席で、石原都知事は、「落選したら、その時の責任は取らなければならないでしょうな」と述べていたが、それでは、招致運動の責任の行方は一体どうなるのか。
しかも、一部報道によれば、東京都の自己PRのことごとくがウソだったらしいし、身内だけのネット調査で、世論調査では非常に高い支持率を得たなんて言いふらしていたのだ。
そんなことが、IOCのメンバーにわからないとでも思っていたのだろうか。
招致活動の中心にいたのは、広告代理店やテレビ局のようで、特番やCMをはじめとして、招致盛り上げのために3年間で95億円もの大金を投じ、この金がテレビに流れたというではないか。
このうち3分の2が税金なのだ。
つまり、都知事のパフォーマンス(?)の片棒をかついで、じゃんじゃんCMを垂れ流したテレビ局がまんまと儲けたのだ。
とにかく、招致失敗については、見苦しい言い訳ばかりが目立っている。
都知事は、帰国したその足で、お礼と称して鳩山総理の自宅を訪れ、あたかも総理と自分の‘連帯責任’を演出しているかのように映る。
やっぱり、都議会での民主党の口撃を恐れているのか。
いまもくすぶり続けている鳩山献金問題について、総選挙のとき、「完全に、これはサギではないか」と口汚くののしっておきながら、おのれの損得となると別人のように豹変する。
どうなっているのか。
何だか、さもしいというか、いやらしさまで目についてやりきれない。
無責任が、一番よくないことだ。
「金返せ!!」コールさえ起きている。
すぐ、他人に責任転嫁するのもどうか。
東京五輪招致のこの一件、いたらなかったのであれば、自分の能力不足を認めて、もっと潔くできないものだろうか。
しかるべき、責任の取り方もあるのではないか。
予想通りだった。
五輪招致で、東京はあっけなく敗れた。
招致を期待していた人たちには、残念な結果だった。
2016年の開催国は、ブラジルのリオデジャネイロに決定した。
南半球では初めてだというから、これはこれでよかったのではという気がする。
昨年北京で開催されたのに、7年後にまたアジアで開催というのはありえない話だったし、いまの東京はリオデジャネイロを圧倒するような話題にも乏しい。
選手村予定地の狭いことも、言われていた。
それに、この不況のさなかに、開催賛成を叫ぶ世論も支持率も低く、後押しが寂しかった。
審査会場での、リオのあのすごい熱気はどうだ。
とても、日本の比なんかではない。
内憂外患、難問山積のさなか、1泊3日のデンマーク行きに超多忙の鳩山総理まで担ぎ出した。
なにせ東京都は、これまで3年間も招致運動をやってきて、使われた税金が150億円である。
それが、あっという間に水の泡と消えてしまった。
ため息がもれる。
この、壮大なるムダ遣い(?!)に、損害賠償責任はないのだろうか。
石原都知事は、これで何を残したか。
150億円の中身を知って、驚くばかりだ。
内訳は、接待費、プロモーションビデオ、ノボリの広報活動費、招致委員会の旅費、それにプレゼン衣装1着30万円のスーツ50着などだ。
宿泊する高級ホテルは、1泊10万円するそうだ。
コペンハーゲンに行くだけでも、鳩山総理の分まで含めると、政府専用機の燃料代や整備費、クルーやSP政府関係者の宿泊費など、IOC総会の「応援ツアー」だけで総額1億円は下らないといわれている。
本当に、とんだ‘カネ食い虫’とは、よくいったものです。
公権力の上に立つと、個人的な事情や政治的な思惑があって、五輪招致にとことんこだわったのか。
新銀行東京の乱脈経営といい、築地市場の移転問題といい、都知事の失政が次々と明らかになっている。
オリンピックが成功すれば、歴史に名が残るからと、よこしまな計算が働いたのだろうか。
一体、誰のためのオリンピックを考えていたのか、だ。
今回の落選は、予想通りの落選だと、巷ではもっぱらだ。
政治の力学がどうとかこうとか、言い訳ばかり言っている。
負けは負け、敗者は敗者だ!おのれのいたらなさをこそ、知るべしではないのか。
唯我独尊・・・、何という見苦しさか。
いつも、この人はこうだ。
150億円は、返済されるのか。
これだけのお金があれば、保育所や託児所がどれだけできるか。
八ッ場ダムの問題が、建設中止と決まって、その負担金525億円を返せと言い出したのは、どこのどなたでしたか。
ドブに捨てたと見られている、150億円の損害を賠償する責任はないのだろうか。
鳩山総理のコペンハーゲン行きも、結局上手く利用されたのだ。
東京が落選したとして、都知事のおひざもと都庁では、職員たちがホッとしているという。
それもそのはずで、職員の9割までが、東京にオリンピックが来るわけもなく、来てほしくないと言っていたのだから。
それで、もし東京開催が決まったらどうなっただろうか。
凄まじい混乱が、待っていたのではないか。
五輪開催には、実に3100億円の予算が組まれていたそうだ。
都の財政だって、大変だ。
職員たちは、知事が2020年五輪に再チャレンジを言い出すのではないかと、ハラハラしているのだ。
もっとも、そのときには石原知事ではないだろうが・・・。
とにかく、個人の政治的な(?)野心に、巨額な税金がムダ遣いされてはかなわない。
知事は、「開催が東京でなくて、大変残念に思う」と言ったが、それで済まされる問題ではない。
このムダ遣いの責任と賠償問題、とことん追求していくことが必要だ。
・・・ところで別の話だが、横浜市の開国博Y150が先月閉幕して、入場者数が惨憺たる結果だった。
見込んでいた500万人に対して、入ったのはわずか4分の1の124万人だった。
中田前市長は、任期途中で辞職してしまったが、157億円もの総予算をかけながら、見込んでいた入場者収入も24億円では、トホホ・・・というわけだ。
前市長の謝罪の弁もなく、市議会では検証のため参考人招致を決めたが、当人は応ずる気配がない。
アトラクションなど内容に乏しく、すぐ見終わってしまうのに、2400円もの入場料はいかにも高すぎると言う声をいたるところで耳にした。
前市長を支えていた、副市長は責任を取って辞任したが、中田氏は説明責任を果たすべきではないだろうか。
人は、それを愛ゆえの過ちだというだろうか。
人は、それを愛ゆえの宿命だというだろうか。
ドラマティックな作品が、登場した。
ギジェルモ・アリアガ監督による、長編初作品のアメリカ映画である。
愛ゆえにおかした過ちというなら、人はその深い闇から、どのようにして再生していくのか。
シャーリーズ・セロン、キム・ベイシンガーという、二大アカデミー女優の共演が見ものだ。
なるほど、これはまた、壮大な愛と宿命の物語か。
愛とは、一体何だろうか。
愛だからこそ、深い傷を抱える女性が、苦しみつつも、再び愛によって希望を見出す姿を、この作品は時と場所を越えて描き出している。
構想15年、過去と現在が間断なく交錯し、いくつものエピソードが、やがてひとつの物語に絡み合っていく、このプロットの上手さにはしびれる・・・。
いったんばらばらにした物語の断片が、モザイクのように組み合わさっていく手法だ。
はじめて観るとき、断片と断片との間にどんな繋がりがあるのかは、ドラマの中盤にくるまでわからない。
そして、映画の進行につれて、その関係が次第に明らかになる。
ああ、やっぱりそうだったのかと、このエンターテインメントの興奮に目が覚めるといった按配だ。
オレゴン州ポートランドの、海辺の高級レストランで働くシルヴィア(シャーリーズ・セロン)は、美しく有能で、周りの誰からも信頼されていた。
しかし、ひとたび職場を離れると、行きずりの男と安易に関係を結び、まるであたかも自らを罰するかのように、自傷行為に走るのだった。
そんなシルヴィアの前に、娘と名乗る少女マリア(テッサ・イア)が現われた。
マリアは、シルヴィアがかつてマリアーナ(ジェニファー・ローレンス)と呼ばれていた頃に産んで、2日後に別れた娘だった。
娘との、突然の再会に動揺し、思わず逃げ出すシルヴィアであった。
その脳裏には、ニューメキシコでの若き日のあの過ちが甦る・・・。
かつて、まだ十代だったマリアーナは、心の傷から不倫に走った美しい母ジーナ(キム・ベイシンガー)と、優しい父ロバート(ブレット・カレン)、そして3人の弟妹と、メキシコ国境に近い町に住んでいた。
表向き、家族は仲むつまじく、幸福そうであった。
ある日、買い物に出たまま、帰宅が遅れるようになったジーナに不審を抱いたマリアーナは、こっそり跡をつけ、母の不倫を目撃してしまうのだ。
ジーナの情事の相手は、別の町に住むメキシコ人ニック(ヨアキム・デ・アルメイダ)だった。
それぞれの家庭を持つ二人は、中間地点の荒野のトレーラーハウスを忍び逢いの場所に選び、そこで貪るように愛を交わしていた。
ジーナは、ときに家族のことを思い、ニックと別れようと決心しても、いざとなると情事から身をひくことができない。
そんな二人の情事を、唐突に終わらせたのは、トレーラーハウスの炎上事故であった。
ジーナとミックは、抱き合ったまま炎に包まれ、帰らぬ人となってしまった・・・。
マリアーナが助かってほしいと念じても、二人は助かるはずがなかったのだ。
それは、未必の故意だったのか。
この事故は、マリアーナの心に深い傷跡を残し、ニックの息子サンティアゴ(J・D・パルド)も混乱し、戸惑いを隠せない。
彼の父は、炎の中で何を思ったか。
その答えを探ろうとするかのように、マリアーナに近づくサンティアゴ・・・。
互いに、それぞれの母と父の姿を相手に重ね合わせる内に、二人は本当に愛し合うようになった。
それは、決して周囲に受け入れられぬ、禁断の恋であった。
マリアーナは、すでに妊娠していた。
二人はメキシコへ駆け落ちし、数ヵ月後にマリアーナはマリアを産んだのだ・・・。
あれから12年、マリアーナの名とともに、置き去りにしたまま、自ら封印した過去と向き合うべき時が訪れたのだった。
トレーラー炎上にまつわる、残酷な真実が明かされていく。
母ジーナの過ちと、それ以上に重い自分自身の罪・・・。
二重の十字架を背負ったシルヴィアに、自らの再生はあるのだろうか。
映画の邦訳タイトル部分の「欲望」は、どうか。
この場合の「欲望」は、あまり適切ではないように思える。
・・・そして、よりによって、母の不倫相手の息子と愛し合うことになるとは・・・。
娘は母を恨み、同時に愛していることが、実に皮肉なドラマだ。
海辺の町の寂しい風景と、渇ききった灼熱の大地が象徴的だ。
それにしても、愛すべき母の不倫を憎むあまり、トレーラーハウスの中に閉じ込めた、母ジーナと相手の男(自らが愛したサンティアゴの父)を、何故生かすことをせず、凄惨な炎の地獄で、最悪の結果を招くことになってしまったのか。
・・・シルヴィアは、このときから十字架を背負っていたのだ。
このドラマの、巧妙なストーリーテリングに素直に脱帽だ。
現実離れしているが、よく練られたシナリオだし、二つの時間と国境を越えて二つの国をめぐるプロットともども、撮影もなかなかのものがあって、見応えがある。
二人の女の、母から娘へ、三世代に渡る愛と宿命の相関図だ。
そうなのだ、愛と宿命の・・・。
人は、愛に傷つきながら、なおその愛に潜む危うさからは、逃れられないものなのだろうか。
このアメリカ映画、ギジェルモ・アリアガ監督の「あの日、欲望の大地で」は、十分に楽しめる作品だ。
上映館に若い女性が多かったのは、少し意外な印象だった。
シャーリー・セロンは、重い過去を背負い、感情を押し殺して生きるヒロイン・シルヴィアを、また製作総指揮として母親役のキム・ベイシンガーは、愛を渇望し、性の衝動に身を委ねる女の葛藤を、繊細かつたおやかに演じる。
もうひとりのヒロインは、若き日のシルヴィアを演じる新人ジェニファー・ローレンスで、母を慕いながらも嫌悪する少女の心理を自然体で表現し、ヴェネチア映画祭の新人賞(マルチェロ・マストロヤンニ賞)に輝いた。
登場人物の心象風景を、美しい旋律で照らし出した音楽もいい。
エンドロールとともに流れるメロディが、ドラマを観終えて、なお胸に響く・・・。