愛など信じたら、すべてが消えてしまうと、男は恐れている。
すべてを失った後に、残るのが愛だと、女は知っている。
今年は太宰治生誕100年で、何かと注目が集まっている。
自虐的で、暗いイメージで捉えられがちだが、彼の描く男女は、実は細やかな心理描写とユーモアのある表現で、さまざまな「愛」のかたちを描いている。
フランス中世末期の、放蕩無頼の詩人の名からつけられたタイトルだ。
太宰治は、あのフランソワ・ヴィヨンの放埓より、無頼な生き方から生まれた、美しい詩に惹かれていたといわれる。
根岸吉太郎監督は、この「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~」映画化にあたって、太宰治の作品群から、エッセンスを絶妙に配合し、ある夫婦をめぐる「愛」の物語として描いた。
戦後の、混乱期の東京が舞台だ。
秀でた才能を持つ小説家でありながら、酒を飲み歩き、借金を重ね、妻以外の女性とも深い関係に落ちる。
破滅的な生活を送る大谷(浅野忠信)は、ある夜、酒代を踏み倒したうえに、その飲み屋から5千円という大金を盗んで逃げた。
その大谷を追いかけて、飲み屋夫婦の吉蔵(伊武雅刀)と巳代(室井滋)が、大谷の自宅までやって来た。
妻の佐知(松たか子)が、大谷と飲み屋夫婦の言い争いに割って入った瞬間、大谷はその場から逃げ出してしまった。
誠実な美しい妻・佐知は、警察沙汰になるだけは許してもらおうと、吉蔵と巳代が営む飲み屋“椿屋”で働くことにした。
意外にも、水を得た魚のように生き生きと働く佐知の姿は、あっという間に店の人気者になった。
大谷は、相変わらずの生活を続けていた。
たまに家に帰っても、何かに追われるようにわめき、佐知に救いを求める。
だが、またふらりと出て行ってしまうのだ。
だから、あまり家では会うことのなかった夫と、椿屋で会うことが出来るようになった佐知は、そのことがとてもうれしく、幸せであった。
そんな佐知は、常連客の一人である大谷ファンの青年・岡田(妻夫木聡)や、かつて佐知が想いを寄せていた、弁護士・辻(堤真一)から好意を寄せられる。
見違えるように、美しくなっていく佐知に嫉妬する大谷・・・。
書くこと、そして生きることに懊悩する大谷は、愛人の秋子(広末涼子)と、心中未遂事件を起こしてしまった。
それを知った、佐知は・・・。
夫婦の一方が浮気をすれば、いまならすぐに離婚する夫婦や、ちょっと会わないから別れてしまうというカップルが多いが、この夫婦は決して別れない。
これを、腐れ縁というのかも知れない。
自分たちに起こる、さまざまな“負”の出来事やダメージを、すべて自分たちで回収していこうとする覚悟みたいなものが、とくに佐知には強い。
だらしない程弱々しい男なのに、それでも尽くして、愛を支えようとする深い理解は、今の若い夫婦にどう映るだろうか。
ヒロインの松たか子は、動物的なしなやかさで、全く佐知になりきっている。
佐知はよく描かれているが、一方の夫の大谷はどうか。
大谷は、太宰を髣髴とさせる無頼作家だ。当然彼がモデルだ。
ただ、もともと厭世的な人物像は浮かんでくるけれど、どうも、作家としての懊悩や苦悩が、徹底して描ききれていない。
血を吐くような、苦悩があったはずだ。
それにイメージがぴんとこなくて、このキャスティングには、首をかしげざるを得ない。
佐知役の松たか子はこう言っている。
「佐知と大谷は、互いの無垢な部分に惹かれあい、お互いの弱さを知っている夫婦なんです。佐知を演じていて強く感じたことは、それは、佐知の大谷への想いが一途で深く、決して揺るがないものなんだということで、信じて歩いていく佐知の姿は清清しいです」
気丈なことを言う佐知に対して、夫の大谷はいつもこんな弱々しいことばかり言っている。
「男には、不幸だけがあるのです。いつも恐怖と、戦ってばかりいるいるのです」
・・・何とも、やりきれない男を描いて、どうもという感じだ。
愛に迷い、そして愛に生きる、誰もが皆・・・。
実に理解しがたい夫婦の関係を描いて、いま改めて人間太宰治の世界観の一端を覗き見るようだ。
脚本を担当した田中陽造は、松たか子のためにこの本を書いたと語っている。
彼女は初め脚本を読んで、「自信がない」と泣き出しそうだったそうだ。
そこを説得されて、「頑張ります」と挨拶された田中は、「頑張らなくていい、あなたをイメージして書いた本だから、どんなに下手に演じても大丈夫だから」と答えたそうである。
松たか子は、さらに根岸監督には「佐知は、大谷のことがずっと好きでいいんですね」と確認し、映画でこの難役を演じたというエピソードがある。
戦後という時代を感じさせる、よくできた作品だ。
根岸吉太郎監督の、この作品「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~」は、昨年「おくりびと」がグランプリを受賞したモントリオール世界映画祭で、ついこの間最優秀監督賞受賞に輝いた。
日本映画頑張れ・・・!
映画の最後のシーンで、ヒロインの佐知が、どうしようもない夫の大谷と手を取り合って言う台詞が決まっているではないか。
この台詞、太宰治の原作「ヴィヨンの妻」の終章と寸分も違わない。
「人でもいいじゃないの。私たちは、生きてさえすればいいのよ」
この一言のために、この作品は作られたかのようなエンディングだ。
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ただ、太宰の死は、芥川や川端の死とは大分意味合いが違いすぎて、どうもといったところです。