中野みどりの紬きもの塾

染織家中野みどりの「紬きもの塾」。その記録を中心に紬織り、着物、工芸、自然を綴ります。

『現代工芸論』(笹山央著)出版記念鼎談を傍聴して

2014年04月27日 | 工芸・アート
先日のギャルリ・プス企画の『現代工芸論』(笹山央著)出版記念鼎談の傍聴をしました。

「ただそこにあるもの」という長谷川直人氏の灌木の根とガラスを素材とした作品タイトルにちなんでそのテーマで今の美術の関心事を三人が語るという趣向でスタートしました。

1時間あまり、三者(長谷川直人氏、井上明彦氏、笹山央氏)の話のやりとりがあり、最後に傍聴者からの質問を受ける時間がありました。そこで特に印象に残った質問についてご紹介します。

京都市芸術大学助教授で美術家の井上氏に(学生たちと器をつくろう!というコンセプトを立てて器を作った話をされたのですが)京都の器系の陶芸家が傍聴されていて、「美術の方がなぜ器を作るのですか?」と聞かれました。

井上氏は即座に「美術は根付いていない、上げ底、工芸にコンプレックスがあるのです」と。
(工芸も美術に対するコンプレックス、憧れもあると思いますが・・)。

ゆっくり話を聞く時間もなくそれ以上のことは聞けなかったのですが、アルミの板を打って器を作ったその器の作品タイトルは『打つわ』としたそうです。

タイトル『打つわ』は“器”とは何か、“打つ”という行為は何を意味するのかを考えるきっかけにもなるタイトルです。アートは普段当たり前のように思っていたり、見過ごしたり深く考えていなかった何かの気付きや発見、考察の機会をあたえてくれます。

井上氏は美術も工芸もデザインも地続きのものと考えているとのことですが、元々それぞれを分断したり上下をつけたりするものでもなかったわけで、現代でいうところの「工芸」と「美術」はそれぞれの領域が重なり、内包し合う部分が多いので、対立するようなものではないと思います。
むしろ純粋美術というものを探すほうが難しいです。工芸的要素を含まない表現はほとんどないのではないでしょうか?
絵画でも彫刻でも素材、道具、技を抜きには表現もないわけです。

今回の鼎談のテーマは「今の美術の関心事・・・」ということでしたが、器(原初的、広義の意味、も含め)の話が他にもいろいろ出ました。
着物も人を包む器と見ることもできますね。
器の話を抜きに美術は語れないのかもしれません。

紬の着物にしても、用途を満たす技術や素材の選定がなければもちろん成り立ちませんが、美しさや、安らぎのある布としての精神性を満たす美術的要素も備えていなければなりません。

また現代社会の中で着物を作り続けることの意味を作り手も着手も問うていかなければならないなどの社会との関わり、人との関わりなしに成立しません。
個人の自己顕示のためだけにあるものではありません。

現代の工芸、美術(アート)はいわゆる生業にはなりにくい状況の中にありますが、このままで本当にいいものは生まれてくるのでしょうか?

売り物を作ることはアートではないとか、逆に売れているからいいのだとか、それも不毛の水かけ論に思えてなりません。工芸、美術を特別視せず、いい仕事をしていくための経済力もそれぞれの立場で探っていかなければならないのは当然のことです。

現代社会に於いて、工芸、美術(アート)はどのような形にせよ、よいものが人々の中に力を持って生きてあるものだと思います。世に問うものだと思います。

今回の鼎談を聴き、私自身もよいもの作りをしたいですし、社会の受け入れや広め方ももっと活発にしなければなりません(紬きもの塾もその一つの場です)。
素材を見る力や技を磨く、鑑賞力を高めることも大切です。

笹山氏が若かった30年前ぐらいにはこういったことのディスカッションもよく行われていたということです。今はめっきり少なくなったようです。

かたち21でもこの『現代工芸論』の出版の記念を兼ねて、工芸を再考できる催しを検討中です。
観念的な話だけではなく、実践的な具体的な話が出来るといいと思います。
もちろん作り手も使い手(鑑賞者)も一緒に参加できる会で。

この鼎談にも紬塾から2名参加してくださり、一緒に夕食を摂りながら更に話を深めることができ、有意義な時間を過ごさせてもらいました。

若い人ともこれからの着物、工芸、美術、“地続き”で語り合っていきたいと思いました。


コメント
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