年金受給者の日々へ 悪戦苦闘の記録から

自分のXデーに向かってまっすぐに走る日々
   年金受給前の悪戦苦闘の日々より

あてにせず

2010-10-02 00:00:00 | Weblog
 毎日いろんな方の就職支援をしていると、ふと感じることがあることの一つに、人はなぜ働きたいのだろうか、というものがある。成人は働くのが当たり前だろうという意見の前に立ちふさがる疑問である。若い人と相対面している時よりも、中高年、特に60歳以上の人が働きたい意欲を駆り立てるものの理由には確かに生活費の補填のためとかお小遣い欲しさのためとかの理由をつけて、相談員の私に向かい、どこか自分がやれそうな仕事を紹介してくれ、と話し掛けてこられる。しかしよくよく話をお聞きしていると、ジットしていれば極貧の最低生活は、きっと守ることができそうであるにもかかわらずである。ジットする、つまり孤独の中で日がな一日、また365日送ることができないがために社会に出て働きたい・・と言っているように私には聞こえてならない。人は、喰って寝てゴソゴソ身体を動かすだけの生活をすることで満足できるものではないことを、暗に私に伝えているのかもしれない。人と繋がるために、心地よい感情のなかで日々を送らんがために、その場所を求めて私に向かって、その場所を探してくれ・・・と心からの叫びのようにも聞こえる。何も生活を守るためとかではなく、むしろ孤独感からの解放のために仕事に向かうように感じる。
 「森の生活」を書き記したソローの、自分一人という個の中の宇宙で自然と共に暮らすことができるようにならないものだろうか、と自分は念願している。
 2ヶ月に及ぶ入院中の弟が病院の中のベッド生活に飽き飽きしてきて医師や看護士に文句を言っている。今日帰る、などと宣言したものの自分一人ではどうすることもできず、私と妻が病院へ向かう。結局、多忙な医師と連絡が取れなく、今日のところは弟を久し振りの温泉へ連れて行くことにした。タオルも絞ることができないほど、一人で浴槽に浸かることもできない体につき、頭から身体までゴシゴシと垢を落とす。本人は気持ちいい、垢が落ちた分体が軽くなった・・・などと喜んだ。ついでに病院食が大変マヅいのでここでで肉うどんを食べて帰る・・と言った。
 一人になりたいけれど一人では生きてゆけない、弟ではある。(写)小安居島