◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 六
飛騨高山(岐阜県高山市)と、泉州岸和田(大阪府岸和田市)は、金森氏、あるいは、金森宗和を通して因縁浅からぬ関係がある。
岸和田は、室町期には単に【岸】とよばれていたようであるが、一説に、建武元年(一三三四)、楠木正成の一族である和田高家が、「岸」の地に城を築き、この故をもって「岸の和田殿」と呼んだのが、【岸和田】となったといわれる。
戦国時代もほぼ終わりを告げようとした慶長九年(一六〇四)、豊臣秀吉の叔父にあたる小出秀政の死後、その子、小出吉政は出石藩(兵庫県)から和泉国岸和田藩に移封され、
岸和田城主となって入城した。当初の家禄は三千石、のちに三万石に加増されている。
戦国時代の岸和田は、紀州根来寺を監視する重要地であった。大坂夏の陣のとき、金森可重(かなもりありしげ)は大坂城の戦には加わらず、小出大和守吉英の岸和田城の守備を命じられた。
飛騨高山(岐阜県高山市)と、泉州岸和田(大阪府岸和田市)は、金森氏、あるいは、金森宗和を通して因縁浅からぬ関係がある。
岸和田は、室町期には単に【岸】とよばれていたようであるが、一説に、建武元年(一三三四)、楠木正成の一族である和田高家が、「岸」の地に城を築き、この故をもって「岸の和田殿」と呼んだのが、【岸和田】となったといわれる。
戦国時代もほぼ終わりを告げようとした慶長九年(一六〇四)、豊臣秀吉の叔父にあたる小出秀政の死後、その子、小出吉政は出石藩(兵庫県)から和泉国岸和田藩に移封され、
岸和田城主となって入城した。当初の家禄は三千石、のちに三万石に加増されている。
戦国時代の岸和田は、紀州根来寺を監視する重要地であった。大坂夏の陣のとき、金森可重(かなもりありしげ)は大坂城の戦には加わらず、小出大和守吉英の岸和田城の守備を命じられた。