暘州通信

日本の山車

◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 六

2011年01月31日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 六
 飛騨高山(岐阜県高山市)と、泉州岸和田(大阪府岸和田市)は、金森氏、あるいは、金森宗和を通して因縁浅からぬ関係がある。
 岸和田は、室町期には単に【岸】とよばれていたようであるが、一説に、建武元年(一三三四)、楠木正成の一族である和田高家が、「岸」の地に城を築き、この故をもって「岸の和田殿」と呼んだのが、【岸和田】となったといわれる。
 戦国時代もほぼ終わりを告げようとした慶長九年(一六〇四)、豊臣秀吉の叔父にあたる小出秀政の死後、その子、小出吉政は出石藩(兵庫県)から和泉国岸和田藩に移封され、
岸和田城主となって入城した。当初の家禄は三千石、のちに三万石に加増されている。
 戦国時代の岸和田は、紀州根来寺を監視する重要地であった。大坂夏の陣のとき、金森可重(かなもりありしげ)は大坂城の戦には加わらず、小出大和守吉英の岸和田城の守備を命じられた。

◆05752 亀山神社祭

2011年01月31日 | 日本の山車
◆05752 亀山神社祭
□社名 亀山神社
□所在地 福岡県鞍手郡小竹町
□祭神
□祭は八月下旬。
□山車
山車(飾山笠)、一臺。
□汎論
 亀山神社の創祀は不明である。宝暦二年に天満宮に移り、さらに享保十二年に現在地に遷座された。当地の地名を亀山ということから、亀山神社と改称された。
 明治十五年頃、勝野村明楽寺の近くに住んでいた宗右衛門らにより【勝楽舎】が組織され、上方の人形浄瑠璃が伝わった記録があり、今もそのころ使われた人形の頭が保存されている。

□外部リンク
「日本の山車」を執筆している一人閑(ひとりしずか)と申します。早速ですが、貴方のブログ記事を「外部リンク」として紹介させていただきましたのでお知らせします。もしご迷惑でしたらお申し出ください。削除いたします。
◇日本の山車 ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/ypjcd447/
◇日本の山車 ホームページ
http://hiyou.easy-magic.com/

◇鵠沼皇大神宮人形山車
2010/8/17(火) 午後 6:56
人形山車という面白そうな祭があったので見に行きました。山車は全部で9基、山車の上には歴史上の人物の大きな人形が立っていました。 山車が行列をして神社へ向かいます 神社の入り口に両側に分かれて集合 山車の上では神楽が奉納されます お囃子 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/lassiejp55/31839991.html

◇平成21年赤坂氷川神社例大祭 源氏人形山車巡行
2009/9/28(月) 午前 1:33
平成21年赤坂氷川神社例大祭 源氏人形山車巡行 平成21年9月19日 赤坂氷川神社 三年に一度の本祭 19日土曜は伝馬町会「頼義」 一ツ木町会「頼朝」の山車が東京赤坂周辺を巡行した。東京のど真 ん中の祭なので画像を見れば分かるように ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/ma1_a/51011375.html

◇山車からくり人形見る
2009/4/4(土) 午後 11:04
今日、岐阜の伊奈波神社の祭。 岐阜市に3台ある、「山車」(だし)の一つ。 「清影車」(せいえいしゃ)そのからくり人形を見ました。 采振り人形(御祓いをする人形) 豊玉姫が、→ 変身。「龍神」(りゅうじん) となって舞う。 からくり人形が ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/yagi_koubou/14223920.html

◇人形山車とお囃子の競演のお祭り
2008/8/18(月) 午後 2:48
... 鳥居を潜って人形山車が神社の広場に入場してきます。しかし、ブルーのシートを掛けられた山車には少し興が薄れます。  見物客にとっては、祇園祭のように雨対策を施した工夫が望まれるところです。  山車は入場すると一端所定の場所で待機します。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/weblogrom_an/23918913.html

◆03123 貴船神社祭

2011年01月31日 | 日本の山車
◆03123 貴船神社祭
□社名 貴船神社
□所在地 福岡県鞍手郡小竹町小竹
□祭神
□祭は七月中旬。
□山車
山車(飾山、山笠)が各一臺出る。
□汎論
 貴船神社の創祀は不明、地元の伝承では現在の社殿の建立は、享和年間(一八〇一-一八〇四)と伝わる。神社はおそらく京都の貴船神社から祭神を迎えたのであろうが、祭は祗園祭として行われており、家内安全、交通安全、商売繁盛が祈願されている。
 山笠は、車輪のある長方形の基臺のうえに長い四本の丸木を前後に通し、その上に四方を青竹で組んだ勾欄をめぐらして内に中臺が設けられる。つまり、過去には舁山であった形態を継承しながら曳山となっている。勾欄は前後左右を三分割し、各勾欄柱は他の地区の山笠で見られるような巻藁の緩衝材がつけられる。中臺の柱は、五色の縦継ぎの大幕で覆われている。色の配列は左(向かって右から)から、緑、黄、赤、白、黒となっている。中臺は上に向かって末広状にひろがる。柱には【小竹祗園山笠】と書かれた白抜き、赤地の幟が四方に立てられる。
 中臺上部は、紺の水引幕がかかりさらにその上は注連縄(しめなわ)が盤らされる。上臺は前面に堤燈枠がつき、この枠に七個の白長堤燈がつけられる。上臺は、
中臺と同じように、上部に向かって開放する幕で覆われる、色の配列は中臺と同じである。中臺の前後には御立臺があり、少年二人が立つが、赤い法被を着た女性が立つこともあるのが珍しく、強い印象を受ける。
 山笠は所定の場所まで曳かれると、喚声とともに大きく前後に煽られる。