暘州通信

日本の山車

◆左甚五郎 「日光の眠り猫」外伝

2011年01月08日 | 日本の山車 左甚五郎
◆左甚五郎 「日光の眠り猫」外伝
 こんなお話があります。日光東照宮の造営に関わっていたときのことです。このときは甲良豊後守(こうらぶんごのかみ・斐太で修行して当代随一の宮大工と言われた人です) 左甚五郎はこの宮大工に招聘されて日光のお仕事を手伝ったようですが、来る日もくる日も山中でのお仕事ですから、もともとあまりまじめ人間ではない左甚五郎は、秋も次第に深まり日も短くなって、宵闇がせまるともうじっとしていられません、赤提灯が恋しくなってきます。そこで仕事場をそっと抜け出して麓の鹿沼宿にやってくるとやれ嬉しや、一軒の飲み屋が目につきました。見ると薄汚い軒の傾いた一軒の飲み屋です。もとは旅籠だったそうですが、主人が若いとき放蕩三昧で、あわれその行く末が今のざまです。と鼻水をすすりながら愚痴をこぼします。
 酒さえあれば店の汚いのなぞ気にしない左甚五郎、ついしばらく酒を断っていたこともあって、ついつい酩酊するまで飲み続け、はてはへべれけになって店の隅で眠り込んでしまいました。
 あくる日になるとすっかり酔いの醒めた甚五郎、案の定、甚五郎には金子の持ち合わせがありません。左甚五郎はそのまま数日滞在しましたが、主人は語気鋭く勘定の支払いをせまりますが支払いなどできようはずがありません。このあいだに見るからにみすぼらしい一匹の猫を彫り上げました。甚五郎はやおらこの猫を主人に示し、これを勘定代わりにとってくれと差しだしました。主人はそれを手にとって、しげしげと見つめていましたが、どう見ても猫には見えない…? しかし、言われてみれば猫が体を丸めて薄目を瞑って居る姿に見えなくもない。主人は怒って甚五郎を裸にし、大切に持っていた宇多國長が鍛えた一本の鑿まで取り上げてしまったのです。これにはさすがの左甚五郎も困り果てました。
 左甚五郎は、同情した宿場女郎の情けで昼はどうやら人目を避けることができました。 さて、夜も更けて、深夜になると飲み屋の外まで来て小さな声で「ちゅう」と呼びかけると、中から猫が「にゃあ~お」と応じ、右手で閂をはずしそっと戸を引きあけて、「おいでおいで」をして左甚五郎を中に入れてくれました。
 おかげで甚五郎は着物と鑿を取り戻し、一目散に日光に逃げ帰ったのでした。
 いつとはなしにこの話が伝わると一目見んものと人々が押し寄せてくるようになります。 戸口の外に立って人々が「ちゅう」とないてみせると、「にゃあ~お」と啼いて、戸がスルスルと引き開けられ、お礼に一文銭を投げ込むと、猫がうっすら眼を開いて、にっこりと笑い、右手を挙げてバイバイをして戸を閉めたといいますが、これは後の作り話でしょう。
 さあこれが評判になって人々が押し寄せ、たいへんな騒ぎになりました。一目見んものと押しかけた人が行列を作り、嘘か真か、延々と徳次良(とくじら)のあたりまで続いたといいます。見そびれた人たちは鹿沼宿にわらじを脱ぎましたから、旅籠も大繁盛。飲み屋の主人は、かの宿場女郎と語らい、一番から百番まで番号をつけ、この木札を持った人を優先的に扱うようにしましたから、遊郭も大繁盛しました。現在の石橋町のあたりだったと言いますが、現在ではどのあたりになるでしょうか・
 この話が将軍様のお耳に入って、左甚五郎の彫った猫はお召しあげとなって、日光東照宮の霊廟に通じる長押の上に飾られることとなりました。このとき猫らしく綺麗に着色されたのですが、猫は気に入らないらしく、その後はずっと不貞寝をしたままになりました。飲み屋の親父は、「飢えた虎はよたよた歩くというが、まったく惜しいことをしたわい。それにしても甚五郎先生にはすまないことをした」と語っていたそうです。
 のちに、ひとびとはこれを【左甚五郎作の日光の眠り猫】と呼ぶようになりました。
 お粗末ながら【左甚五郎作の日光の眠り猫】の外伝でございます。