論攷 延喜式神名帳
◆18007 志加海神社 (四)
日氏から海神族(綿津美氏)へ、さらに物部氏の出雲から大和の大物氏にいたる政権の変遷は紀元前三〇世紀より紀元三世紀ころまで同族、近縁氏族らの支配が行われたと考えられる。長い間には、小さな争いや確執も生じたであろうが、この同氏族支配社会は致命的な国家存亡にまでいたるような破綻が生じた形跡がないようである。
その安定した社会構造に変異が生じたのは大和政権(天皇)の勃興である。大和政権(天皇)は2度にわたって困難を乗り越えた。一回目は、祭政一致を目指すところから、九州の
海神族(綿津美氏)に対し、祭祀権の引渡しを求めたことである。チュウアイテンノウ(仲哀天皇)と第二夫人ともいうべきジングウコウゴウ(神功皇后)は九州に赴き海神族(綿津美氏)に対して祖信の引渡しを求めたと考えられる。しかし、チュウアイテンノウ(仲哀天皇)は志半ばで死去。ジングウコウゴウ(神功皇后)とタケノウチノスクネ(武内宿禰)は三韓をめぐって、斡旋・媒介の道を模索したもののならず、九州から畿内に向けて帰還したのだった。ジングウコウゴウ(神功皇后)は、引渡しが得られなかった、三祭神、
ソコツワダツミノカミ 底津綿津見神
ナカツワダツミノカミ 仲津綿津見神
ウワツワダツミノカミ 表津綿津見神
に代わり、
ソコツツオノミコト 底筒男之命
ナカツツオノミコト 中筒男之命
ウワツツオノミコト 上筒男之命
の三神をたて住吉の神として祀ることになった。
ジングウコウゴウ(神功皇后)は大和のカモ氏を祖先とし、近江(滋賀県)北部に勢力を有したオキナガタラシ氏(息長帯氏)の息女と言い、タケノウチノスクネ(武内宿禰)もまた朝鮮半島からの渡来系支族だといわれる。
二回目の主張は大物氏(出雲氏)に対する【國譲りの強訴】であり、ヒタチの鹿島神と香取神の支援を得て、最後まで肯き入れなかった諏訪神は信州(長野県)に封じ込められた。こうして、大和政権(天皇)の簒奪はみごとに成功したのだった。
この時代は日本政権第四期とする。