暘州通信

日本の山車

◆18007 志加海神社 (五)

2011年01月12日 | 論攷 延喜式神名帳
論攷 延喜式神名帳
◆18007 志加海神社 (五)

 大和政権(天皇)はたびたびの難関を乗り越え安泰を保ったが、昭和二〇年(一八四五)第二次世界大戦において敗戦。無条件降伏に到り、天皇政権は崩壊。平和憲法の制定により【象徴】としてのみ存続し執政権から離れることになった。
 この時代は日本政権第五期とする。

◆18007 志加海神社 (四)

2011年01月12日 | 論攷 延喜式神名帳
論攷 延喜式神名帳
◆18007 志加海神社 (四)
   
 日氏から海神族(綿津美氏)へ、さらに物部氏の出雲から大和の大物氏にいたる政権の変遷は紀元前三〇世紀より紀元三世紀ころまで同族、近縁氏族らの支配が行われたと考えられる。長い間には、小さな争いや確執も生じたであろうが、この同氏族支配社会は致命的な国家存亡にまでいたるような破綻が生じた形跡がないようである。
 その安定した社会構造に変異が生じたのは大和政権(天皇)の勃興である。大和政権(天皇)は2度にわたって困難を乗り越えた。一回目は、祭政一致を目指すところから、九州の
海神族(綿津美氏)に対し、祭祀権の引渡しを求めたことである。チュウアイテンノウ(仲哀天皇)と第二夫人ともいうべきジングウコウゴウ(神功皇后)は九州に赴き海神族(綿津美氏)に対して祖信の引渡しを求めたと考えられる。しかし、チュウアイテンノウ(仲哀天皇)は志半ばで死去。ジングウコウゴウ(神功皇后)とタケノウチノスクネ(武内宿禰)は三韓をめぐって、斡旋・媒介の道を模索したもののならず、九州から畿内に向けて帰還したのだった。ジングウコウゴウ(神功皇后)は、引渡しが得られなかった、三祭神、
   ソコツワダツミノカミ 底津綿津見神
   ナカツワダツミノカミ 仲津綿津見神
   ウワツワダツミノカミ 表津綿津見神
 に代わり、
   ソコツツオノミコト 底筒男之命
   ナカツツオノミコト 中筒男之命
   ウワツツオノミコト 上筒男之命
 の三神をたて住吉の神として祀ることになった。
 ジングウコウゴウ(神功皇后)は大和のカモ氏を祖先とし、近江(滋賀県)北部に勢力を有したオキナガタラシ氏(息長帯氏)の息女と言い、タケノウチノスクネ(武内宿禰)もまた朝鮮半島からの渡来系支族だといわれる。
 二回目の主張は大物氏(出雲氏)に対する【國譲りの強訴】であり、ヒタチの鹿島神と香取神の支援を得て、最後まで肯き入れなかった諏訪神は信州(長野県)に封じ込められた。こうして、大和政権(天皇)の簒奪はみごとに成功したのだった。
 この時代は日本政権第四期とする。

◆18007 志加海神社 (三)

2011年01月12日 | 論攷 延喜式神名帳
論攷 延喜式神名帳
◆18007 志加海神社 (三)
   
 スサノオノミコト(素盞嗚命)は、海神族(綿津美氏)から離れ、九州伊都(怡土)から民を移して、ネノクニに出雲の國を興した。テナヅチ、アシナヅチ夫婦の娘であるクシイナダヒメ(奇稲田姫、櫛稲田姫)を妻に迎え、生まれた子供がオオクニヌシノミコト(大國主命)である。オオクニヌシノミコト(大國主命)はほぼ全国に進出し大国を築いた。出雲、和泉、怡土、伊豆などは出雲國の痕跡の印象がある。
 オオクニヌシノミコト(大國主命)が死後オオナムチノミコト(諡号、大己貴命)とよばれるようになり祖神として祀られるようになった。オオクニヌシノミコト(大國主命)はそらく一人ではなく代々の称号であろう。最後の代のオオクニヌシノミコト(大國主命)が物部氏の長である大物氏であり、大和(奈良県)の大神神社(おおみわじんじゃ)はその霊を祀る神社であり、ニギハヤヒノミコト(饒速日命)とオオモノヌシ(大物主)は同一であろう。長野県には諏訪大社があり、タケミナカタノカミ(建御名方命)とヤサカトメノミコト(八坂刀売命)の夫婦神を祖神とする。ヤサカトメノミコト(八坂刀売命)は、越後(新潟県)糸魚川を根拠としたヌナカワ氏の娘とされる。また、タケミナカタノカミ(建御名方命)の母はカナサシ氏(金刺氏)の出身とされ、タケミナカタノカミ(建御名方命)とともに信州まできたが、子供と別れ自分は晩年を辰野(辰野町)で過ごしそこで亡くなったといわれ、辰野諏訪神社境内に墳墓がある。諏訪湖を源流とする天龍川流域には遠州掛塚(静岡県)まで金刺姓がしばしば見られる。この時代には多くの神が祀られるようになり、神社が創祀されるようになった。
  この時代は日本政権第三期とする。

◆18007 志加海神社 (二)

2011年01月12日 | 論攷 延喜式神名帳
論攷 延喜式神名帳
◆18007 志加海神社 (二)

 日氏に次いでさらにこれを飛躍させたのが海神族(綿津美氏)であり、海神族は、北九州から中国、近畿、中部を経て、関東から東北にいたるまで勢力を拡大した、その東あるいは北への進行には稲作技術の伝習ができる多くの国内移民が行われた。
 この海神族(綿津美氏)とおなじ、あるいは支族と考えられる氏族がカモ氏(賀茂、加茂、鴨、加毛など)、ムナカタ氏(宗像氏)、ハタ氏(秦、畑、波田、羽田、畑野、秦野など)は、ウカノミタマノカミ(倉稲魂神)の祭祀にかかわり、のちに武人の物部氏とともに稲作の技術を各地に伝えた稲荷を祭祀した氏族であろう。
 この時代はスサノオノミコト(素盞嗚命)と、アマテラスオオミカミ(天照大神)のあいだに不和が生じ両者が海神族(綿津美氏)から離れた時期でもある。スサノオノミコト(素盞嗚命)は、朝鮮半島を経てふたたび日本に帰り、出雲の國を建国した。スサノオノミコト(素盞嗚命)は物部氏の始まりではないだろうかと考える。
 この時代は日本政権第二期とする。


◆18007 志加海神社 (一)

2011年01月12日 | 論攷 延喜式神名帳
論攷 延喜式神名帳
◆18007 志加海神社
□社名 志加海神社
□所在地 福岡県福岡市東区志賀島字勝山
□旧国名 筑前國
□祭神
ソコツワダツミノカミ 底津綿津見神
ナカツワダツミノカミ 仲津綿津見神
ウワツワダツミノカミ 表津綿津見神
□汎論
 志加海神社は、延喜式神名帳筑前國糟屋郡に記載される、筑前國十九社のうちの一坐である。
 日本創始期の由緒ある古社である。長崎県の対馬、豊玉町には、和多都美神社および、和多都美御子神社。厳原町には、和多都美神社。さらに美津島町には、和多都美神社が鎮座する。

 これは、筆者の推論である。
 縄文後期と言われる紀元前二〇〇〇年、その年央期にあたるおよそ紀元前三〇世紀ころには、西方あるいは南方より稲作が伝わり、沖縄では初期の米作がおこなわれていたと推定する。さらにこの稲作を九州に伝え、九州に一大勢力を築いたのが日氏だったと推定する。日氏の系譜は不明であるが、おそらく南方人、西方人、沖縄人、あるいは縄文人の血を混じえる民族だったのではないだろうか。この日氏の台頭により、縄文文化を築いた縄文人らの暮らしも狩猟などの採集生活から、次第に共同で稲作など農産物の生産を行う生産生活に移行していったと考えられる。つまり、縄文人ら他民族の血を混じえた日氏は、一団となってサト(里)を形成し、集団部族が共同で生活を営んだと考えられる。縄文時代にも採集を行う縄張的な集団生活は営まれ?板と推定されるが、日氏の集団はその規模がさらに大きくなったであろう。サト(里)は次第に形を整え、やがて郡邑化が進み、環濠集落などを形成して外敵から一族を守る生活が定着したと推定される。縄文文化は次第に弥生時代に移行し、一方で縄文文化は次第に消滅していった。さらに朝鮮半島(韓半島)からの渡来人たちとの交流から次第にこれら渡来人らとも交流を深め、北九州に地盤を築いたと考える。この日氏の築いた初期の日本政権第一期とする。