何とか手に入れたかった中野好夫の”主人公のいない自伝”を二女が早稲田大学図書館で見つけ借り出してくれた。ぱらぱらとページをめくったのだが、出版されてすぐ購入し読んだはずだから1982年出版の年から数えて20年以上も前のこととて、記憶違いや新しい発見があり、これは何としてもコピーして手元に置いておかなければと考えている。モラエスが英語を教えていた話は正解だったが、中野好夫が城山貝塚を遊び場にしていた話はまったく記憶に残っていなかった。まだ鳥居龍造の発掘が始まる前だったので柵もなくやりたい放題だったようだ。1から3号貝塚まであり3号は洞窟の奥行きは10mということで、私が忍び込んだ洞窟は浅く1か2号貝塚だったいうことになる。
中野好夫は城南高校(旧徳島中学)の先輩になるのだが、私の高校時代にもあった”渦の音”という校内誌、城山の蜂須賀家の千秋閣のジダンダ橋、天神祭りなどの記述などもまったく記憶に残っておらず発見だった。また、執筆当時建設中の鳴門海峡大橋の開発を見て幼時の風景が壊されていくことから、開発と自然破壊について苦言を呈しているのだが、私自身、吉野川の下流でシジミ採り、魚釣りをして故郷の自然を享受したにも関わらず、生業とはいえ明石海峡大橋や吉野川第十堰開発の片棒を担いだことに改めて忸怩たる思いを抱いている。
中野好夫は城南高校(旧徳島中学)の先輩になるのだが、私の高校時代にもあった”渦の音”という校内誌、城山の蜂須賀家の千秋閣のジダンダ橋、天神祭りなどの記述などもまったく記憶に残っておらず発見だった。また、執筆当時建設中の鳴門海峡大橋の開発を見て幼時の風景が壊されていくことから、開発と自然破壊について苦言を呈しているのだが、私自身、吉野川の下流でシジミ採り、魚釣りをして故郷の自然を享受したにも関わらず、生業とはいえ明石海峡大橋や吉野川第十堰開発の片棒を担いだことに改めて忸怩たる思いを抱いている。