備忘録として

タイトルのまま

写楽から鳥居竜蔵経由してモラエスに戻る

2005-12-14 09:22:55 | 徳島
写楽が阿波の能役者斎藤十郎兵衛である説を唱えた一人に徳島東船場出身の考古学・民族学者鳥居龍造がいる。徳島城山の麓に龍造ゆかりの貝塚遺跡があるのだが、私が子供のころの貝塚洞窟は大人の背丈程の高い丸木の柵で囲われ、侵入禁止になっていた。柵は乗り越えるものと思っていた私は、その信条どおり悪友と中に入ったところ通りかかった大人につかまりこっぴどく説教されたことがある。柵の上から中に飛び降りたとほぼ同時に見つかったため、洞窟の中を詳しく探検できなかったのだが、洞窟はさほど深くはなく、外光が最奥まで達し内部の様子をはっきりと一瞥できた。”貝塚に貝はなかった。”という発見が、この小さな冒険で私が手にしたものだった。
縁は奇なものと言うが、モラエスがこの貝塚を訪れたということが、数日前に読んだ佃實夫の”我がモラエス伝”にあった。龍造の弟子たちが発掘中の貝塚を見学に行ったモラエスは、弟子たちから辛らつな言葉を浴びせられ、その場から追い払われたということが書いてあった。我がモラエス伝はフィクションが多いので、この挿話が事実であったかどうかの検証は今後のこととしよう。
貝塚は観光案内にもないので、現在の様子は分からないが今度の帰省の折にでも行ってみようと思う。
写真は伊賀町のモラエス像


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