備忘録として

タイトルのまま

パレンバン

2016-05-25 00:27:36 | 東南アジア

記憶が正しければ、30年ぶりの再訪である。先週、仕事で立ち寄った帰りの飛行機便を待つ合間に見覚えのある場所を巡った。街は変貌していたが、昔の面影もたくさん残っていた。

下はパレンバンの中心部を流れるムシ川にかかるアンペラ橋で、2つの橋脚で吊った中央桁が昇降する。スマトラの南部に位置するパレンバンは近くで石油を産出し、製油所からの積み荷などを運ぶ大型船がムシ川を行き来するために、このような昇降橋が必要だったのだろう。日本の戦後賠償で建設した橋だから30年前にももちろん存在していた。今、橋はパレンバンの陸上交通の大動脈で橋上は大渋滞だった。現在は下流にも大きな橋がかかっている。

30年前、車の数はまばらでバンコクのように水上交通が主流だった。昔も下の写真のように、あふれる乗客を屋根に乗せた水上バスが水しぶきをあげていた。当時、アンペラ橋の両岸は水上に張り出した民家が軒を連ね、人々はムシ川で、水浴、調理、洗濯、大小便など生活のすべてをまかなっていた。現在、その貧民街は一掃され、公園やレストランとしてきれいに整備されている。

右下、30年前に長期滞在したSanddjaja Hotelは当時のままに建っていた。そのころのパレンバンでは数少ない高層ビルで、街一番の高級ホテルだった。今回の再訪でホテルのコーヒーショップに入りアイスコーヒーを飲んだ。古い場末のホテルの趣で昔日の高級ホテルの面影はなくなっていた。フロントで宿泊代を尋ねたところ驚くほど高額だった。昔の格付けのままに営業しているのだろうか。

下の写真のように商店の建物は古く、30年前の街並みのままだと思う。しかし、決定的に昔と違うのは商店の看板から漢字が消えたことだ。インドネシアは1965年の共産事件とスカルノ失脚で華僑のインドネシア同化政策が進み、ジャカルタなどでは30年前でも漢字は見られなかった。ところが、パレンバンの街中には多くの漢字が残っていたので驚いたことを覚えている。今は漢字が街からきれいさっぱり消えている。それと、当時の街に車は少なく、アンペラ橋近くにあった船着き場からSandjaja Hotelまでの道を、右下の写真に写るベチャという自転車タクシーに乗ってのんびり行き来したものだ。今では、道路に車とバイクがあふれ、ベチャにゆったり乗ることなどできないだろう。

左下は、空港と街の中心をつなぐ新交通LRTの建設現場で、これも渋滞の原因になっている。右下はアンペラ橋近くに建つ大きな真新しいモスクで、30年前にはなかった。

アンペラ橋とモスクの間に博物館があり、シュリービジャヤ王国の遺物があるという案内だったがネットでの評価が低かったので入らなかった。30歳の頃に仕事で滞在した街の懐かしい場所を訪ねると、忘れていた記憶が呼び起され感慨深い旅になった。


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