野崎港/定置網漁の漁網
ネギ畑/松島海岸
8:39定置網の漁網が広げられた野崎港を右手に見て左折し、海に向って真っすぐ伸びた水路を渡ると左手にダイビングスクールと思われる建物があって数人の若者がウェットスーツの手入れをしており、その先から右折してタマネギ畑のある農家の横を通り、最後は草原を抜けて防波堤に出ると、そこは大小の岩が点在する浅瀬の海岸で、右手は漁港に繋がり、左手には松島と言う小島があってその一帯が、『松島』を冠したオートキャンプ場になっていた。
松島海岸/松島オートキャンプ場
声かけられて道を問う/働く女たち
8:51同キャンプ場着。ざっとひと回りして利用規定などをチェックするに留め、田んぼの中の細道を通って町道に向かう。途中で声をかけて励ましてくれた農婦人に道を聞き、道のない畑の間を通らせてもらって町道に出る。
働く男たち/向こうの端にも
勝尾崎/松島をふり返る
そこにも黙々と働く婦人の姿があり、また町道から見下ろす田圃のあっちの端とこっちの端にも相呼応して働く夫婦の姿があった。再び堤防に戻り、振り返ると松島,前を見ると勝尾崎と思われる半島が望まれた。
史跡・小浦左幸屋敷跡/
がしかし、そこまで行くためにはもう一度海から離れなければならない。9:31長崎町と言う次の町との間にあるトンネルに向かう山沿いの道で木陰を求めて休み、10分後出発。9:59『小浦左幸屋敷跡』と言う町の史跡に着く。いくつかの伝説の中に『銭懸松』と言うものがある。
子殺しの跡『こつほ』/
当地に住んでいた小浦左幸は大金持ちで、土用の虫干しの時期が来ると、すべての銭を屋敷の松の枝に懸けてその眺めを楽しんでいた。さほどの金持ちでありながら、小作の百姓達は年貢を減らしてくれるように頼んだが決して聞き入れなかった。そこである日百姓達は相談して1人残らず越後に逃げてしまった。
残された左幸も『小浦の左幸も1人おられん』と後を追って越後に行ったと言うものである。これは伝説であるが、史実としても加賀藩への年貢米の未進により、一村を上げて逃散して無住になったと言う。
他にも前田利家が石動山を焼き討ちした時に石動山側について参戦した小浦の人々が上杉景勝を頼って越後に落ち延びたと言う説や、揚浜式塩田による塩づくりの技術に長けていた村人が越後の上杉氏に召喚されたと言う説があり、上杉氏との関係を窺わせるものが多い。屋敷跡には塚状の中世の墳墓や五輪の塔などが残存する。↓
小浦左幸と村民の逃散『http://www.geocities.jp/une_genzaburo/KouraSako.htm』
屋敷跡の椿の木の下に「子どもを殺した所 ここが『こつほ』」と書かれた標柱があったが、説明がなく意味不明。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます