さつま芋は江戸時代以来、現代に至るまで人気の食べ物です。
寛政5年(1793年)の冬、江戸でさつま芋革命が起きました。
焼き芋の登場です。
現代的にいうならば、さつま芋を約70度前後で時間をかけてゆっくりと加熱すると、でんぷんが糖に変化する量が最大になります。
つまり、非常に甘くなるわけです。
江戸の人々は、試行錯誤を重ねて、この70度の焼き芋を生み出したのでした。
更に幸運なことに、さつま芋はその独特の形状から、片手に持ちやすく大きさも手頃で、「テイクアウトできるスイーツ」として、女性や子供の心をつかんだのだとか。
そしてそこに、木戸番が登場します。
江戸の各町には木戸があり、不審な人物の出入りを見張る「木戸番」が警備をしていました。
焼き芋人気に目をつけた木戸番たちは、警備のかたわら、芋を焼いて売る内職を始めます。浪人の傘貼りよりも高収入の内職であったことでしょう。
こうして江戸のほとんどの町で焼き芋が売られるようになります。
時代は明治になると、人々がざんぎり頭で牛鍋をつつくようになっても焼き芋の人気は衰えを見せず、
明治30年代(1897~1906)の東京には830軒の焼き芋小売店があったとか。
しかし1923年の関東大震災でその多くが焼失してしまい、現代の焼き芋屋で由緒正しい店は数えるほどしか残ってはいません。
ちなみに、町でよく見かける屋台式石焼き芋や移動式石焼き芋は、戦後に登場した新式です。
さて、さつま芋と言えば、副産物としての放屁を語らずにはいられません。
下卑た話で恐縮ですが、日本文学を代表する作品にもこの表現が出てきます。
太宰治「富嶽百景」の中で、井伏鱒二が富士山の見える峠で放屁をしたと書かれています。
何でも眺望のよい峠に一緒に登ったはよいが、濃霧のために富士山が全く見られない。つまらん。
井伏氏はそこで放屁をしたというくだりです。
原文にはこうあります。
「・・・井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆっくり煙草を吸いながら、放屁なされた。いかにも、つまらなそうであった。・・・・・」
後々、井伏氏は、自分は放屁などしていない、と抗議したとも伝え聞きます。
ですが、ご本人達が他界された今となっては、真偽の程は屁の・・あ、いや、霧の中となりました。
ただ言えることは、さつま芋を食した後はつまらなさそうに放屁するのが文学的と…いうこと。
くれぐれも、はしゃいだり、犯人探しをすることの無いよう、注意したいものです。