新型コロナウイルスは感染を拡げ、変異を遂げながら益々猛威を増している。このウイルス・パンデミックがこの人類社会の矛盾を見事に暴き出した。その代表的なものが日本が開催しようとしているオリ・パラピックである。五輪が何のためにあるのか、五輪は「人類の平和の祭典」といわれてきた。いまやそのうたい文句はうそ寒い。そもそも五輪を日本へ呼び込んだ時、当時の安倍首相は、東日本大津波震災の復興のため、といった。今でも何万人もの避難者が仮設住宅に住む。にもかかわらず、いつの間にやら、コロナ禍に打ち克った証としての五輪開催、というふうに変わってしまった。目的や大義が変わってしまった。被災者や被災地は置き去りにされた。コロナ禍に打ち勝った歓喜の祭典に変わった。無観客での開催が濃厚である。これで誰が歓喜するのか、IOCかJOCか、アメリカのテレビ局か?医療関係者は苦しむ。ワクチンの適用実施に関して極めて拙速に感ずる。五輪開催のための何が何でも感染者の減少をというはやる気持ち、報道を聞く限り前のめりの姿勢が極端だ。今すぐにワクチンを打ちたくないという人が6割もいる。副反応が恐ろしいのである。着実な治験とその結果が必要だ。これらがはっきりするまでは自粛やマスク着用、アルコール消毒、三密回避という今までしてきた地道な対策をしっかりと進めることである。
以上見てきたように、オリンピックというものが初期の理念が薄れ政治家やIOCなど運営者の権力誇示の道具に成り下がっているし、何故か米国の一テレビ局の放映と利益獲得の道具となってい、競技者や観客の立場を第二義的なものとしてしまった。以前からオリンピック開催の時期選びが真夏の酷暑を観客にも競技者にも犠牲を強いてきた。何となくこの時期選びがズルズルと放置されてきたが昨年はマラソンだけ北海道へと計画変更されたが、抜本的な対策ではない。そこへ変異種の出現も新たにコロナ禍の先の見えない長期化が決定的である。それは五輪開催の決断を迫ってきたのである。まだワクチン効果の判断や何よりも安全性が完全に決まっていない。そのワクチン接種を急ぐだけしか対策のなさそうな関係者の今夏の五輪開催への突き進む姿は暴走としか見えない。人命を尊重するならば慎重さこそ求められねばならないと思う。ワクチン接種は急がねばならないがあくまでも慎重に安全性が確保されることを見届けて着実に進めて欲しい。コロナ禍が今夏の五輪開催可否に求める判断はそこにある。