透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

― 久しぶりに聞く半鐘の音

2012-04-22 | A 火の見櫓っておもしろい


東筑摩郡朝日村にて 撮影120422 

 火の見櫓の半鐘を叩かなくなった自治体が多い。以前ある村でその理由を聞いたことがある。消防団員の負担軽減のため、住宅の気密性がよくなって半鐘の音が室内で聞こえにくくなったなどの理由が挙げられたと記憶している。団員の親から火の見櫓にのぼるのは危険だというなんともトホホな意見もあったとか。

今朝(22日)火の見櫓に消防団員がのぼっているのを偶々見かけた。団員に声をかけると何やら行事があるとかで、半鐘を叩くのだとか。で、写真を撮らせてもらった。半鐘を叩くところを見るのは昨年(2011年)の11月以来だ。


上伊那郡辰野町川島にて 撮影111112 朝6時過ぎ

うれしい。こうして半鐘を叩くところの写真を再び撮ることができたなんて。


 


君の名は

2012-04-22 | D キミの名は?



 昨日(21日)の午後、松本城の桜を観に出かけた際、見かけた鳥。

さて、困った、この鳥の名前が分からない・・・。同定できる鳥の種類は10もない・・・。鄙里に暮らしていながら情けない。

で、ネット検索。すぐ分かった。

ヒヨドリ。

便利になったものだ。


 以前もヒヨドリの写真を載せていた。鳥の名前を覚えることができない・・・。


松本市波田の馬頭観世音

2012-04-22 | B 石神・石仏




松本市波田の中波田に祀られている馬頭観世音 撮影120421

 馬頭観世音は観世音菩薩の化身で、煩悩や悪心を断つ功徳があるという。頭上に馬の頭を置く像があることが手元の資料に載っているが、実際に見たのは初めて。

多くの馬頭観世音が造立されているが、ほとんどが文字塔。祠の左側に何基もの文字塔が並んでいる。


 


― 半鐘は残った

2012-04-22 | A 火の見櫓っておもしろい




 長野県山形村では消防団の詰所の建て替えが順次行われている。それに伴って火の見櫓も解体撤去されている。ここ上大池地区の詰所も建て替えられ、火の見櫓も解体撤去された。脚部のフォルムが美しい火の見櫓だった。残念だ。

先日様子を見に行ったところ、新しい詰所の外壁に半鐘が吊るされていた。地元の要望なのか設計者の配慮なのか分からないが、こうして昔の人たちの地域を愛する気持ちが継承されたところを見てうれしくなった。




滑らかな曲線を描く脚部 

今は無き火の見櫓、半鐘は残った。


本稿のタイトルは山本周五郎の 「樅ノ木は残った」という歴史小説に倣った。 


デザインの基本的な条件

2012-04-21 | A あれこれ



 生意気にも「デザインの基本的な条件」などというタイトルをつけてしまった。

ある建築材料のカタログに上のようなマークが表示されていた。その材料はリサイクル製品として長野、茨城、福岡の3県に認定されていて、3県の各マークはそのことを示している。

茨城県のマークはリサイクルのデザインとしてありふれてはいるが明快で分かりやすい。福岡県のマークはF(福岡のローマ字表記の頭文字)をデザインした立体的な円環でリサイクルを示している。

この2つと比べると、長野県のマークは「リサイクル感」に乏しい。信州リサイクル認定製品という文字がなければ、このマークがリサイクルに関するものであることが分かるかどうか。10人に聞いて10人とも正解するだろうか。おそらく否、だろう。勤務先で試してみたい。

山から伐り出した長野県産木材の利用促進のマーク? こんな答えをしたくもなる。デザイナーには失礼だが、矢印をくるっと描けば、はいリサイクルゥ~ といった安易な考えがなかっただろうか・・・。

長野県のリサイクルマークは、私には一方向の流れに見えてしまう。JISマークと同様の表現だ。リサイクルとリユース、この違いをも考慮したデザインは茨城。

マークのデザイン、いやマークに限ったことではない。デザインには伝えるべき情報が当然ある。その内容が明確に伝わらなくてはならない。そしてデザインは美しくなくてはならない。本稿で書きたいのはこのことだ。

以下、具体例を示す(以前書いた記事に手を加えて再掲する)。


某メーカーのカタログより

以前はドアに握り玉をつけることが多かったが、最近ではレバーハンドルが圧倒的に多くなった。確認するまでもないことだが、上の写真のレバーハンドルは下げる(時計回りに回転させる)という操作をする。ふたつを比較した場合、どちらがこの操作が分かりやすいか。どちらがこのことをより明確に伝えるデザインか。

回転させるという操作が視覚的に伝わってくるのは右だ。左はレバーハンドルが初めてという人なら手前に引いてしまうかもしれない。

繰り返すが、デザインには伝えるべき内容(情報)が明確に分かりやすく表現されていなければならない。小さな子供、ハンディを持った人、お年寄り、誰にも分かりやすいこと、これがデザインの基本的な条件だ。このことがデザインの世界で常識になるのはまだまだ先のことのようだ、少なくともこの国では。

こんなことを書かずに老人力の付いた自分の理解力の無さを嘆くべきか・・・・。


 


― 富士山と火の見櫓

2012-04-20 | A 火の見櫓っておもしろい



 昨年末、原田泰治が描いた昔懐かしいふるさとの風景を題材にした切手「ふるさと心の風景」シリーズの第10集が発行された。甲信越地方の各地の風景を題材としたデザインで、その内の一枚、山梨県山梨市の風景には火の見櫓が描かれている。

以前は中央線の列車の窓から民家を見ることが多かった。諏訪から茅野にかけてはたてぐるみの民家、鉄平石一文字葺きの屋根とすずめおどり。塩山辺りでは櫓造りか突き上げ屋根の養蚕農家というように。

でも最近は火の見櫓を探すようになった。山梨県にも火の見櫓が多い。窓外に何基も見つけている。いつか山梨県の火の見櫓巡りをしたい。上の絵のような富士山をバックに立つ火の見櫓、いいな~。





 


「考現学入門」

2012-04-17 | A 読書日記


『考現学』 今和次郎/ちくま新書 

備忘録

考古学に対して考現学。非常に守備範囲の広い考現学。その中の路傍採集(これは藤森さんたちの路上観察学会につながる)は火の見櫓も対象。今さんはやはり江戸時代の喜多川守貞の仕事を意識していた(360頁)。

○東京銀座街風俗記録:洋服の色、シャツのカラー、ネクタイ、靴、帽子、髪型などの種類と比率。女性の歩き方(内マタ、直、外マタ)の調査などなど。

○郊外風俗雑景:住宅の和様比率、屋根葺き材の種類と比率、商店街の構成、看板、柵と垣根など。 

○下宿住み学生持物調べ、新家庭の品物調査。

○カケ茶碗多数(ある食堂の茶碗のどこが欠けているかの調査)、洋服の破れる個所などは今ではできない調査。

○住居内の交通図 「彼女はどの敷居を一日に何回またぐか?」という調査、住宅の間取りはいかになさねばならぬか、ということへの基礎的研究。類似の研究はいまでもある。

○机面の研究:机の上に置かれているもの(花、スタンド、本、辞書、用箋、ペン、インキ)とその配置統計。


新しい学問はその対象をよく観察することから始まる。対象をよく観察して統計的にまとめることが学問のスタート。考現学のモデルノロジオ、生物学のバイオロジオ(共にラテン名か?)に倣って火の見櫓の観察をヤグラノロジオとするか(笑)。


 


気持ちを新たに

2012-04-16 | A あれこれ

■ 今からちょうど6年前、2006年4月16日に下の投稿からブログを始めた。そして既に2700稿を越える記事を書いた。一日一稿を越えるペースには自分でも驚いている。記事は量より質、いやブログの場合、質より量だと言えるかもしれない。勝手な思いだ。


ブログを始めるときに考えた到底ありそうにないタイトルを試みにネットで検索してみると、なんとヒット。で、別案だった「透明タペストリー」とした。透明なタペストリーは目に見えないわけだから、壁飾りの役目を果たさない。毒にも薬にもならないような文章でいいから綴っていこうという想いをタイトルに込めた。

ところで、人は誰でも自己表現したいという欲求、別の言い方をすれば情報発信をしたいという欲求があるのではないだろうか。自己顕示欲といえばあまりいいイメージではないが。人はそれをいろいろな方法で実行している。

絵を描くことが好きな人は展覧会に出品する機会を、合唱が好きな人は発表会で歌う機会を得ているだろう。プロの俳優や歌手は自己表現することを仕事としているわけだから、満足度が大きいだろう。プロスポーツ選手や大きな大会に出る選手も然り。

新聞にエッセイや短歌を投稿する人もいるし、自費出版する人もいる。仲間とカラオケに興じるのも自己表現と見ることができる。オシャレをすることもそう。このように人は何らかの方法で自己表現をしている。生物では外からの刺激に反応して情報発信することが生きていることの証となる。

ブログは実に簡単な(パソコンの操作を覚え、投稿方法を理解しなくてはならないから簡単ではないか)、もとい、便利な自己表現の場だ。このgooブログの登録件数は日々増え続けていて、とうとう170万件を越えた。いかに多くの人がブログでの自己表現、情報発信を望み、実行しているかが分かる。私も書きたいことを書いて、情報発信をしてきた。発した情報が有用であったかどうかは別として。

でも、「繰り返しの美学」や「火の見櫓っておもしろい」、随分昔の写真を載せた「民家昔の記録」には今までにいろいろな反応があった。これからも書きたいことを書きたいように書こうと思う。



ここで改めて拙ブログを読んでいただいている皆さんに感謝します。

「いつもブログを読んでいただき、ありがとうございます」

透明タペストリー工房@信州の緑豊かな鄙里  U1  20120416



 


「平安のマルチ文化人 空海」

2012-04-15 | A 読書日記


 この4月から檀家総代を務めることになった。20数年ごとにまわってくる大役だ。私には今回が最初で最後の役となるだろう・・・。これから3年間菩提寺の年間行事に合わせて準備など裏方の仕事をすることになる。

菩提寺の宗派は真言宗だ。開祖は弘法大師空海。これを機会に空海について基礎的な知識を得よう。



『平安のマルチ文化人 空海』頼富本宏/NHKライブラリー この本は何年か前に読んでいるが、再読したい。



司馬遼太郎の『空海の風景』中公文庫については『「空海の風景」を旅する』 NHK取材班/中公文庫の帯に**弘法大師空海の足跡をたどり、その時代風景のなかに自らを置き、過去と現在の融通無碍の往還によって、日本が生んだ最初の「人類普遍の天才」の実像に迫る。構想十余年、著者積年のテーマが結実した司馬文学の最高傑作。**とある。司馬文学の最高傑作かどうかは分からないが、この作品も再読したい。

読みたい本が次から次へと出てくるのでどうなるか分からないが、これらの本は3年間で読むことができれば良しとしよう。

総代の3年目だから2014年には高野山にも出かけることになっている。高野山は密教の宣布を始めた空海が構想し、獲得した密教空間で密教修法の実践場だ。金剛峯寺の大塔、西塔などは以前から見学したいと思っていた。興味深い空間体験をすることになるだろう・・・。


 


朝日村の馬頭観世音

2012-04-13 | B 石神・石仏



 馬頭観世音の基礎知識を手元の資料(『安曇野 道祖の神と石神様たち』西川久寿男/穂高神社)を参考に。

馬頭観世音には煩悩や悪心を断つ功徳がある。地獄、餓鬼、修羅、天上など六道のひとつ、畜生を教化する観音。観音には珍しく怒りの姿で、頭上に馬を置く像と人身馬頭の像がある。時代が下るに従って簡単になり、宝冠をつけるかわりに馬の頭を置く像が多くなる。

「馬頭」という名前から次第に馬の神様として崇められるようになり、馬が死ぬと供養のために文字塔が建てられた。馬頭観世音は次第に本来の性格から離れ、素朴な民間信仰へと変わっていった。

上の写真は朝日村西洗馬(長野県)にある馬頭観世音の文字塔で、数えたら36基あった。はじめからこのように1ヶ所にまとめて祀られていたわけではもちろんない。何年か前、農道整備に伴いあちこちから集められたと記憶する。

明治時代のものが多いが江戸末期のものも何基かある。



嘉永7年(1854年)

安政2年(1855年)、同3年(1856年)

文久1年(1861年)

天保10年(1839年)

この地に暮らした遠い昔の人びとのこころを想う・・・。


 


精度について

2012-04-12 | A 読書日記



 30年以上も前、1979年に読んだ『時間・空間・物質』小野健一/三省堂選書。この本の「はじめに」から少し長くなるが引用する(この部分を以前も引用して書いた)。

**物理学は精密科学である。ところが精密というのがまたいろいろ誤解の多い言葉である。精密とは一口で言うと適用限界を心得ていることであって、有効数字の桁数の多いことではない。実験値をグラフの上にプロットした結果が散ってしまって、あまりきれいに一つの曲線の上に乗ってくれなかったとしよう。

物理学者ならば目分量で大体の傾向をにらんでなめらかな曲線を一本引くであろう。あるいは、鉛筆の代わりに太いチョークを使って、どの実験値も曲線の上に乗るように太い線を引くであろう。こんなやり方に対して反応の仕方に二つのタイプがあるようである。

第一のタイプは若い研究者に多いタイプで、物理学は精密科学なのだから、太いチョークなどを使うのは飛んでもない。データが散ったらそれはそれで仕方がないから、測定値をそのままぎざぎざの線で結ぶべきという反対である。(中略)

第二は技術者に多いタイプで、はじめのデータが散っていたこと、それを太いチョークで結んだことを忘れて、太い線で描かれた公式を使って小数点以下何桁でも計算するタイプである。(中略)

物理学者が太いチョークを使うのは少しもさしつかえない。物理学が精密科学であるというのは、細い鉛筆を使うことではなくて、使った鉛筆の太さを最後まで忘れずにいることなのである**(8、9頁)

以上の引用はこれから書こうとしていることを的確に指摘しているとはいえないかもしれないが、根っこにあるものは同じだ。

求められる精度を遥かに超えるような精度で仕事をするというのは、いかがなものかと思う。

例えば建築工事でコンクリート土間のレベルの精度について、±10mmであれば充分だとする。その次の床下地の工事でこの程度の誤差を問題なく吸収できるから、というのがその理由というわけだ。

でも精度にこだわる左官職人がいて、±5mmに仕上げたが予定より時間が余計かかったとする。このことで次の工程に支障を来したとすれば、問題になる。必要以上の精度の仕事をすることは、このような場合には自己満足のために過ぎないのではないか、と私はみる。これでは困るのだ。もちろん必要な精度を確保できていない仕事も困るのだが。

トータルに考えて求められる精度を見極めて仕事をする。それが共同作業の場合の基本、というか常識のはずだが、どうも世の中そうでもないようだ。小数点以下1桁の計算で充分なのに、3桁までするといったことが結構あるのではないだろうか・・・。ざっくりと概算する場合、円周率は3.1で差支えない場合だってあるだろうに常に3.14で計算するなどというのはナンセンス。逆に円周率を小数点以下10桁くらいまで求めなくてはならない場合もあるだろう。えーと、3. 1415926535・・・ かろうじて10桁くらいまでは覚えている。

必要な精度を仕事の全体像から見極め、的確に応える。これは何も技術的な仕事に限ったことではないだろう。


 


「道教の世界」

2012-04-11 | A 読書日記


『道教の世界』菊池章太/講談社選書メチエ

 本書を読了したが、道教の世界へ入り込むことができたとは到底思えない・・・。ただ道教の世界が実に広くそして深いことだけは分かった。**道教にたずさわる研究者の領域はじつに多様である。中国哲学、宗教学、東洋史、文化人類学、民俗学、中国文学、演劇史、東洋医学を専攻する人もいる。**(178頁) 本書にもこのような記述がある。

*****

腹の虫がおさまらない、虫のいどころが悪かった、虫が知らせる、浮気の虫、疳(かん)の虫。この「虫」って一体何だろう・・・。これは道教の三尸(さんし)、人の体なかにいるといわれる鬼神の類なのかもしれない。

**この虫は人が早く死ぬのを望んでいる。死ねば思いのままに浮遊して供物をあさることができる。そこで干支の庚申の日になると体から出て、人の寿命をつかさどる神様のところへ行く。その人が犯した罪科(つみとが)を告げ口しに行く。**(125頁) 長生きしたいなら庚申の日に眠ってはいけない。三尸が体から出られないように見張りをする。これを道教では守庚申と呼ぶ。やがて庚申信仰は仏教の中に取り入れられて、日本では青面金剛が祀られるようになる。この辺りの事情が本書の第五章 民俗/医療/日本文化 に詳しい。このことについては既に知っていたから、本書で復習することになった。

**道教は体系としては日本に伝わっていない。しかし民俗のなかには道教とも中国とも意識されずに入り込んでいるものもある。むしろそうしたところに道教という宗教の本質にかかわるものがあると思う。**(177頁)


庚申塔  長野県東筑摩郡朝日村にて

路傍に祀られている庚申塔、身近な石塔の背景には宗教の長い長い歴史があり、しかもアジアにまで繋がっている・・・。本書を読んでこのような感慨にひたることになった。このことだけで良しとしよう・・・。