■ 前々稿に載せた山形村下竹田の火の見櫓の脚元にこの「警鐘楼建設費寄附者芳名」表示板が置いてある。ここには約250人の氏名と寄付金額が記入されている。 「昭和参拾七年六月貮拾四日」とあるから、今からちょうど50年前、地元の多くの人たちの寄付によって火の見櫓が建設されたことを示す貴重な資料だ。
既に書いたが火の見櫓の歴史は江戸の明暦の大火(1657年)の翌年に設けられた定火消と共に始まる。木造であった火の見櫓や火の見梯子は明治の後期になると次第に鉄骨造になり、大正から昭和初期に全国的に急増した。
戦時中は金属回収令により、多くの火の見櫓が解体され、供出されたという。その際、半鐘を隠して供出しなかったこともあったと聞く。昭和20年の終戦。今現在各地に立っている火の見櫓は昭和20年代後半から30年代にかけて建設されたものが多い。
火の見櫓の多くは上の銘板が示すように多くの人たちの、おそらくは郷土愛に根差した気持ちからの寄付金によって建設されてきた。長年風雪に耐えて立ち続け、地域を見守ってきた火の見櫓。
郷土を愛する人たちのこころの象徴でもある火の見櫓。それを不要となったからといって、跡形もなく撤去してしまっていいものだろうか・・・。