透明タペストリー

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辰野町沢底入村の道祖神

2021-10-17 | B 石神・石仏


上伊那郡辰野町沢底入村 双体道祖神 撮影日2021.10.16


 山の斜面に何基かの石仏と共に双体道祖神が祀られている。「日本最古の道祖神」という看板が設置されている。説明文は文字のペンキが剥落していて読み取れない。


櫛形に整えた石(高さ75cm、幅50cm)に双体道祖神が彫られている。男神が女神の着物(服装についてはよく分からない)の裾を男神が手で掴み、女神が手を添えて開いているように見える(*1)。となると、ちょっとエッチなしぐさということに(*2)。厄病神はアツアツのカップルには寄り付かないとのことだから、このしぐさも頷ける。集落の賽の神としての役割を負う神様のデザインに相応しいともいえるだろう。両神の姿形が整っていて、石との大きさのバランスも良い。


像の右側に永正二年、左側に入澤底中と彫り込まれている。永正二年は室町時代で西暦1505年。建立年が彫り込まれた道祖神で最古と言われている。ただし真贋は定まってはいないようだ。像がそれほど損耗していないということも、後年同じように彫って建立し直したのではないかという理由のひとつに挙げられている(*3)。安曇野でよく見られる花崗岩の道祖神は損耗しやすいが、石質によっては経年に伴う損耗がそれ程ないこともある。仮に損耗してしまって像がはっきりしなくなったからと、建立し直すことが道祖神や青面金剛像などの石神・石仏で実際に行われていたのだろうか・・・。仮に行われた場合、再建立した年を刻まないということも不自然だと思うがどうだろう。作風についても指摘があるが、凡そ芸術表現というものはいつの世でも多様なものと捉えたい。入澤底中という刻字について。今は沢底入村だが、昔この地は入澤底村だったようだ。室町時代のことは不明。


*1 このような姿を「裾まくり像」と分類している文献もある。『双体道祖神』伊藤堅吉(緑生社 発行年不明)
*2 直接的な表現のものもある。
*3 上掲書にこの道祖神について次のような記述がある。**像碑の風化状態、作風などから、後年同所にあった古碑の口伝年代をこの碑を再建した時刻入した疑念がある。**(105頁)ただし双像記年刻銘代表碑表(107頁)には掲載されている。ちなみに同表で 2番目は大永2年(1522年)所在地はやはり長野県で北安曇郡松川村大泉寺となっている。



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