透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

「楡家の人びと」北 杜夫

2020-11-23 | A 読書日記

 北 杜夫の『楡家の人びと』(*1)が新潮社から刊行されたのは1964年。この年、北 杜夫37歳。

この長編小説も自室の書棚に並ぶのは新潮文庫。『木精』もそうだったが、『楡家の人びと』も単行本を書棚に並べておきたいと思い、一昨日(21日)松本の古書店・想雲堂で買い求めた。こうして再び書棚の本が増えてゆく・・・。

**戦後に書かれたもっとも重要な小説の一つである。この小説の出現によって、日本文学は、真に市民的な作品をはじめて持ち、小説というものの正統性(オーソドクシー)を証明するのは、その市民性に他ならないことを学んだといえる。(中略)これは北氏の小説におけるみごとな勝利である。これこそ小説なのだ!**三島由紀夫の絶賛文が箱の裏面に載っている。

トーマス・マンを敬愛していた北 杜夫は「ブッデンブローク家の人びと」に感銘を受け、いつかは一家の歴史を書いてみようと大学生のころからずっと考えていたそうだが(「マンボウ 最後の大バクチ」、「どくとるマンボウ回想記」による)、この小説を30代半ばで書いている。凄いとしか言いようがない。これほどの長いスパンのなかで、多くの人物がリアルな存在感を持って描かれた小説が日本にどのくらいあるだろうか。私は藤村の「夜明け前」くらいしか直ちには浮かばない。


*1 毎日出版文化賞受賞作品

本稿は2012.01.15の掲載稿の一部を引用し、加筆した。


古田 晁 記念館を訪ねて

2020-11-23 | A あれこれ

 岩波書店の創立者である岩波茂雄が信州は諏訪の出身であることはよく知られている。筑摩書房の創立者も信州出身であることを知る人も少なくないと思う。

筑摩書房創立者の古田 晁は長野県東筑摩郡筑摩地(ちくまじ)村(現塩尻市北小野)の出身。筑摩書房という名前は古田の出身地の名前に由来する。生家は塩尻市に寄付され、現在記念館になっている。昨日(22日)この記念館を訪ねた。




記念館外観(館内は撮影禁止)

蔵造りの記念館の1階が展示室で古田 晁の年譜をはじめ交流のあった作家の写真や書簡などが展示されている。2階は3間続きの和室(10畳、8畳、6畳)で、説明板にあるように多くの作家が逗留している。なお、この建物は渡り廊下、門と共に登録有形文化財(2009年4月登録)。


ついこんなところに目がいってしまう。これは2階の雨戸の戸袋で銅板亀甲張り。

記念館に設置されていた説明板を掲載することで、記念館に関する説明の文章化を省略する。





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太宰 治が玉川上水に入水する前日に当時大宮に住んでいた古田 晁を訪ねるも、古田は実家に帰省中で不在だった・・・。

「会えていたら太宰さんは死なんかったかもしれん」という古田痛恨の言葉が記念館の案内リーフレットに載っている。そう、古田と太宰とは交流があったのだ(*1)。

文学散歩も良いものだ。今度は臼井吉見の記念館を再訪しよう。


*1 古田と太宰の交流については11月8日に塩尻のえんぱーくで行われた作家・松本侑子さんの講演(古田 晁が敬愛した太宰 治と「人間失格」)で詳しく聴いた。この講演で松本さんは太宰の葬儀の時の古田の弔辞を涙ながらに読んだ(弔辞の原稿は記念館に展示されている)が、その時はぼくも涙してしまった。

 


塩尻市北小野の火の見櫓

2020-11-23 | A 火の見櫓っておもしろい


(再)塩尻市北小野 4脚44型 撮影日2020.11.22 

 塩尻市北小野にある両小野中学校のグラウンドの隅に火の見櫓が立っている。学校の敷地内というのは、珍しいかもしれない。以前見ているが(過去ログ)再び観察した。

この火の見櫓は全形が整っていて、屋根と見張り台のバランスも良く、美しい。



4隅を面取りした見張り台。手すりには櫓同様リング付き交叉ブレースが設置されている。手すりの変形に対して有効かもしれない。このくらい避雷針が長くてすくっと立っていると見た目にも良い。


トラス組のがっしりした脚。

 

火の見櫓製作所の所在地は「筑摩地村」。