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透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

「国語教育 混迷する改革」読了

2020-01-17 | g 読書日記

 読了した『国語教育 混迷する改革』紅野謙介(ちくま新書2020)は6章で構成されているが、第3章の「教室の「敵」はどこにいる?」で展開されている「学習指導要領」に対するかなり厳しい批判を読んで、そもそも国語教育では一体何を教育すべきなのか、という本質的な問題があることを改めて認識した。

書籍は年7万点も刊行されているそうだ。その一方で(もう何回も書いているが)本を読まない大学生がかなりの割合でいるという事実。読むのはSNS上のつぶやきの短文、書くのも短文、いや文章ともいえないような単なることばの羅列。

国語教育に何を求めるのか。この難しい問いかけに自分はどう答えるだろう・・・。

小説や論文などの長文を読み通す力、書かれている内容を味わい、理解し、読後に小説であれば感想を、論文であれば理解した内容を論理的に話したり書いたりして人に伝えるということを通じ、様々な種類の情報を理解する力と自ら様々な情報を発信する力(の基礎)を育てること。

この様な能力が身に付くのであれば、教育方法は教師の裁量で良いと思う。だが、文科省ではそれではダメ、ということのようだ。

『国語教育 混迷する改革』の第3章では学習指導要領に関する文章がいくつも取り上げられ、それに批判が加えられている。

例えば次のような文章の引用**こうしたことは、教育関係者なら誰もが知っていることである。にもかかわらず、高校教師の中には、学習指導要領をあまり読んでいない者もいると聞く。・・・(中略)・・・そうした基準としての学習指導要領を教師が十分踏まえない事態が生じるならば、教育課程の「水準偽装」が行われかねない。子供たちが本来身に付けるべき資質・能力を育成する指導が行われず、教師個人の趣味にも近い授業が行われるならば、教科国語の共通性は瓦解してしまうだろう。**(124頁) 

「先生たち、学習指導要領に則って、ちゃんと同じ授業をしてくださいよ」ということだが、確かにこのような内容には私も疑問を感じる。

特に義務教育でもない高校の国語の授業で、どの高校の、どの教師でも同じような授業が行われることの必要性って本当にあるのだろうか。必要ならAIロボットでも使う?